Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    いずみのかな

    @runco_a

    もともと創作文芸にいましたが最近は二次パロ小説ばかり書いてます。主にパトレイバー(ごとしの)、有栖川作家編(火アリ、アリ火)。甘くない炭酸が好き。

    wavebox https://wavebox.me/wave/3bc8ifyny7xtzm5l/
    マシュマロ https://marshmallow-qa.com/runco_a

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 61

    いずみのかな

    ☆quiet follow

    有栖川作家編。2004年に「納涼企画」というwebアンソロがありまして、そこに掲載しましたものです ”夏に涼しくなる話”がコンセプトでしたので、そのことを強く強く心に留めたうえで、閲覧くださいますようお願いします。

    #有栖川作家編
    editedByArisugawaWriters
    #ホラー
    horror

    文ヶ淵 私の故郷は雪深い北国で、冬になると白い壁が町中を覆い、白と灰と黒以外の色彩が全て奪われる、そんなところだった。
     東京は高いビルばかりで息が詰るが、まだ赤いランドセルを背負っていたころの私には、冬になる度に積もる雪は圧迫感の象徴みたいなもので、横を通るたびにいつ潰されるか、いつ取り込まれるかと、内心恐れ慄きながら走り過ぎたものだ。
     あの中に入ったら最後、山から雪ン子が降りてきて、自分の友達にするために連れて行って、氷のべべを着させられるのだと、昔、祖母が言っていた。だから冬はじっと家の中にいて、大人しく息を潜めて春を待つのだと、間違っても雪の手招きを受けてはいけないのだと、まだ紅葉のような赤い手をした私に、何度も何度も言って聞かせたものだ。
     小学校一年のときだったか。町の外れにある米屋の娘で、私より三つ上だった美緒が忽然と消えた。
     その年は特に雪が深く、子供たちは夕日より前に家に帰って静かにしていたのだが、おてんばだった彼女は家に帰る前に、ついどこかに寄り道したらしい。夕飯が終わる前に小さな町は大騒ぎになり、雪ン子が棲む山へと焚き火や懐中電灯を持って、たくさんの男たちが入っていった。
     次の日の昼前、美緒は雪の中から見つかった。まだ積もった雪が固まっていない、柔らかなところへ落ちてしまい、しかし上へと這い上がる力はなく、そのまま凍り死んでしまったのだ。雪ン子の腕の中では眠ってはいけない、というのもまた私の祖母の話だ。しかしそれは難しいだろうとも祖母は言っていた。
     美緒の死体は私も見た。正確に言えば、見なかった町のものは皆無だ。毛布に包まれ、蝋よりも白い顔をした美緒は眠っているような静かな顔をしていて、それは人間の死体というよりもとても良く出来た人形にしか見えなかった。
     しかし、何よりも印象に残ったのは、服などにびっしりとついた白い霜のようなものだった。
     本当に、氷のべべを着せられるのだと、その姿を見た私ははっきりと悟った。美緒は雪ン子と共に山の中で遊びまわっているのだと、私は感じたのだ。そう思ったら、雪と戯れながら、楽しそうに笑う彼女の声まで聞こえてきたようで、私は余りの怖さに声をあげて泣いた。当時周りの大人たちは、私が人の死を理解して、その喪失に堪えられないのだろうと考えたらしいが、それは合っているともいえるし間違っているともいえる。死とは取り返しのつかない喪失なのだとおぼろげながらも感じたのは、そのときが初めてだっただろう。
     雪の壁は怖れの象徴だ。

     もう一つ、故郷について思い起こすのは文ヶ淵だろうか。
     文は江戸時代のいつか、農民の子として生まれ、その並外れた器量ゆえに、庄屋の息子の嫁になったという。
     春が過ぎ、夏が行き、晩秋の実りが村を彩る中、若夫婦は幸せに暮らした。ところが、冬になると夜な夜な文の部屋に続く廊下が濡れている。その事に気付いた息子がある夜寝ずの番をすると、寝て意識のない文がふらりと家を出て山へと向かう。こっそりと後をつけた息子が見たのは、山の中にある洞窟で、人魂と戯れる文の姿だったという。文は山のものにも見初められたのだ。旦那は坊主と相談し、文の部屋には経文で結界が張られた。その日以来ぴたりと奇行はやんだ。
     次の年は山からひんやりとした風が吹いた。風は稲を枯らし、大根を凍えさせ、村は飢えた。
     次の年もひんやりとした風が吹いた。また稲は青く枯れ、子供たちは腹をすかせて村のあちこちで泣き叫んだ。
     そのころには村の誰もが、それを山のものの仕業だと感じていたという。
     自分の嫁ごと考えていた文を、庄屋の息子が独り占めしたからだと。
     その年初めての雪が降った、寒い日のことだった。
     村の若いもんが庄屋の家を取り囲んだ。旦那がその時どうしたかはわからない。黙って嫁を差し出したのかもしれないし、惚れた女を命がけで守ろうとしたのかもしれない。しかし、真相はどうであれ、文は村のものの手に渡った。
     夜の深い、しんしんと雪が降る中を、文は男らと一緒に山を登っていった。白い服は純潔の証なのかもしれないし、違うのかもしれない。文は裸足だったというから、足はしもやけで皮膚が裂け、血が滲んでいたかもしれない。だとしたら、点々と朱い足跡が山の奥、森の先へと続いていったのだろう。
     件の洞窟には深い池があった。小さいけど澄んだ、静かな池だ。
     最後、男たちが文に何を言ったかは判らない。しかし、男たちが山に言ったことは判っている。
     嫁をここに還す。
     言うや否や、文は池へと沈んでいった。池は澄んでいたから、文が落ちて行く姿はいつまでもいつまでも見えていた。
     次の年、村は豊作に見舞われた。
     文ヶ淵は年間を通して水温が十度を上回らない。その場が選ばれたのは、冬にしか出て来られなかった山のもんが、いつでも文と会えるようにと考えたからだろう。
     小学校二年に上がった年、どこかの大学の冒険か探検かのサークルに属するという学生達が、日本の秘境に残っている浪漫の、ひとかけらぐらいを求めて洞窟に入っていった。
     次の日、顔を青くした学生の一人が消防を呼んでくれと里に駆け込んできた。探検に酒が必要だとは知らなかったが、ビールを呑んでいい気分だった何某が、誤って柵もなにもない文ヶ淵に飛び込んでしまったというのだ。
     私の父は消防団に入っていた。
     その学生は、水をしこたま飲んだのか、苦しそうに目を見開いたまま沈んでいたとのことだった。
     洞窟には金網が張られ、山には誰も近付かない。
     そこは雪ン子とお文のものだからだ。


     小学校高学年のころの話だ。

     町に冬の間だけ新顔がやってきた。なんでも生まれついての人嫌いでついに都会が煩わしくなり、折角ならば雪深い世界を体験したいとかで、つまり相当の物好きと言えるだろう。
     ここの訛りが無い言葉で喋る男は父よりも少し下で、たまに雪がやんだ穏やかな晴れた日は一人でふらりと歩いては、なにかに反応しては色々と納得していたものだった。男は背が高く、時に顰め面でコートを着て歩くさまは、教科書に載っていた野口英世のようにも見えた。
     これが小さな分校にどのような変化をもたらしたか、想像に難くないだろう。
     なんの変わり映えのないこの町に、冬の間だけとはいえ外のものがやってきたのだ! 私を含め、全学年合わせて四人の子供たちは大いに興奮し、結果、幼子のみに許される無分別と無鉄砲さを武器に、越してきたその日のうちにその客人の家を訪問したのだ。
     彼は嫌がるどころか歓迎してくれて、たくさんの話をしてくれた。だから、私たちも彼に請われるままに、知っている限りの話をした。彼は面白い面白いと話を聞いてくれて、更に面白い話をしてくれるものだから、その冬は学校の誰も彼もが彼の家に入り浸っていたものだ。客人は文ヶ淵の話を特に興味深く聞いてくれた。そして、多分人身御供かなにかだったのだろう、可哀想に、とただ呟いた。
     彼が何をしていたのかは私はいまだ知らない。ただ、半年にも満たない仮住まいの部屋には、横文字のものも含めて山のように本があったことと、物知りだったことから、私たちは彼を『先生』と呼ぶようになった。難しいことを沢山知っていて、しかも子供にもわかるようにと噛み砕いて説明するのがとても上手かったこともまた、先生じみていたと思う。見たことのない土地の話から星に関すること、時には簡単な英語も教えてくれた。里で英語を話せたのは先生だけだったから、私たちはまた興奮したものだ。
     気が付けば町中の人が彼を先生と呼んでいたのだから、当時から本当になんらか先生と呼ばれる人だったのかもしれない。ともかく先生はなんでも知っていて、子供だった私たちに優しく、様々な話をしてくれる人だった。

     それは雪の壁が重苦しく圧し掛かって日を遮る冬の日のことだった。年はまだ明けてなかったかもしれない。
     その日は学校での用事がえらく手間取り、私は太陽の傾きを気にしながら賢明に家路を急いでいた。夜は雪ン子のものだ。人が夜の中にいたら、彼は遠慮なく連れて行ってしまう。だから、早く、早く。
     白い息をはっ、はっ、と吐きながら大きな通りの角を曲がったとき、私はぱたりと足を止めた。
     駅のある街からこの町までは二日に一度、二往復しかしないバスを使うしかないのだけど、冬場だろうが夏場だろうが、バスは大抵素通りして行ってしまうのが常だ。しかし、その日は違った。
     ぼろろろろ……、と音を立てて黒い煙とともに去っていくバスを、顔だけ横に向けて見送っていた男は、やがてそこで止まっていた私を見ると、大またで近付いてきたのだ。バス停に立っていたときの、夕焼けの中浮かぶその影は、造形もあって瞬く間に目に焼きついた。
     その姿を見ただけで、私はもう興奮で頭が真っ白だった。また外から新しいものがやってきたのだ! しかも、今度は私だけがそのことを知っている。『私だけが知っている』、なんて素敵な響き! そんなわけでぽーっとしながらただ口を小さく開けて立ち尽くしている私に、その男の人はひょっとしたら訝しげな感じを抱いたかも知れない。
    「お嬢ちゃん、ちょっといいかな」
     私の前まで来た後、その男の人はしゃがんで目線を私に合わせてそう聞いてきた。横に置いた鞄の大きさが気になりながらも私は「なした?」と返した。
     男の人はある家を探しているという。その名前を聞いたとき、私はすぐに「わがる!」と叫んでいた。それは『先生』の家だったからだ。
    「おじさ、せんせの知り合いんだてね?」
    「うん、そうだよ」
     そのときのはにかむような顔を、私はいまだ強く覚えている。せっかくだから案内する、と日が暮れることもそっちらけで私は言ったのだが、彼はやんわりとそれを断って、大きな鞄を軽々と持つと、一人指し示した道を歩いていった。鞄に付いていた飛行場のタグから、彼が西のほうから来たことは判った。そして左手に父と同じく指輪をしてたことも。あの人んあっぱ怒らいるんべがした、と帰り道ぼんやりと考えたものだ。
     最後角を曲がる前、私はふと後ろを振り返った。
     その人の姿はもうなかった。

     次の日、放課後を告げるチャイムが鳴る間ももどかしく、私は学校を飛び出した。新たなる訪問者のことは誰にも言ってはいなかった。先生と秘密を共有することで、この冬のどきどきを更に高めたかったのだ。その日は雪も止んでいて、解けた雪の結晶がきらきらと輝き、私の肌を焼いていた。
     先生の仮住まいは、村の外れ、山のふもとに近いところにあった。去年まで住んでいた壮年の夫婦はいずこかに去り、夏に荒れ放題だった小さな家も、今は貸し別荘なんて洒落た名前で呼ばれている。
     はやる心を押さえながら軽くドアを叩くと、狭い家だ、すぐに扉が開いて、ひょっと先生が顔を出した。
     私のどきどきわくわくはいまや最高潮に達していて、もう一人の人が現れるのは果たしていつになるのだろう、今だろうか、とろくろ首になったような気分で、そわそわと何度も、何度も繰り返し背伸びをした。
     その間の時間を私はとても長く感じたが、実際は三分も経ってなかったろう。
     やがて、先生がやわらかな口調で、どうしたんだい、と聞いてきた。どうしたもなにもない。私は先生のお客様を見に来たのだ。そして、新しいお話を彼からも聞かせて欲しいと強く願っていたのだ。だから、素直に声に出した。先生、お客さんはどうしたの? と。
     先生の答えは単純だった。誰も来てはいないよ。
     私は混乱した。昨日、この家の場所を聞いたのは一体誰だったというのか。見れば玄関には靴もない。部屋に人が居る気配もない。ならば私は幻を見たのだろうか。
     目の前で呆然としている女の子を憐れんだのだろうか、先生はいつものあの優しい顔をして、ほら、だったらお入り、と私を炬燵に招いてくれて、ココアを一杯入れてくれた。そしていつもの通りお話が始まった時にはすっかり私も落ち着いていて、あの人は多分いなかったのだろう、町に新しい人がまた来れば嬉しいのに、といつも考えていたから、そのせいでいない人を見てしまったのだ、と考えるようになっていた。人に言わなくてよかった、とその時心からそう思った。ウソツキペーターにはなりたくない、ペーターは最後誰にも助けてもらえないから。
     その日は夕方近くまで先生とお話をして、私は家路についた。

     やがて雪が激しくからやさしく降るようになり、少しずつ壁から水が染み出るようになってくると、学校の皆は先生の去る日が近付いていることを否応なしに感じることになった。山のようにあった本は日に日に少なくなり、部屋は段々こざっぱりしていく。
    「せんせ、こごさのこてくれねかな。こごろもじいだろに」
     二年の佳乃が、ぽそりと言った。
     長い冬休みの間、登校日の後に私の家に集まって、炬燵できなこもちを食べていたときのことだ。
    「そんだ」
     佳乃の一言に、皆口々に同意する。先生の話は面白かったし、なによりも彼の人柄は温かく安心する人としてこの目に映っていたのだ。この小さな退屈な、雪の壁がそびえる町の中、彼が齎した波はささやかであっても、子供の心を飲み込むには十分なものであった。
    「せんせ、山さ好きだしな」
    「山?」
    「そんだ」
     三年の章太が頷いた。「あがいくとこ見た。何回か」。
    「あたらだいくなんて、大人は勇気あんな」
    「だな」
     炬燵で真っ赤になった顔が、言いながら何度も頷き合う。私は蜜柑の皮を柔らかく剥きながら、ふと先生はなんで山に入るのだろうと思った。土地のものは入らない。あそこになにがいるか知っているから。しかし、先生は入る。
     よそ者だからだろうか。
     知らないからだろうか。

     それとも――、知りたいからだろうか。

     そのいずれかも当たっていると思ったし、全部外れているとも思った。
     しゅしゅしゅ……、とストーブに置いた薬缶から湯気が盛んに出る音を聞きながら、ふと私も知りたいのかもしれない、と思う。
     本当に美緒はあの山で遊んでいるのか。
     文はあの池の底で山のものと暮らしているのか。
     突然、壁の向こうにあるはずの冬が、部屋の中に入ってきて暴れだしたように心が震えた。ガラスの向こうから手招きしていたはずの人が、突然肩を叩いたような感覚、といえるかもしれない。
     山に魅入られるもんは山のもんだ。
     そういった祖母の言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。

     その日は日が暮れる前に、皆が家へと帰った。力ない太陽が雪に反射し、辺りは昏い光に包まれている。
     皆を見送った後、窓から色褪せていく風景をぼおっと見ながら炬燵の中で足を動かしたとき、私はふと何かがつま先に当たるのを感じた。
     布団の中に顔を突っ込んで見ると、ウルトラマンのキーホルダーが隅の方に転がっている。すぐに一人の男子の顔が浮かんだ。
     これは、彼の宝物だったはずだ。
    「かっちゃ、さんじゃらっと出はるわ」
    「なして?」
    「けやぐのどこさこれ届けて来る」
    「うん、気付けへ帰ってこ」
     手早く襟巻きと手袋を身につけて、私は家を飛び出した。空には明るい星が輝き始めている。その子の家は町の外れの方だ、私は走るように雪の上を行った。
     着く頃には私は軽く息を弾ませていた。章太はそんな私の様子と手にしていたウルトラマンを交互に見て、何度もありがとう、ありがとうと礼を言った。私はその度に気にしないで、と返して、また飛ぶようにその家を飛び出した。
     太陽が翳るまで、もう時間がない。
     もうすぐ夜がやってくる。
     街燈が灯り始める中、私は薄い青に染まる空を眺めながら家路についた。いや、つこうとした。
     そのときだ。遠くの方に先生の姿を見つけたのは。
     先生はいつものコートを身に纏って、町と反対側、つまり山の方に歩いていく。気負いのない、いつもどおりの歩調だった。
     ――本当に山に行くのか。
     まず最初にそう思った。山は人のものではないと以前話したときは、何度も納得したように頷いていたことを思い出すと、とても不思議に思えてくる。
     もっと不思議なのは、次の瞬間の私の行動だった。
     私はくるりと方向を変えると、そっと先生の跡を追い始めたのだ。この土地の者として、夜の意味も、山の意味も骨身に染みてわかっているはずなのに、私はそれでも山へ入ることを躊躇わなかった。
     多分、わくわくが欲しかったのだ。先生はもうすぐいなくなる。その前に、かつて共有しそこなったそれを、私は得ようとしていたのだろう。
     先生は都会育ちだから雪道、しかも獣道のそれには慣れていないはずである。しかし、章太が言った通り何度も山に入るうち歩き慣れたのか、単に子供と大人の歩幅の違いか、程なくして私は先生を見失う羽目になった。幸いにも私は多少の土地鑑がある。どの木を曲がれば里に出れるかを思い出しながら、私はついた足跡を必死に追った。
     どんどんと暗くなる森の中を必死に歩いていくと、やがて、急に視界が開け、目の前に岩のような崖のようなものが切り立つ、そんな場所が現れる。付いたばかりの足跡は、そこで途絶えていた。

     ――文ヶ淵だ。

     私はぞっとした。
     山のものの嫁がいる洞窟、人の場所ではないところ。
     色褪せ、切れかかった注連縄が申し訳程度に渡されている入り口の金網は、過ぎた年月のためか穴が開いている。錆びた針金の網がぱっくりと割れているさまは、なにか口を開けている大入道のような、そんな怖さがあった。
     そこに立っていたのは何分ぐらいだろうか。気が付けば、いけない、いけない、と思いながらも、私は足を前へと進めていた。ひっかからないようにと気をつけながら金網に空いた穴を潜ると、そこはもう別世界だった。
     文ヶ淵へ続く洞窟は、それ程深いものではない。視界は真っ暗かと思ったが、上のほうに穴が開いているのだろうか、外からの灯りが入り、ほんのりと濡れた表面が光って見えた。
     きゅ、きゅ、と長靴のゴム底が、歩く度耳障りな音を立てる。それ以外は私の息の音のみが、耳に届く。
     しばらくびくびくしながら歩いているうちに、私はふとあることに気が付いた。
     奥のほうから、なにか煙い匂いがするのだ。
     恐らくは煙草ではないだろうか。この匂いとは違うが、喉にいがい煙は父がよく吸うものと同じ気がする。そして、先生が懐かしそうな顔をしながら煙草を吸うのを、私は何度か見ていた。と、いうことは、これが煙草だとしたら、先生は文ヶ淵にいるということになる。
     人がいる、ということは私を大層勇気付けた。いつしか足取りも多少軽く、こっそりついてきたことも忘れ、私は洞窟探検を続けていった。
     やがて金持ちの家の客間ぐらい広い場所に出た。少し先に、朽ち果てかけた杭と黒ずんだ紐で囲まれた場所がある。あれがあの文ヶ淵なのだろう。
     初めて入ったその場所は、怖いでも恐ろしいでもなく、この世ではない、そんな印象を私に与えた。
     ぐるりと見渡して見るが、不可解なことに人影はない。
     その代わりに、池の手前に置かれた何かから、煙が出ているのが見えた。
     それに気を取られながら無防備に、私は足を踏み出した。と、なにかを踏んだ感触に思わず驚いてしまう。岩の他にここにあるものなど、考えられないからだ。
     一体何だろう、と下を向くとそれは鞄だった。中身は入っていないらしくぺしゃんこだ。薄暗くて判らないが、なんとなく古いものではなさそうである。
     その場にしゃがんで、場にそぐわない珍品をしげしげと見ていた私は、次の瞬間息を飲んだ。その鞄についていたタグに、見覚えがあったからだ。
     ――誰も来てないよ。
     先生はそう言ったのに。
     私はのろのろと、池に近付いていった。いがい香りは益々強くなっていく。

     池の中には文がいるという。

     文が。

     文は。

     文とはいったい、誰なのか。

     おざなりに柵がしてある池の淵に、私はそっと立ちすくんだ。
     池の上部にも穴が開いているのだろうか、ここはほんのりと明るい。
     ごくり、と自分が唾を嚥下する音が耳に響く。
     何かに導かれるように、私は恐る恐る池を覗き込むと。





     そこには。






     そのとき、ポン、と肩を叩かれた。
    「ひ!」
     恐らくは小さな悲鳴だったはずだ。しかしその声は洞窟中に響き渡り、小さくこだまをした。
     先生は腰を抜かしかけた私をやさしい顔で見下ろし、そっと指を唇に当てた。黒々とした目は、いつもの光の代わりに、底知れぬ闇があった。どこまでも深い闇が。
     その目が怖くて、怖くて、私は何度も頷きながら繰り返した。
    「見つけえね、わたし、なんも見つけえね」
     そういう私を、先生はそっと撫でて、池の方を見る。子供の時は判らなかったが、今にして思えば、その目は愛しさと優しさと、残酷さ、そして紛れもない激情。そんなものがいっしょくたになった、総じて愛を語る目だった。
     そして彼は、また私の方を見て静かに言った。

    「ありがとな、君はほんまええ子やね」




     あの日、それからどうやって家に帰ったのか、そしてその夜どうしたのか、私はどうしても思い出せない。母に怒られた気もするし、心配したと抱きしめられた気もする。
     次の日、先生はもう町にいなかった。前の日の午前中に、町中に挨拶に回っていたとのことだった。なんでも、昼過ぎのバスに乗らないと電車に間に合わないとかで、最後の時に会えなかった子供達に挨拶が出来ないのが心残りだと、会う人会う人に何度も言っていたという。皆口々に寂しい、悲しいと言っていたが、私は一人黙っていた。口を開いたら、きっと叫んでしまっていただろう。
     あれから山には登っていない。私は思春期を迎え、そして大人になり、高校を出ると同時に東京にやってきた。子供がいない分校は廃校となり、町もやがて廃墟となるだろう。
     なぜ、今この話を思い出したのか、その理由もあやふやだ。
     本屋の一角、推理小説を置いてある棚で行われていたフェアの本を、何気なく手に取ったからかもしれない。巻末に印刷された作家の顔と、もう思い出せない先生の顔があやふやに重なり、十年も前に出された最後の作品というその本を、なぜか私は買い求めていた。
     先生は街に帰っていったと、皆は残念がっていたが、私は一人違うことを思う。
     先生はほんとは雪ン子で、愛しい人をその腕の中に得たのから、山に帰っていったのだ、と。



     今でも目を瞑ると、文ヶ淵の風景が鮮明に思い起こされてくる。
     薄く光差す洞窟、しっとりと濡れた岩肌。
     先生は池の真ん中にそっと立ち、愛しげに下を見る。
     すると、あの時池の中で眠っていた、あの男の人は眩しげに目を開け、やはり微笑むとそっと池の上へと上がってくるのだ。そして二人は池の奥へと入っていって、そっと慈しむような口付けをする。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    いずみのかな

    INFOこの度ごとしの結婚アンソロジー『隊長! 結婚おめでとうございます!』に「ふたつの世界、ふたりの世界」という短編で参加いたしました。
    『隊長! 結婚おめでとうございます!』は8/21 インテ6号館Aて62a あいぼしさまにて頒布のほか通販もあります。詳しくはツイッターアカウント https://twitter.com/gotonagumo を参照してください。
    ごとしの結婚アンソロジー参加のお知らせ 疲れた。
     この祝いの席に相応しい言葉ではないが、辟易とした気持ちをどうにか飲み込んで、しのぶは壁に寄りかかった。
    今日の装いは丁寧に結い上げた髪に肌障りも素晴らしい白藍にレースのワンピース。友人の幸せを祝うのは喜ばしいし、今日の彼女は美しかった。白磁のようなウエディングドレスに長く伸びるアイボリーのレース。花婿の顔を見て頬を赤くする様子はしのぶの心も温かくする。六月の花嫁は美しい顔で教会で愛を誓い、初めてのようなキスを交わして、飛ばしたブーケはしのぶの手元へと落ちた。
     しかしだ。先ほどのように「普通の女の幸せ」を掴んだ同級生たちに、ほら早く、私たちと同じく普通に幸せになりなさいと次々と笑顔で言われると思うとため息も出る。いわく「私もいまの旦那に会うまでは結婚なんてしないと思ってたもの、あなたも大丈夫よ」。毎度言われるこんな言葉にもいい加減慣れたが、そもそもなにが「大丈夫」なのか、こういう人を見下す善意のことをなんて言うのだっけ。
    1561

    いずみのかな

    DONEパトレイバー ごとしの ささやかな休息と、光の休日と
    かわいいひと。「そうね……、麻布温泉とか都内なら」

     夏の嵐のあと、朝日が燦燦と照る関越道で、日帰り温泉への誘いに対してそんな風に返答したときの後藤の、あからさまにがっかりした顔を思い出すたび、しのぶは何とも言えないむずがゆさと、同時にちょっとした優越感を覚える。
     全く眠れなかったのだと素直に告白してきたことと言い、普段の人を食った言動や、避難という名目で入ったラブホテルで時折見せた、あのいかがわしい雑誌を毎週愛読しているに相応しいオヤジそのものの態度とは裏腹に、中身は臆病で、遠慮がちで、ナイーブで、驚くことになによりも愛すべき紳士なのだ、後藤という男は。
     もしあの夜、電気を消してベッドとソファでそれぞれが身体を横たえた後。相手が寝ていないと悟っていながら、互いが様子を伺いに行ったとき、どちらかが思い切って振り返ったら、そして相手の身体に手を伸ばしていたら。恐らくは一夜の情熱は手に入ったであろう。ただし、それは本当に一夜だけのもので、その後二人はそれぞれに相手の熱を振り返ったとしても、二度となにも口に出さなかったはずだ。それこそ自覚した思いでさえも。
    15173

    related works

    いずみのかな

    DONEサイトを運営していたころ、広瀬彩夜子さまのサイト「#∧♭」に差し上げたものです。
    お題は「春の海ひねもすのたりのたりかな」でした。
    春の潮騒 日差しがじりじりと背を焼いていく。
     手に持って歩いているジャケットもただ暑く邪魔苦しい。白い煉瓦敷きの道に歩く人影は少なく、まるでがらんとしたこの街に自分たちの足跡が響き渡り、何度も反響しているような錯覚すらしてくる。全面ガラス張りの建物たちは陽光を遠慮なく乱反射させ、せめてもの言い訳のように植えられた、細く頼りない街路樹を黒く浮き上がらせていた。しかし、影はそれ程濃くはない。まだ夏には遠いからだ。
    「暑いな」
     横を歩く男が、足を止めて呟いた。Yシャツの袖はとうに捲くられ、少し皺が寄ったハンカチで首筋を拭う。
    「殆ど風が無いからな」
     有栖は返して、隣に立ち止まった。歩道は煉瓦と青いガラスによる洒落たデザインが施されている。しかし、ガラスが嵌っていただろう場所は大抵ぽっこりと穴が開いていた。確かにガラス製の煉瓦はオブジェとしても美しいだろうが、だからといって歩道に埋まっているものをわざわざ外して持って帰るのは酔狂としか言い様がないだろう。
    8511

    いずみのかな

    DONE有栖川作家編。健全ホラー。
    『文が淵』と同じく、2004年、有栖川サイトの納涼企画ウェブアンソロに寄稿しましたものです。
    終盤のある箇所について、ウェブアンソロに掲載したときはタグで仕掛けを作ったのですが、pixivでは無理だったためそこのみ変更しております。
    ジャパニーズホラー、の王道目指して頑張りました。
    覗く目 太平洋上で台風が発生したらしい。
     しかし大阪上空は相変わらずの快晴で、気温は今日もうなぎ上りだ。私はだらしないと思いながらも首周りが伸びたTシャツを着て、昼前からソファの上でごろごろ寝そべっていた。日が高いうちに飲むビールは、ほんの少しの後ろめたさもスパイスとなって、また格別の味がする。何たる堕落、と咎めるなかれ。私はつい先程短編を脱稿したばかりなのだ。締め切り明けの作家のささやかな道楽としてここは見逃して欲しい。
     ビールを一本空けたらシャワーを浴びて、約三十時間ぶりにベッドに入るのが今日の予定である。明日のうんと遅くまで惰眠を貪り、それから週末で家にいるであろう京都の友人の所にでも出向くのもいいかもしれない。この二週間、会話を交わした相手は担当一人だけ、更に言うなら二度の電話の合計時間は十分に満たない。私は人に飢えている。
    20073

    recommended works