あなたといっしょにはじめての私は決意を固めた。
今日こそは、今日こそは、
恋仲のあのひとと、2回目のキスをするのだ、と。
「物吉くんが、好きです」
そう私が告白したのは、春の、桜が咲き始めた頃だった。
一緒に畑仕事をした帰り。柔らかな亜麻色の髪をなびかせて、ひらりと舞う花びらや葉を見つめる彼を見た時、ずっと抱え続けていた想いが不意に溢れ出てしまった。
物吉くんは、大きな瞳を驚きでいっぱいに見開いたあと、太陽に負けないくらい眩しく笑って、「嬉しいです」と言ってくれたのだった。
それからしばらくは、私にとって羽が生えたようにフワフワした幸運の日々だった。毎朝一番に朝の挨拶をしにきてくれて、今まで以上に気遣ってくれる。彼の隣で食事をすると、いつも美味しいメニューがもっと美味しく感じられる。
白馬の王子様のような彼に少しでも釣り合う女の子になりたくて、身なりにもいっそう気を使うようになった。「素敵ですね」なんて褒められた日には、近侍や初期刀が呆れ笑いをするくらい分かりやすく舞い上がった。
初めて物吉くんと口付けしたのは、紫陽花が咲き始めた頃だった。葉の上に乗る小さなかたつむりを見つけて、久しぶりに見たな、なんてクスクス笑って。物吉くんにも見て欲しくて振り向いたら、彼の顔が思いのほか近くにあって。
どちらからともなく、吸い寄せられるようにキスをした。
それが、私のファーストキスだった。
で、だ。
今は8月、暦の上では立秋を過ぎ、燦々と照りつける太陽を向日葵たちが見上げるこの季節。
この季節に至るまで、私は物吉くんとキスをしていない。
私にとって、物吉くんは初彼だ。つまり、好き合った男女がどういうスピードで、どういうムードで、キスやその先に進むのか、実体験を持っていない。でも、さすがにこれはどうなんだろう、と思う。
人と付喪神という間柄は普通の男女とは違うのかもしれない。物吉くんには物吉くんの考えがあるだろうし、もしかしたら人間の男の人みたいに、そういう欲が強くないのかもしれない。
夕暮れ時に二人きりで話したあと、彼は私を優しくハグしてくれる。けれど私がちょっと期待して瞳を覗いても、微笑んで頭を撫でてくれるだけだ。
だけ、なんて贅沢かもしれないのだけれど。欲深い私は、それだけではもう満足できなくなってしまった。
だから、今日こそ。ふたりで出かける約束を取り付けた今日こそは、キスをしたいと言ってみよう。
もし断られたら……ううん、それでも、物吉くんにとって私がどんな存在なのか、はっきりさせないといけない。
***
お気に入りの柄の浴衣に着替え、貞ちゃんのお墨付きをもらい。
亀甲さんに「相手をよく知ること」について若干偏ったレクチャーを受けて。
休みの日のお昼過ぎ、私は物吉くんと久しぶりのデートに出かけた。
物吉くんは、いつも通り優しくて完璧だった。私のエスコートも抜かりない。
私の好きそうな物を見つけては、寄ってみませんか?と問いかけてくれる。物吉くんの行きたいところを訊ねても、ボクは主様と一緒に居られるだけで幸せです、なんて返ってくる。
せめて夕飯は物吉くんの好きなものを、ともはや願い事のように聞いて、洋食屋さんでオムライスを食べて。
…………その間、私は全く、キスをねだるタイミングを掴めずにいた。
「そろそろ、帰りましょうか」
万屋の壁に下がった時計を見上げて、物吉くんが言った。時刻は19時半。夏の日差しも流石に消えて、ぬるい風の吹く夜がやって来ていた。
自然と差し出される手を繋ぎながら、本丸へ繋がるゲートまでの道をゆっくり歩く。私が慣れない草履を履いているのを気遣ってくれているのだろう。
繁華街の灯りと賑わいがすこし遠ざかり、虫の声が耳に入る。タイムリミットがいよいよ迫っている。はやく、はやく言わないと。
「あのっ!」
想定の倍は大きな声が出て、自分でも驚いた。物吉くんは目を瞬かせながら私を振り返る。
「どうしました?主様」
立ち止まって私を見るその目線の高さは、ほぼ同じ。くちびるの高さも、ほぼ。
「……あの、物吉くん」
「はい」
「……き、キスが、したいです……」
目を合わせていられなくて、俯いてしまう。
言ってしまった。どうしよう。物吉くんだって見た目は若いけど、古くて立派な、お殿様の刀だ。女の方からこんな事を言うなんて、みっともないと思われないかな。
「……主様」
物吉くんが、深呼吸をして呼びかけた。
「ボク、一つ嘘をつきました」
「えっ?」
唐突な告白に、思わず顔を上げる。物吉くんは、どこか切なそうに、何かに耐えるように私を見ていた。ただでさえ騒がしい胸がいっそうざわつく。嘘。嘘とはもしかして、あの
「主様と一緒に居られるだけで幸せですって、言いましたよね」
「それが、嘘?」
「はい。ごめんなさい」
ズキリ、と今度は胸が痛む。ああ、そうなんだ。そうだったんだ。だから、それなら。
「なん、でっ、わっ」
込み上げる涙を拭おうとした手を不意に引かれ、私はバランスを崩す。倒れ込んだ私を、細身だけれどちゃんと男のひとの身体をした彼が抱きしめる。
「な、んで、うそ、なのに、こんな」
「はい、ウソです。一緒に居るだけじゃ、ダメになっちゃいました」
「……っ……?」
「主様に……あなたにくちづけていたら、ボク、きっとそれでは止められなくなります」
自分でもびっくりしています。そう言いながらぎゅう、と抱きしめる力が強くなる。耳元にかかる物吉くんの息が熱い。
「それでも、いいですか?」
止められない。それはつまり、きっと、その先も。
ようやく意味を理解した私の頬が、さっきよりもさらに熱くなる。物吉くんはどんな顔をしているのだろう。少し離れようとしても、力強い腕はびくともしない。
ふ、と吐かれた息が、首筋につたわる。
浴衣の背中を掴む彼の手が、わずかにふるえているような気がした。
「物吉、くん」
全然OK、なんて言ったら嘘になる。
だって初めてのことだから。ドキドキするし、ちょっと怖いし、がっかりさせないか心配だし。でも。
「……やっぱり、キス、したいです……」
虫にも聞こえないような声で、やっとのこと答えた。
「……ボクの主様が、お望みのままに」
その直後、私はキスの雨に降られたのだった。