しずく、しずか、しずむ【二一】俺はいつもこうだ。
仕事納めして、やっと10日間もある長期休みだってのに。
「大丈夫ですか、門倉さん」
「あー、うん……」
鼻声の掠れ声でそう返す。
台所でレトルトの粥を湯煎にかけていると、リビングとの境からウサミが覗いているのが見えた。 台所には入らないというルールは、今のところ守られている。
なんか寒いな、から確信に変わったのは朝起きてすぐだった。
完全に風邪だ。熱もある。で、近場の病院は当然正月休みに入り、しかし風邪程度で緊急で診てもらうには忍びなく、いざという時用のレトルトを引っ張りだしてきた。ちょうど良かったかもしれない、賞味期限ギリギリだったし、大掃除みたいな、ね。
そんな風に思ったわけだ、高熱でぐらぐらになった頭は。
そんな、ぼうっとした俺を、怪異がずぅっと張り付くように見ている。
視線に何か言い返す余裕は、今の俺にはない。
だから、
「俺は風邪をひいて、熱で…… なんかもう、とにかく大変なんだ! 今から寝るから、絶対、ぜったい入ってくるなよ!!」
こいつに看病なんて無理だろうし、悪化させたくない、寝込んでおわる正月休みなんざ、ごめんだ。
何よりウサミの姿、熱のせいかやけにぼやけて見えるんだよな。
焦点を合わせようと、目を凝らしても口元がよくわからない、笑っている? ……いや、そんなことないか。
そのくせ、目だけはくっきり見えて、俺の姿を追うんだ。返事も待たずに俺は寝室へ行き、内側から鍵をかけた。寝室の鍵、要る要らないでもめた婚姻時代もあったが、今はつけてよかったと思う。
頭からすっぽりと布団をかぶる。
これだと熱い、いやこれだけじゃ寒いか?
目をぎゅっ、とつぶる。
誰もいないはずの部屋。
それなのに、誰かの話し声が聞こえる。
言葉未満のざわめき、聞き取れない囁き声。
気のせいだ。
誰もいないんだ。
全部、気のせい。
(頭いてぇ、眠れねぇ……)
布団をかぶっていたら逆に息苦しくなってきて、顔を出す。
ほらな、本当は誰もいやしないんだ。
体が重いのも熱のせいだ。誰も乗ってなんかいない。
足先は布団からはみ出て冷えただけ。何かに齧られたわけじゃない。
感覚も、音も、意識も遠いのはぜんぶ風邪のせい。
夢か、現実か、曖昧なのは誰のせいだ。
弱ってるやつに、寄ってこようとするのはどの世界でも一緒だ。
隙を見せたら、食われてしまう。
なあ、見逃してくれないか、今回も。
視界の端からベッドに這い寄る、無数の蟲が見える。
ザワザワ耳に入ってくる、羽虫みたいなノイズ。
天井から溢れて、蠢きながら広がる滲み。
体が、動かない。
目を、 閉じることが、 できない。
「門倉さん」
黒く塗りつぶされそうだった視界は、滑るような白で塞がれた。
「……、……」
どのくらい眠っていたのだろうか。頭部に違和感を感じで目を開けた。
隣で頬杖をつき、反対側の指先で俺の髪を撫でたりいじったりしてる。
その怪異と目が合った。
「おはようございます」
カーテンの隙間から見える外の様子は暗い。
「ウサミ、あれ…… 鍵、なんで」
「鍵、ってなんですか?」
「……入るなって、言っただろ」
「ああ」
ウサミのうしろ──何度、目をこらして見ても、鍵も扉も開いている。
「僕、了承してないです」
「? ……どう? ……ゆ、こと」
熱で弱った頭、怪異の言葉は耳に音として入ってはくるものの、いつも以上に理解が追いつかない。
「門倉さん、返事する前に行っちゃっいましたから」
読み込み中のマークがぐるぐる回り続ける。返事する前に行ったら“了承”にならない?
もしかして“入るな”に対して、“わかった”のやりとりが必要だったってこと?今まで台所に入ってこなかったのはウサミからの“わかりました”が、あったから? 契約?掟?ルール?決まりごと?
「そんなのあるなら先に言ってくれよぉ……」
ゴォーン……、遠くで鐘の音がする。 祝福のじゃなくて、煩悩の数の方のやつ。
寝てる間に年を越してしまうとこまで来てしまったらしい。
詳しいことは来年に問い詰めることにする。 はあ、と深く息をつく。昼間より呼吸がしやすい。
すぐ横にウサミの冷たい鱗がある。寒くなってから触ることを避けていたが、手を伸ばせば今はそれがひんやりとして気持ちがいい。
「誘蛾灯みたいだから、みんな寄ってきてしまうんです」
白い尾がずれていた布団をかけ直す。
「ゆうが、 とう……?」
「あなたがずっと灯っているから」
下がってきたものの、熱っぽいのは変わらない。すべてが遠く感じる。
「でも、大丈夫ですよ、僕がいますから」
目と額にウサミが手を置くと、触れたところから広がるつめたさ。“大丈夫”なことなどなにもないのに、今だけはすべて委ねたくなる。
「門倉さんの傍に、僕が必要ですよね?」
“そうだ”、としか返せなくなる。でも、この安心は怪異の長い舌の上、喉の奥へ一歩近づいたところにある。
ウサミの手で覆われ半分塞がれた視界、俺は熱で滲んで歪む目を意識と一緒に閉じた。
風邪の心細さで、“そうだ”が、口から転がり出してしまわないように。
──翌日、謎の自信をつけたウサミが口移しで風邪薬を押し込んでくるのだが、それはまた別の話。