放り出された大地は真昼の太陽の熱を吸収して温かかった。細かく鋭利な砂粒がまだ幼く丸い俺の頬を突き刺し、柔らかな皮膚を突き破る。投げ出された衝撃で痛むはずの体は、けれどどこも痛みを訴えてこず、もしかして死んだのかな、などと俺はぼんやりと思った。頬の擦過傷も体中にあるはずの打ち身も俺の生死の判断材料にはならなかった。ただ、横向きに倒れ込んだ俺を庇うように覆いかぶさる男の体重だけが、胸部を圧迫されたゆえの呼吸のしづらさだけが、今俺が生きているのだと教えてくれた。
「……隊長」
すぐそばにある男の顔色は最悪だったが表情は穏やかだった。イバラ、とそいつが俺に話しかける。掠れて周りの騒音にかき消されそうなガサガサした声だったけれど、なぜだか真っ直ぐ俺に届いた。
「なに」
「これを」
男は震える指で首元に下げられたドッグタグを引きちぎり、俺の掌に包み込んだ。ぬるっとした感触が気持ち悪くて視線をやれば彼の手もドッグタグもべったりと血に塗れていた。誰の血。俺?それとも。
「ああ、×××」
男がこぼした名は俺のものではなかった。
「×××……──」
それはおそらく彼の息子の名前なのだと思う。尋ねたことはないけれど、息子がいることも、胸ポケットにこっそり写真を入れていることも知っていた。俺に似ているとこぼしていたが、大人にとっては俺ぐらいの年齢の子は皆等しく同じに見えているだけに違いない。やんちゃで、愛嬌があって、守られ慈しまれる存在。全く俺の実像とはかけ離れていて笑ってしまったが、他者から──一般的な大人から自分がそう見られている、というのは有益な情報だった。
だから利用した。
後方の補給部隊として連れて行かれた戦場で、近々俺みたいなチビも戦場に駆り出される可能性があると小耳に挟んだ。援軍が遅れていると本部から連絡があったらしい。作戦は大詰めで、機を逃せばだらだらと戦が長引いてしまう。早めに決着をつけたい上層部は今ある手駒で作戦を続行することを選んだらしかった。
それを聞いて、俺は俺を守るために頭をフル回転させて作戦を練った。鍛えていても、作戦が正しくても、上官が優秀でも、死ぬときは死ぬ。人間は弾が一発胸に当たれば死ぬのだ。俺はまだ死にたくなかった。なにか出動を拒む理由があればよかったのだが正当性のある理由は思いつかなかったし、仕込みをする時間もなかった。俺はオオカミ少年で、例え本当に体調を崩していたとしても、またそんな嘘をついてと全く信頼がなかったのだ。
そんなときふと隊長の顔が思い浮かんだ。そして、これは使えると思った。俺はこんな馬鹿げたところで死ぬなんてまっぴらごめんだったから俺を守る人間が必要で、ちょうどいいところにこの男がいたのだ。俺みたいな子どもが戦場にいることに心を痛める心優しい大人。俺みたいな親のない子どもを可哀想なやつだと思っている大人。
馬鹿な大人だ。お前が憐れんでいるチビに逆に利用されてるなんてついぞ思いつきもせず、俺の思惑通りに俺を守って死にかけている。そんなんだから、こんな大事なところで俺と愛する息子を間違えるのだ。
「×××」
男の血まみれの震える指が壊れ物に触れるようにひそやかに俺の丸い頬をなぞった。ぷんと鉄の匂いが強くなる。死にかけの手はひどく冷たい。俺はせめてもの餞に大人しく息子の幻影を演じてやった。ありがとう血の繋がらないお父さん、俺を守ってくれて。
「イバラ!」
どこからか力強い声が聞こえた。途端に、ぱっと視界が開け、それまで目の前の男しか見えなかった俺の瞳に現実が写り込む。あちこちであがる火の手と黒煙、抉れた大地、転がる死体。銃声。地面を揺るがす戦車の音。
「こっちだ!」
声を頼りに顔を動かせば頭の方からピックアップトラックに乗ったジミーが身を乗り出していた。俺は覆いかぶさる男の下からなんとか腕を抜き出して高く掲げる。車を飛び降りたジミーがばたばた足音を立てて駆け寄ってきた。
「お前は無事だな……隊長は、」
こくりと彼が唾を飲む音が聞こえたような気がした。実際はこんな喧騒の中そんな小さな音なんて聞こえるはずがないのに。きっと彼の表情が曇ったせいに違いない。ああいう顔をする時は、命は助からないと相場が決まっている。
「とりあえずお前だけでも生きててよかった。引っこ抜くから……目は閉じとけ」
ジミーはいいやつだった。こいつもまた、俺のような子どもが戦場に出ることを憐れむ人種の人間だ。そんなやつが探しに来てくれたことは幸運だった。これがクソどもだったら俺なんて目にも留まらず置いていかれたに違いない。
だから俺はその善良な心に敬意を表してそっと瞼を閉じた。胸を圧迫していた命の重さが取り除かれ、ふわりと抱え上げられる。血の匂いに代わって汗と土埃の混じった匂いがした。
「なに握ってんだ」
「ドッグタグ」
「そうか」
ジミーは善良ないいやつだったけれど、戦場の掟を破るほど馬鹿でも愚かでもなかった。助からない男を無理やり連れていくほどお人好しではない。俺がドッグタグを持っているとわかったから、彼が死にかけの肉体を振り返ることはなかった。
「死ぬときは一人なのに」
「なんか言ったか?」
「……ううん、なんでもない。拾ってくれてありがと」
本当は捨ててやろうと思ったドッグタグを握りしめる。ジミーがやってきて幸運だったなと心の中で悪態をついた。隊長は幸せに死んだのだ。最後に家族の幻を見ていたのだから。ルーベンスの絵を一目見ようと追い求めたネロと同じだ。敵に拷問されるより遥かにましな死に様だろう。
「さようなら、お父さん」
俺はどこに行っても代用品だった。俺の意志なんてすっかり無視して、いつだってそいつが他の誰かにやりたかったことを押し付けられる。愛するとか、可愛がるとか、そういうくだらない感情のなすりつけ。代償行為。そういう甘ったるいのはまだましな方で、ただ暴力の吐口としてサンドバッグにされることもあった。上官に口答えできない代わりに苛立ちをぶつけられたり、濡れ衣を着せられて折檻されたり。戦場の駒であることもまた同義だ。安全圏で儲けたい腐った大人の奴隷。俺たちの命は平等ではなく、俺は限りなく不要に近い、いくらでも代替のきく存在なのだ。
愛どころか怒りすらまともに「俺」にぶつけてくる相手のいないゴミ以下の存在は、まかり間違っても誰かの一番星になんかなれない。戦場で俺を守れるのも、俺を愛してあげられるのも、この世にたった一人、俺しかいないのだ。