しずく、しずか、しずむ【一四】靴音を立てて帰ってきた俺の足取り、鍵を回す動作。
それらは、いつもより少しばかり重かった。
「いってぇ……」
酔っ払い同士の喧嘩に巻き込まれて、口の内側を切ってしまった。
暗かったからあまり確認できていないが、外傷はなさそうだ。
まだ鉄の味が残る頬の内側。
傷や出血を確かめるように、舌先でそっとなぞる。
玄関のドアが軋む音がして、すぐに気づいたウサミの「おかえりなさい」が、まだ電気をつける前の闇から、柔らかな声が伸びてくる。
「あー、ただいま」
薄暗い玄関。
靴を脱ごうと腰をかがめたその横顔を、ウサミがすぅ、と覗き込んできた。
「──怪我、をしたんですね?」
「あ、ああ。そうなんだよ。聞いてくれよ」
痛めた頬をじっと見つめるその目が、ぎょろりと開く。
ふいに空気がぴんと張った気がした。
「酔っぱらいがさ──あっ、……んぅッ!?」
話の途中で、唐突に唇を奪われた。
顎を持ち上げられ、拒む暇もなく舌が差し入れられる。
熱く、滑らかで、執拗な舌。
舌先が傷に触れた瞬間──全身がびくりと跳ねる。
血と唾液が混ざった咥内を、ウサミは奥の奥まで探るように。
「ここ……裂けてますよ。痛いですか?痛いですよね?」
囁くように言いながら、舌は止まらない。
唇を、歯の裏を、頬の内側を、何度も、何度も。
熱を孕んだ息とともに、口の中をかき回される。
抗うどころか、支えていた膝が揺らいだ。
──玄関で、
まだシャツも脱いでいない。
靴も履いたまま。
それでも、ウサミはお構い無しだ。
引きずり込むようにして、玄関の扉の内側に閉じ込める。
「や、やめろって……いつまで……っ、ん、ん……ッ」
舐められた側から、口内に熱がこもっていく。
執拗に、舌が傷をなぞる。
「ああ、門倉さん……門倉さん、門倉さん……っ!」
今まで見た中で、いちばん恍惚とした表情。
そういう顔を見たことがある。
子供がはじめてチョコレートを口にして、その瞬間に世界が変わったような、そんな表情。
(いや、やっぱり、そんなかわいいもんじゃないかも……)
血の味。
俺にはただ不快なだけの鉄の味だが、怪異の目が異常なまでに見開かれギラギラしている。
なんて無防備なまま帰ってきてしまったんだ、と。快感と鈍痛の狭間で、思考がようやく一筋浮かぶ。
その味に、その熱に、その匂いに溺れるよう。
時折、水面に浮かぶように口を離しては、また咥内を貪るように、何度も、何度も。
指先までじんわりと痺れが伝っていく。喉がうまく動かせない。
こっちまで脳がとろけていくような感覚、時折走る痛みまで甘い痺れに変わるのに時間はかからなかった。
舌が歯茎を撫で、粘膜を味わい、吸い付き、絡んでいく。
喉の奥を鳴らして、味わうように、口内を這い回る舌に嬲られ続ける夜。
──そのあとの記憶は途切れている。
数日後。
テレビの音がついていた。
ちょうど夕方のニュースが流れていて、ローカルな事件を伝えるアナウンサーの声が、何気ない部屋の空気を震わせた。
《○○区にて、会社員男性の行方が分からなくなっています。目撃情報によると──》
俺は冷えた缶ビールを口に運びながら、気のない様子で画面を眺めていた。
酔っていたのか、足取りも覚束なかったらしい。
最後に映ったのは防犯カメラの映像。
ひとりで歩いていたようで、しかし、何かに引っ張られ、引きずられているようにも見える、妙に曖昧な映像だった。
画面には当然、“他”の姿は映っていない。
「へぇ……なんか、物騒だねぇ……」
ぽつりと呟く。
ビールを一口、飲み下す。
こういう変わった映像に尾ひれとかついてオカルトネタにいくのかも、なんてぼんやり考える。
恐怖○○の怪、みたいなやつね。
「そうですね。……本当に、物騒です」
ウサミがにっこり笑うのが視界の端に見える。
頬杖をつくも、痛みはもうない。
テレビのニュースだけが流れる部屋。
窓の外には葉擦れと風の音。
でも、まあ、なんとも静かな日だ。
ウサミの指が、そっと俺の手に触れる。
ためらいなく、指を絡める。
「もう、怪我してこないでくださいね」