ありがとう「なんかさ、最近主元気なくない?」
大広間の畳を乾拭きしながら加州清光がつぶやくと、置物を磨いていた大和守安定が振り返って頷いた。
「確かに。ご飯の時も、黙々と食べてるし」
「出陣の時以外でも、執務室にこもってる時間増えたよなあ」
背丈から欄間の埃取りを任せられた御手杵が、手を動かしながら会話に加わった。同じく高いところの掃除を任せられた蜻蛉切が、静かに頷く。
「日本号が訊ねてみたが、大したことではないと躱されたと言っていた」
この本丸の主は、まだ年若い娘だった。若いなりに奮闘し、本丸に集う刀剣男士は順調に増えている。演練で他本丸の刀剣男士に負けることは時々あるが、実戦では時間遡行軍の展開を先読みし、部隊長と作戦を立てて着々と勝利を納められるようにもなってきた。
性格は基本的に明るく、落ち込むことはあっても立ち直りは早い。表情豊かで思っていることがすぐ顔に出るが、それは裏表のない素直な性格を示しており、
彼女のもとではたらく刀剣男士たちは歳の離れた家族のように、好ましく彼女を見守っていた。
……ただ一振を、除いては。
「獅子王くんは何か気づいてないのかな」
同じころ、厨を片付けていた燭台切光忠が、その刀剣男士の名を口にした。
「それが、最近出陣や遠征が多くてちゃんと話せてないみたいで。もちろん心配してましたけど」
堀川国広が、冷蔵庫の中身を整理しながら彼に応じた。
「わざとそうしているように見えると、小烏丸殿が言っていたよ」
休憩用のしるこを作りながら、歌仙兼定は息をついた。
この本丸で審神者といっとう仲が良い……言ってしまえば恋仲なのは、快活な太刀獅子王であった。その"歳"のわりに少年のような容貌を持つ彼と審神者は並んでいるとまるで初々しい学生カップルのようにも見え、本丸の皆は彼らを微笑ましく見守っていたのだが。
「……ということは、主と獅子王くんとの間に何かあったのかな」
光忠の言葉に、堀川と歌仙は心配げに頷いた。
◆◇◆
「……はあ」
執務室の大掃除を終えた審神者は、達成感からくるものとは違う物憂げなため息をつき、仕事用の椅子に腰掛けた。
部屋はすっきり綺麗になったが、心の掃除はできていない。
もうすぐ遠征に出ていた第三部隊が帰ってくる。出迎えの準備をしなければいけないが、気乗りがしない。
皆が自分の様子に気づいているのも、わかっている。けれどなんとか普通に振る舞おうとすればするほど空回り、結局は元に戻ってしまう。審神者は天井を見上げ、もう一度ため息をついた。
「だめだなあ、わたし」
「今戻ったぜー!」
襖の向こうから聞こえた声に飛び上がる。慌てて時計を見ると第三舞台の帰還予定時刻。ただし、報告に来るのは隊員の獅子王ではなく隊長の和泉守兼定のはずなのに。
「え、し、獅子王くん?」
「おう!報告にきたぜ、主」
「兼さんは…」
「食料庫の酒の数が合わないとかで堀川に連れてかれたぜ。だから代わりに俺が来た」
「あ、そうなんだ。お帰りなさい。それじゃ手短に報告を…」
慌てて記録用の端末を起動しようとした審神者の手を、獅子王はぱっと掴んで止めた。
思わず見上げたその顔はいつもの彼とは違い、鋭く真剣な眼差しだった。
短い沈黙。
「…あの」
「主、最近俺のこと避けてるだろ」
「そんなことな「いや、あるね」……」
遮って言い切られ、審神者は沈黙する。俯く彼女を見て困ったような顔をした獅子王は、頭を掻きながらふ、と息を吐いた。
「……俺、何かした?」
心細そうな声に審神者は慌てて首を横に振る。片手で掴んでいた手を両手で包むように捉え直し、獅子王は彼女の瞳を覗き込んだ、
「じゃあ、何で?」
「…………」
「主、頼むよ。俺、主が心配なんだ」
「……獅子王くんが」
絞り出すように審神者はつぶやく。聞き逃すまいと、獅子王は彼女に顔を寄せた。
「獅子王くんが、格好よすぎるから」
「へ?」
思いがけない答えに、獅子王は目を瞬かせた。
「だから、獅子王くんが、修行から帰ってきてから!格好いいし、強いし、なんだか遠くなっちゃったみたいに思えて。でもそんなの私の勝手な考えだし、私も釣り合うように頑張ろうって思ったけど、なんだか上手くいかなくて、獅子王くんのじっちゃんみたいに立派になれないし、でも一緒にいたいし、ぐるぐる考えちゃって、それで」
「主、ストップ」
「獅子王く…うわっ」
腕を引き寄せられ、審神者はすとんと彼の胸に収まる。そのままぎゅうと抱きしめられ、獅子王の息遣いが彼女の耳をくすぐった。
「……ありがとな、主」
「な、なにが?」
「俺のこと、そんなに一生懸命考えてくれて、ありがとう」
「そ、そりゃあ、好きなひとのことだし…」
小声で審神者が呟けば、獅子王は心底嬉しそうに笑う。太陽のような笑顔を、審神者は目を細めてみあげた。
「大丈夫だよ、主。主が立派にやってるのはみんなも、俺も知ってる。つい最近来た人間無骨だって、主の頑張りには気づいてる」
「……そう、かな」
知らず知らずのうちに溢れてくる涙を、獅子音は指先で優しく拭う。
「そうだよ。だから、釣り合うとかそんなこと考えなくていい。今の主が、俺は大好きだ」
ストレートに言われて、心の氷がじゅわりと溶けていくような気がした。
そうだ、彼はこういう男士だった。分かっていたはずなのに、日々の忙しさと自己嫌悪に負けて、ありのままを受け入れてくれている獅子王の優しさすら、忘れてしまっていた。
「……ありがとう、獅子王くん。……大好き」
尻すぼみに伝えれば、獅子王は聞き逃さずに破顔する。
そして、彼女の頬を手で包み、おでこをこつんとくっつけた。
「……来年もよろしくな、主」
答えようとした審神者の言葉は、彼の唇に吸い込まれていった。
了