三連休明けの学校ほど億劫なものはない。期末テストも終わりあとは終業式を残すのみではあるのだが、その数日さえ惜しいほど休暇を待ち遠しく思うのは高校生なら皆そうだろう。ジュンはそんなことを思いながら今日もじりじりと肌を焼く太陽の下、自転車で通学路を進んでいた。休みになれば早起きも、この茹だるような暑さからも解放される。これほど喜ばしいことはない。
「はよざいまーす」
所定の駐輪場に止め校舎へ向かっていると、目の前によく知った背中が現れた。ぽん、と肩を叩き彼の顔を覗き込むとそれは三連休の前に見た七種茨の顔とはすっかり変わっていた。
「ひええ!?」
「ひとの顔を見てそうそう失礼な人ですね」
不機嫌そうな声と共にジュンを振り返ったのはおそらく七種茨であろう人物だった。特徴的な髪色と同じくらいの背丈からまず間違いなくそうだろうと思い声をかけたのだから、振り返った顔はジュンのよく知るメガネをかけた、男にしては少し可愛げのある顔のはずだった。が、見えなかったのだ。間違った文字をボールペンでぐるぐると消すように、茨の顔は黒い線でぐるぐる塗りつぶされていた。
「ジュン?」
金魚のように口をぱくぱくさせ自身の顔を震える指でさすジュンに、初めは苛立っていた茨も何かを察したように冷静さを取り戻す。そうしてやれやれとでも言いたげに大きなため息をついた。こういったやりとりは、実をいうと二人の間では割と起こることだった。
「またですか」
「今日のはまたとかいうレベルじゃないですって……そんなのどこから連れてきたんですかあ」
半分泣きそうな顔で問い詰めるようにジュンは茨の両腕を掴んだ。その腕がこの暑いのに少しひやりとしているように感じられて触れたところがぞわりと鳥肌がたつ。冷や汗が背筋をつたい、全身に悪寒が走った。ぱっと見たところ顔以外はいつもの元気な茨といった様子であったが、いつもより相当まずいことになっているという予感がした。
ジュンは昔から俗にいう幽霊というものが見える人間だった。物心ついた時から人とそうでないものの区別がつかず、何もないところに話しかけたり、怖がって逃げようとしたりするものだから、周りからは変わった子どもだと言われていた。例えばジュンに幽霊をどうこうする能力があれば話は変わっていたかもしれないけれど、残念ながら人ならざるものが見えるだけで、彼にはそれを成仏させることも除霊することもできなかった。ジュンにできることといえば、せいぜい良いものと悪いものを見分けることくらいだ。あとはひたすら幽霊に関わらないよう、密やかに生活する日々だった。
そんな中、初めてできた友達が茨だった。茨は幽霊というものを全く信じていないタイプの人間で、ジュンのことを気味悪がっていじめているクラスメイトのことを幼稚で低脳だと馬鹿にしていた。茨曰く人間の方が見えない幽霊なんぞより百倍恐ろしいのだとか。二人が友人になるまで紆余曲折あったが(そして茨自身はジュンのことを友達と認めていないようだったが)中学で出会ってから高校二年の現在までの間に、「友達」と呼んで差し支えない打ち解けた関係を築いている。
そんな茨について、一点だけジュンには心配なことがあった。それは茨がなぜか人外にとても好かれやすいということだった。本人には見えていないかもしれないが、彼の周りではいつも弱い幽霊がふらふら漂っているのだ。その大半は悪さをしない良い霊で気がつけば消えてしまっているのだが、たまに悪い霊が漂っていることもあり、ジュンは気が気ではなかった。何せ祓うことができないものだから、この唯一の友人に何かあってもジュンにはどうしてやることもできないのだ。
そうしてついに今日、その心配が現実になってしまった。
「とにかく、ここにいても仕方ありませんから教室に行きますよ」
「いやなんか、お祓い?とか行きましょうよ」
「いやですよ、ほら、チャイムなりますよ」
「いばらあ〜!」
こんな時「おひいさん」がいてくれたらなあと、ジュンは遠ざかっていく茨の背を追いかけながら縋るような気持ちで今はいない萌黄色を思い浮かべていた。
※
茨が倒れたのは二限目の体育の後だった。体育といってもテストがすでに終わっていることもあり、授業というよりは生徒主催のレクリエーションタイムのようなもので、種目への参加は任意だった。相変わらず顔が真っ黒な茨は気怠そうに体育館の隅で見物をしていたのだが、ふと視線をやるとぐったりと横になっていて、ジュンは持っていたバスケットボールを放り投げて慌てて駆け寄った。声をかけると意識はあるようだったが起き上がることができず、ジュンは教師に断りを入れて泣きそうになりながら保健室へ駆け込んだのだった。
「おそらく暑さにやられたんだろうな」
ぐったりした茨の熱を測って水分補給をさせ、ベッドに寝かせた保健医が体を冷やすために氷嚢を作りながらそう言った。保健医は呑気なことを言っているが、原因は暑さではなく茨の顔を塗りつぶしているこの黒いものだということがジュンには分かっていた。朝見た時よりも首の方にまで黒いものが侵食してきているように見えた。けれどもそれを見えない保健医に伝えても全くの無意味で、そしてジュンには自分一人でこれをどうにかする知恵も力もなかった。せいぜい「おひいさん」が持たせてくれたお守りを茨の掌に忍ばせてやるくらいだ。大事な友達の危機に何もしてやれない自分が情けなかった。
ジュンのいう「おひいさん」とはこの高校に併設された大学に通う大学生のことだ。ジュンにはできない“幽霊をどうにかする”不思議な力を持っていて、以前ジュンがなにかとてつもなく邪悪なものに絡まれてるところを助けてもらって以来、懇意にしている。(懇意にしているというか、ジュンにとってはいいように使われていると言った方が正しかった)「おひいさん」が持ってくる事件を一緒に解決することもあったし、ジュンが巻き込まれた事件を解決してもらったこともあり、その実力は折り紙つきであった。
しかしその頼りになる「おひいさん」は、先日から所用で長期間この街を離れていた。一応留守電に簡単な事の経緯とできるだけ早い折り返しの連絡が欲しい旨連絡を入れておいたが、帰ってくるのは来月の頭ごろという話だったので、現在地はわからないがおそらく間に合わないだろう。ジュンは頭を抱えて、今もなにものかに蝕まれている茨を救う術を探していた。
※
三限が始まると授業に戻りなさいと保健医に追い出されたので、気もそぞろにソワソワしながら昼休みがやってくるのを待っていたジュンは、チャイムと同時に教室を飛び出し、一路保健室へ向かった。
「なんだ、もうきたのか漣」
昼飯は?と尋ねられたが、友人の命がかかっているのにのんびり昼を食べる心の余裕がジュンにはなかった。ぶんぶん首を振ると、保健医が苦笑する。きっと体の割には肝の小さい、心配性な友人として保健医の目には映っていたことだろう。
「お前まで倒れてしまうと七種だって気に病むだろ」
「そうかもしれないっすけど……あ、いや、茨に限ってそれはないかも……」
「なんだなんだ、お前たち仲良いんじゃないのか。最近の子どもはわかんないな。ま、保護者にも連絡がついたからそう心配しなさんな」
気が済むまでいたらいいと引き出しから取り出したプロテインバーをジュンに持たせた保健医は、その場をジュンに任せて席を外した。職員室で用を済ませてくるということだったが、保健医が離席するのはジュンにとって都合が良かった。ベッドを囲むカーテンをそっと開き中に滑り込む。そこには先ほど見た時と変わらず黒いものに顔を潰された茨が横たわっていた。しかし、首周りまで来ていたもやが少し引いているように見受けらる。
「茨……」
布団をめくって左手を確認すると先ほど忍ばせたお守りが気持ちクタクタになったように見えた。首元の侵食が止まっていることもあり、わずかだがこのお守りが効いているようでジュンは一旦胸を撫で下ろした。
「とはいえ、これじゃあ根本的な解決にはなりませんしねえ」
どうしたもんかなと恐る恐る茨の顔に触れる。目ではわからないけれど、触るときちんと目鼻はあるようでちょっと安心した。黒いものは雲のように通過して特にジュンの手についてくることもない。
もしこの悪いものを茨からジュンに移すことができるなら、そちらの方がジュンとして気持ちが楽だった。本当はこんな得体の知れないものに取り憑かれるのはごめんだけれど、指を咥えて見ている間に友人が最悪死んでしまうかもしれないくらいなら、自分が引き取った方がいくらかマシだった。「おひいさん」と連絡がつけば、きっと解決方法がある。
とはいえ、それに触っても自身に移すことはできず、お守り程度では追い払うこともできない。
「うう、おひいさん、早く電話くんねえかなあ」
眠ったままの茨は一向に起きる気配がない。八方塞がりのジュンは頭を抱えるばかりで、ただ時間だけが過ぎていった。
そうして頼みの綱の「おひいさん」からの電話を健気に待っていると、からからと保健室の戸が開く音がした。カーテンの向こうに人の気配がする。思ったよりも早く保健医が戻ってきたことにジュンは内心焦った。もし「おひいさん」から電話がかかってきて何か応急処置を指示されたとき、病人の横で電話をするなとか、何を騒いでいるんだとかいってつまみ出されてしまっても文句が言えないからだ。ここは保健医の根城で、一生徒のジュンには何の権限もない。ドキドキしながらカーテンの向こうの様子を伺っていると、聞こえてきたのは想定していた保健医の声とは異なっていた。
「……茨?」
それは今まで聞いたことのない、低い落ち着いた男の声だった。カーテンに人影が映り、境目に差し込まれた長い指がそっとそれを左右に開く。そこには豊かな銀髪の、見たこともないような美丈夫が立っていた。彫りの深い顔とスラリとした手足、浮世離れした赤っぽい瞳はどこか異国の血を感じさせた。
あっけに取られて思わず視線が釘付けになっているジュンをよそに、男はベッドで眠る茨の顔を見てほんのわずか柳眉顰める。それからジュンの方を向いて、外見に似つかわしくない幼い仕草でこてんと首を傾げた。
「ジュン?」
「うえ!? あ、ハイ!」
「そう、じゃあいいか」
「はい?」
男はベッドを迂回してジュンの後ろにくると、背後からジュンの頭を抱くようにしてその長い指で目隠しをした。初対面の人間に突然触れられてジュンはびくりと肩を振るわせる。
「あ、ごめんね、でもきっと見ない方がいいから」
申し訳なさそうに男が謝罪した。見知らぬ見目のいい男の登場からすっかり気が動転していて状況についていけていないジュンだったが、彼の不穏な台詞に、更に頭が混乱する。
「そう、いい子だね、そのまま大人しくしていて」
一体これからなにが起きるというのか。今にも心臓が飛び出してしまいそうなくらい、ばくばくと高鳴っているのがわかった。
「……その子は私の可愛い子だから、誰にもあげないよ」
男はぽつりとそう呟くと、ジュンの背中に覆い被さるようにして茨の方へ空いている腕を伸ばした。少しするとズズズ、ぞぞぞ、となにかを啜るような、聞こえてはならないような音がどこからともなく耳に入ってくる。背後に密着した男の体が隆起してまるで何かを飲み込んでいるような――。そこまで考えてジュンはその恐ろしい考えを頭から振り払った。今がどういう状況なのか、目を開けても閉じても真っ暗闇のジュンには分からないが、こんなに禍々しい音を立てているのだからきっと見なくてよかったものに違いない。想像しないように、ジュンはなるべく楽しいことを考えるよう努めた。
「……終わったよ」
長いような短いような時間は、男の涼やかな声によって終わりを告げられた。手のひらが外され、さっと視界が明るくなる。電灯の眩しさにうっすら目を開けると、そこには三日ぶりに見た茨の健やか寝顔があった。
※
不思議な出来事によって茨の顔を黒く塗りつぶしていた何かが取り除かれると、彼はすぐに目を覚ました。それを見届けて、ジュンはふう、と詰めていた息を吐き出した。
「よかった……」
腹の底から搾り出すように、その言葉が口をついて出た。ジュンの力だけでは太刀打ちできず、頼みの綱の「おひいさん」とも連絡がつかず、ただ何かに蝕まれている友人を見つめるしかできない焦りと無力感からかなりメンタルを削られていたのだ。安堵感からつい涙腺が緩みそうになるのをなんとか堪える。茨が目を覚まして本当によかった。肩の荷が降りてすっかり脱力してしまったジュンは、そのまま茨の腹の上に状態を投げ出した。
未だぼんやりとしている茨は、不思議そうに倒れ込んできたジュンを見、次いでジュンの背後に立つ男の顔を見た。
「かっか?」
「そう、君の閣下だよ」
おはよう、なんて呑気に声をかける男はそっと茨の顎を掬い上げる。
「悪い子だね、私がいない間にどんなやんちゃをしたのかな」
「……なにも、していませんけど」
「言い訳は家に帰って聞こうかな」
荷物をとってくるからまだ寝ていてね、と言いおくと、男は茨の頭を一撫でして保健室を後にした。まだ夢から覚めていないような、いつものきびきびした茨とは大違いの様子を心配しつつも、ジュンは声をかけた。
「今回はだめかと思いましたよぉ」
「……はあ、またいつものやつですか」
「もー、こんな目に遭っても信じてくれないですか!?」
「自分の自己管理がなっていない、ということなら認めざるをえませんがね」
「頑固者〜……まあ別に茨はそれでもいいんですけど。でも、あの人が来なかったらマジでやばかったんですからね」
「そうなんですか」
「そうなんですよ。つか、あの人誰なんですか? なんかすっげー美人ですけど」
「閣下ですか?」
きょとんとした茨が、言ってませんでしたっけ、と首を傾げる。
「自分の後見人……所謂保護者ですが」
「え」
ええ!?とあまりの驚きにジュンはガバリと起き上がった。そのジュンの絶叫を聞きつけた保健医から、この後「病人の枕元で叫ぶ奴があるか!」と怒られたのは言うまでもなかった。