思ったよりも仕事が長引いて、殿下の用意してくださったリゾートホテルに着いたのはすっかり日が落ちたあとだった。“ユニットみんなで夏休みを過ごしたい”という殿下たっての希望で日程調整をした結果、七月の下旬に三日間、四人の予定を確保、死守することができた。昨年末からEve、Adamの露出を増やしていたので、ユニットのことを家族だと言って憚らない殿下には少々物足りなかったのかもしれない。まあその物足りないに含まれているのは閣下だけかもしれないが、“四人で”と本人が言っているのだから俺も頭数として必要なのだろう。昔、自分の判断で勝手に俺を勘定の外においてスケジュール調整した結果、酷い目に遭ったことがあるので間違いない。
「……日和くんたちは明日の朝着くんだよね」
「ええ、Eveは本日隣県で夜までロケですので、明朝車で移動の予定です」
「じゃあ、ちょっと散歩に行かない?」
夕食は済ませて来たのであとは風呂に入って寝るだけだ。顔パスで通されたロイヤルスイート(さすが殿下の実家の運営するホテルだ)で荷解きをしつつ閣下の入浴の支度をしていた俺は、すっかり身軽になった彼に有無を言わさず手を引かれエレベーターホールまで連れて行かれる。急なことで財布もスマホもルームキーも全て部屋に置いて来てしまった。なにせ風呂の準備をしていたものだから。
「……ご入り用であればラウンジやプールもあるようですが」
「ううん、浜辺を歩きたいんだ」
下降ボタンを押した閣下は俺が逃げないようにと手首を掴んだ手の力を強める。今更どこにも逃げられないというのに信用がないなと苦笑した。振り返った閣下が不思議そうに首を傾げる。
「いえ、サンダルに履き替えればよかったですね」
「……確かに」
部屋に戻る間もなく、軽やかな音を立ててエレベーターが到着を告げる。仕方がないので俺たちは革靴のまま豪華な装飾の施された箱の中へ踏み入れた。なにしろ最上階だから次のエレベーターが来るのを待つのは面倒くさいのだ。乗れる時に乗る。これはESビルで学んだことだった。
重力を感じさせずにたどり着いたレセプションを通り抜けて自動ドアをくぐる。空調の効いた室内から一転、もわりとした湿度の高い熱風が吹きつけて、途端に肌がベタついた。温度差に眼鏡が曇って、それに気が付いた閣下がおかしそうに笑い、俺の顔から眼鏡を奪い取る。自身のシャツの胸ポケットにそれをつっこんで、暗くて視界が悪い上に視力を殆ど失った俺を先導するように手を引いた。
「今日は十三夜月だね」
「はあそうですか」
「それくらいは見えてるんじゃない?」
「視力を奪われてしまったのでわかりませんねえ」
「意地悪な答え方」
「どっちが」
くすくすとご機嫌に笑う閣下の一歩後ろを歩きながらぼやけた月を見上げる。丸くないことは辛うじてわかるが、どのくらい欠けているかと聞かれるとブレてよくわからないのは本当のことだった。
ホテルは海のすぐそばに建っているので階段を降りればそこはもうビーチだった。流石に夜の海を散歩している人はいないようで、辺りには寄せては返す波の音だけが響いている。
足元からかすかに革靴がきゅっきゅと砂を踏み込む音がする。傷んでしまうだろうなと思ったが、まあ世界に一足しかないレアな商品というわけでもないので新しいものを買い求めればいいだろう。幸い明日にはショッピングが大好きな男も来るわけで――と思っていたのだが。
「脱いで」
急にしゃがみ込んだ閣下がとんとんと俺の足を叩く。言葉を理解する前に反射的に足を上げてしまって、そのままするりと靴と靴下を奪われてしまった。
「閣下! そのような、おっしゃっていただければ自分でしますので」
「ううん、今茨の視力は預かっているから、私が茨の目だよ」
「いや意味わかんないですって」
「わからなくても、そういうことなの。はい、反対もあげて」
独自の理論なんてものではなく、もうこれはただの力技だ。反対の足もとんとんと執拗に叩かれれば粘る分だけ無駄な気がして俺は大人しく足を僅かに浮かせた。裸足の足の裏に小さな砂の粒が程よく痛みを与えてくる。ちょうどいい足ツボとでもいうのだろうか。
俺の靴を奪った閣下は靴下を中に詰めて丁寧に揃えると、その隣に同じように自分の靴も並べた。
「裸足で歩きたかったんですか?」
「それもあるけど、濡れると帰りが困るかなって」
「まあそれはそうでしょうね」
立ち上がった閣下は、砂を払い落とした手で再び俺の手を取り歩き出した。今度は手首ではなく、指を絡めてぎゅっと握り込んでくる。人気のないところや夜にしか許していない、恋人としての接し方だった。つまり、彼にとってこの散歩はそういうことなのだ。理解すると急に恥ずかしくなってしまって、身体中の血液が顔に集まってきているような気がした。暗くてよかった。きっと今は見れたものじゃない。ホテルの明かりがまだらに届く砂浜で、それでも万が一バレてしまうのは恥ずかしくて、素数を数えるように二人分の足がゆったりと交互に動くのを無心で眺めた。気が付かれないよう細く長く呼吸をしてばくばくと跳ね上がった心臓を整える。
こういう関係になって数ヶ月経つが、いまだにそういった色を見せられるとどうしていいかわからない自分がいた。粗雑に扱われたり悪様に言われることには慣れていても、大事にされたり愛おしむように触れられることには免疫がなく、過剰に反応してしまう。自分が誰かのそういう対象になるのだという事実がいまだに信じられず、予想外の出来事が起こるたびに心臓が飛び出しそうなほど驚き、照れ臭くなってしまうのだ。中学生のガキみたいで不本意なのだが、場数を踏むしか解決策はなさそうで半分は諦めている。けれどもう半分は、俺と同じ境遇にあるはずの閣下がなんでもスマートにこなすのに嫉妬して、俺だって、という気持ちで平気なふりをしようとする。ようするに、格好つけたがりなのだ。
何度か呼吸を繰り返して少しずつ顔の熱が引いていった頃、ふと気がつくと細波がすぐそこにあった。あれ、と思ったときには、すでに閣下はそこへじゃぶじゃぶと入っていっていた。
「か、閣下?」
「あれ、気づいちゃった」
慌てて顔を上げると、振り返った閣下が悪戯がばれた子どものようにぺろりと舌を出す。
「照れてるみたいだったから、分からないかと思ったのだけど」
「なっ――っ!?」
恥ずかしがっていることを知られていたことにまたカッと顔が赤くなったが、それも束の間、俺は閣下に腕を引かれてそのまま汀にぽんと投げ倒されてしまった。ざぷんとやって来た柔らかい波が全身を洗い流すように飲み込んで、するすると引いていく。慌てて体を起こしたけれど、海水がかかって目も開けられないし不意打ちだったので口の中がものすごくしょっぱかった。
「ちょっと、なに、」
波打ち際に座り込んで咳き込みながら抗議の声を上げる。ぷるぷる犬のように頭をふって水気を飛ばそうとしていたら、足の間に何かが割り入ってきて、頭をがっちりと固定された。そのまま次に出てくる文句ごとぱくりと唇を奪われる。しょっぱかった口の中が途端に甘くなった。酸素を求めて思い出したように鼻で呼吸をすると頭の隅々まで閣下の匂いが押し寄せてくらくらした。
「ふふ、可愛い」
うっすら目を開けると至近距離に満面の笑顔があった。流石に悪戯がすぎるのではないか、と先ほどの抗議を思い出した口から低い声が漏れる。
「……かっか」
「そんな声を出しても全然怖くないよ」
びしょぬれだものね、と伸びて来た手のひらが海水で張り付いた髪をかき上げて、顔についた水分を取り除くようにごしごし拭ってくる。拭ってやろうという親切心はあれど、こういうところが雑なのは実に閣下らしかった。
「冷たくてきもちいいね」
そう言うともう一度俺の唇に自身のそれを押し当てて、今度はゆっくりと俺を押し倒した。両サイドについた閣下の腕が忍び寄る波を隔ててくれたので海水の顔面直撃は免れた。先ほどはそれどころではなくてちっとも分からなかったが、太陽の熱を存分に浴びた砂浜はまだほんのりと温かさを残していた。
「……キス……なら、ここじゃなくても良くないですか?」
「ベッドですると明日から茨が恥ずかしいだろうと思って」
「……海だって明日も来ますよ」
「日和くんはプールを貸切にすると言っていたよ」
ペロリと唇を舐めた閣下がしょっぱいねと当たり前のことを言って笑った。
「最近忙しかったでしょう。明日には日和くんとジュンが来てしまうから、今のうちに茨を堪能しておこうと思って」
「それでもやりようってものがあるでしょう……」
「夜の海にも来てみたかったから、一石二鳥」
語尾の弾む楽しそうな声に、閣下が全然反省してないことは明白だった。三度降って来た唇に今度はこちらから仕掛けてみるとぱちりと一回瞬いた閣下が嬉しそうに目を細める。また「可愛い」などとぬるい事を思っていそうな顔に、俺は小鳥のように閣下の舌に応えているのではなく宣戦布告しているのだと伝わるよう少し乱暴弄った。その反撃に何かを察したらしい閣下の瞳の奥で赤い炎が灯る。にんまりと、さっきとは違って弧を描く瞳が怪しく光っていた。
そこからはどちらが先にギブアップするか争うようにお互いの口内を貪りあった。息つく間もなく唇に噛みついて角度を変えては舌を差し込む。相手が場外退場しないように頭を引き寄せれば、閣下も負けじと俺の頭を抱き込んだ。口の周りはどちらのものかわからない唾液でべたべたにまみれていて、満月にはあとほんの少し足りないのに獣みたいに本能に忠実に相手を求めてしまっておかしかった。月の引力のせいにするにはちょっとだけ俺たちは先を行きすぎている。
「……っは、茨の、意地っ張り」
「……閣下こそ」
「目ぐらい瞑ったらどう」
「そっくりそのままお返ししますよ」
「……それもそうだね」
ぷっと吹き出してけらけら笑いだした閣下は、波から庇うように俺の横に転がった。思い出したように胸ポケットから眼鏡を取り出して丁寧に俺の耳にかける。それからべたべたの口元を拭ってくれた。でも、眼鏡をかける手つきとは裏腹に口元はやっぱり雑に拭われるし、かけてもらった眼鏡は海水でびちゃびちゃで全然見えないしで、ちっともきまらない。そう思うと、急にこの大雑把で自由奔放な人に張り合おうとしていたのが馬鹿らしくなって、俺もつられるように笑ってしまった。
「もういいんですか?」
「いっぱいしたから、ちょっと我慢」
「視力を奪わなくてもしていいんですよ」
「茨、照れてしまうんじゃない?」
「……照れてる顔も好きでしょう」
きょとりと丸まった閣下の瞳が溶けたバターみたいにぐずぐずに崩れて俺に抱きついてきた。お気に入りの抱き枕を抱くようにぎゅうぎゅう抱きしめられれば、途端に二人の熱で体中が熱くなる。ぱしゃぱしゃと静かに寄せては返す温度の低い波が肌を撫でてゆくのがほてった体にちょうど良かった。
「……ねえ茨、ベッドでしてもいい?」
「……そ、れは」
「だめ?」
耳元で低く囁かれると否応なしに背筋がぞくぞくと震えた。するりと脇腹をなぞる指が途端に艶を纏ったような気がして思わず目を瞑る。さりげなく押し付けられた下半身の熱さに、負けないくらい俺の顔も熱くなった。
「だめ、ではない、ですが」
だめではない。だめではないが、そうやって色を含んだ甘い声音とか、期待を隠さない熱っぽい指先とか、直接ぶつけられる欲とか、恋愛初心者の俺にはそのどれもが大きすぎて全部受け止めるには少々器が足りないようだった。そこから溢れてしまった閣下の熱がまるで毒のように全身を巡り、心拍数が上がって呼吸が浅くなり、酸欠で視界がぐるぐる回った。格好つけなくてもいいと思えるようになっても、愛ってやつにはまだまだ慣れそうにない。
「ふふ、ごめんね、びっくりしたね。今日はしないよ。明日から二人が来るからね。だからまた今度、二人のときに、続き、しようね」
いっぱいいっぱいの俺に気づいた閣下が、よしよしと宥めるように背中をとんとん優しく叩く。すっかり通常モードに戻ったその手にほっとしたのは確かだが、そっと、わからない程度に離された体にハッとした。こうやって俺の小さな受け皿に合わせてくれる閣下の優しさは嬉しいが、我慢をさせたいわけじゃない。このまま明確な取り決めもなく引いてしまったら、きっとこの夜の“続き”はずっと先になってしまうだろう。俺の心が決まるまで、と閣下はいつも待ってくれているけれど、そんな日は無理やりにでも決めなければいつまでも訪れないに決まっている。多少強引でも、うじうじしている俺にはきっかけが必要なのだ。だから今日をその日にしよう。この人が溢れんばかりに俺に注いでくれるものに慣れていきたい。想いに応えたいし、できれば俺からも返したいと、今なら素直に思えるから。
「一週間後!」
「?」
「一週間後、その、次の日夕方からしか仕事が入ってない日が、ある、ので……」
だんだんと尻すぼみになっていく俺の言わんとするところを察したのか閣下は驚いたように目を見開く。
「いいの?」
「……はい」
「私は日取りまで決めなくてもいいと思うのだけど」
「いえ! 自分には必要なことですので!」
「……無理してない?」
「っ無理じゃない、です!」
がばりと勢いよく起き上がった俺に合わせて閣下も上体を起こした。本心かどうか見極めるようにじっと目を合わせてくる閣下に俺も負けじと見つめ返す。威嚇しているみたいでなんだかおかしなことになってしまったが、ここで引くわけにはいかない。それがお互いのためになる。多分。いや、必ず。
「……じゃあ、一週間後ね」
ふっと笑った閣下は、先ほどの獣みたいに貪るキスではなくて、赤子を寝かしつけるような優しく甘やかな口付けを俺の額に授けたのだった。