映画の撮影で二週間地方に行っている閣下は、毎夜寝る前におやすみを言いに電話をかけてくる。小学生みたいにその日あった出来事を楽しそうに話した後、俺の一日を根掘り葉掘り聞きだして、満足したら挨拶をして眠る。三日もそんな日が続けば体も慣れて、一週間経つころにはそろそろ閣下の電話の時間だなとキーボードを叩いていた手も止まるようになり、すっかり体内時計に刻まれたタスクになっていた。
今日も閣下は共演者との面白かった話や撮影の進み具合、ロケ弁のメニュー(これは俺が報告するように頼んだ)、ホテルや現場で発見した珍しいものの話など次々に出てくる話題を一通り語り尽くした後、俺の今日の仕事内容や食事内容(何故か俺の真似をして聞くようになった)、もうお風呂に入ったかどうかなど、他愛無いことをあれこれ聞き出しては満足そうに笑っていた。
「おっと、そろそろ時間ですね」
ちらりと見やった時計の針は十一時を過ぎていて、明日も朝から撮影である閣下の体を思い、俺は話を切り上げる。体力お化けの閣下とはいえ、慣れない長期のホテル暮らしで知らない人間と一日中仕事をしていれば疲れも溜まるに違いない。こうして電話をかけてくれることで声音から体調を察するいい機会を得られたのは良かったが、おしゃべりが楽しくて夜更かししてしまった、なんて理由で調子が悪くなっては元も子もない。
「明日も暑くなるようですしこまめに水分補給をしてくださいね。マネージャーにも確認するよう伝えてはいますが、閣下もご自身で気をつけて、」
『わかってる。一時間に一回は飲むようにしているよ』
「はい、ありがとうございます。それから、炎天下の撮影ですので日焼け止めの塗り直しと、たまには塩分も摂取して……」
『うん、ちゃんとタブレットも食べてるし、日焼け止めも、日傘もさしてるよ』
「ははは、閣下には要らぬお節介でしたね! 分かってはいるのですが、つい」
『ううん、茨がいつも私のことを考えてくれているみたいで、すごく嬉しい』
その声が本当に、あまりにも嬉しそうで、聞いているこちらが何故か気恥ずかしくなってしまった。決して四六時中閣下のことを考えているわけではないと弁明すべきかと思ったが、変に否定すると「照れなくてもいいのに」なんて勘違いに拍車をかけ、余計に真実のように捉えられかねない。時間も時間なので無闇に引っ張るのも憚られ、とりあえず今回は流してしまうことにした。でも素直に信じられても困るので、ささやかな抗議としてゴホンとわざとらしく咳払いをする。
「……えー、もう遅いですし、そろそろ切りますね」
『あ、待って』
「閣下?」
なにか伝えそびれたことがあっただろうか。それともたった今何かが起きたとか。緊急事態の可能性も視野に入れ、俺はスマホの向こうへ耳を澄まし、次にくる言葉を一言一句逃さないよう意識を集中させた。
『…………早く会いたいな』
が、飛び出した言葉にはそんな物騒な気配は微塵もなかった。そこにあったのは少しの孤独で、突如紛れ込んだ感情に虚をつかれ、俺は次の言葉に詰まってしまう。
『じゃあね、夜更かしをしてはいけないよ。おやすみ、茨。良い夢を』
二の句を継げないでいる俺のことなんか気にしていないのか、言いたいことだけ言った閣下はそのままいつものように就寝の挨拶を済ませると早々に通話を切ってしまった。あとに残されたのは投げられたボールのやり場に困った俺ばかり。
「……そんなの、俺だって」
すでに通話が終了していることを示す画面に向かって転がり出た本音が、サイダーの泡のように一瞬でしんと静まり返った寝室に溶けていく。スマホが一台あればほとんどのことが完結する世界で、顔を合わせなければ成立しないこの不便さが愛するということなのだろうか。それはとても非効率で、コスパが悪くて、非経済的だけれども、この感情を効率という物差しで測ろうとすることがそもそもナンセンスであるということぐらいはわかるようになった。あなたに教えられたから。
こんなに長く顔を合わせなかったのは閣下が映画の授賞式でニューヨークに行って以来ではないだろうか。職場か、あるいは二人暮らしの家に帰れば顔を合わせない日はなかったものだから、いつも隣にあるものがない心許なさというか、体が半分空っぽになってしまったような物足りなさを、確かに俺も感じていた。けれども、その正体に寂しさと名づけてしまうと閣下不在の期間をやり過ごす難易度が上がってしまいそうで、どこか隅の方に追いやっていたのになんて酷い仕打ちだろう。
寝室を別にしていてよかった。ここには閣下の気配がひとつもない。カーテンの色も、ベッドの配置も、シンプルなウォールランプだって、全部俺が選んで、俺が好む通りに配置した。この家の中でこの部屋だけは他の何色も許さない俺だけの城だった。閣下の放っていったボールだって、俺の自意識が肥大したこの部屋がきっと飲み干して分解してくれる。寝て起きれば明日はきっといつもの俺だ。
ホーム画面に戻ったスマホのアラームをセットしてベッドに潜り込む。目を閉じると、瞼の端の方で淡く輝く銀色が翻った気がした。夢に閣下が出てきたら間違いなくさっきの言葉のせいだから、明日の定時報告の際文句を言ってやろう。今日の仕返しに、夢で会うだけじゃ物足りないんだって、閣下の心に爪痕を残してこよう。そのくらいしたってきっと許される。
言いそびれたおやすみなさいを誰にともなく囁いて、かつて叩き込まれたやり方で俺はあっという間に眠りの世界へ旅立った。