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    海に行くアズロロ
    イベント用展示小説となります
    ☆全年齢
    ☆時間軸がちょっと曖昧
    ☆何でも大丈夫な方向け

    #アズロロ

    ひと夏に溺れる 僕は、必ず。
     世界統べる、偉大な魔法士になる。誰にも馬鹿にされず、堂々と胸を張って生きられるように。

     その為に、僕は———……

    ***

    「これはこれは!ノーブルベルカレッジからはるばるお越しいただいた、ロロ・フランムさんではありませんか!」
     その姿を見るや否や、僕は声のトーンを一回り、いや二回りほど高くする。花の街で見た豪華絢爛な制服では無く、見慣れたジャケットに身を包んだ彼は居心地悪そうに肩を震わせた。
    「……あ、あぁ、君は」
    「そうです!交流会では大変お世話になりましたアズール・ア—シェングロットです。いやぁ覚えていただいたなんて、なんと光栄な事か!」
     彼が逃げる前に、その細い手をがしっと掴む。ぶんぶんと縦に振りながら、交渉で培ったトークスキルを遺憾なく発揮し相手に喋らせる隙を与えない。
     自分のペースに巻き込んでしまえば、こっちのものだ。後は時間をかけ、ゆっくりと、自分の領域へ引きずり込めばいい。

    「短期留学に来られたとか。すぐご挨拶に伺えなくて本当に申し訳ありませんでした。この学園の居心地は、いかがです?何分騒がしいところですが、静かなところも沢山ありますよ。図書室には行きましたか?あぁ!それよりもぜひ、僕の経営するカフェ『モストロ・ラウンジ』へお越しください!ロロさんがご希望なら、より静かに過ごせるVIP席もご用意しましょう」
    「そ、それは有難いが、私も忙しくてね。今日の放課後は、モーゼス先生のところへ質問を」
    「えぇ、えぇ!何も今日でなくたって構いません。留学中、是非とも!一度遊びにいらしてくださいね。あっ、これカフェで使えるクーポン券とポイントカードです。ではまた!」
     懐に忍ばせておいた二つを、半ば強引に手渡すと爽やかな笑顔で一礼をして僕は踵を返した。思い返せば、花の街には数多くのカフェが並んでいたものだ。その街で育った彼なら、利用する回数もさぞ多かっただろう。カフェ、と聞けば多少は興味を持つに違いない。
     だが、彼の性格の事だ。押し切るよりは、一度引く。後は自分で調べ、興味を持ち、自らの足を運ぶだろう。

    「随分と、あっさり引きましたね。彼とのコネクションを強めたいのではなかったのですか?アズール」
    「あれがアズールが花の街で苦戦した奴~?なんか、目つき悪いねぇ。オレ、ギュッと締めちゃおうかと思った」

     両サイド、同じ高さ。ほぼ同じトーンの声が、代わる代わるに喋り出した。
    「あれは戦略ですよ、ジェイド。彼にはあのくらいが丁度いいはず。そしてフロイド、お前は誰彼構わず締め上げようとするな」
    「だってぇ~話で聞くよりつまんなそーな奴だったし。本当にあいつが、街一個燃やし尽くそうとしたわけぇ?」
     ちゃり、とイヤリングを揺らしながらフロイドはそう言って頭を掻いた。確かに、見た目だけでは分からないだろう。二人には、花の街の土産話として事件の真相を話してある。門外不出という事を再三念押しして。

     彼の過去。彼の思惑。……そして、その強さを。
    「街どころか、この世界を一晩で滅ぼそうとした男です。噓だと思うなら、決闘でも申し込んでみては?校則違反で先生方に捕まると思いますが」
    「げぇっ。んな事したらアズールめっちゃくちゃ起こるじゃん。それならモストロでさりげなく暴れてた方が好き」
    「おい何ださりげなく暴れるって。厨房で何かしてるんじゃないだろうな?おい、フロイド!」
     聞き捨てならない言葉に問い詰めようとするも、僕の手からするりと抜けた幼馴染は楽しそうに笑いながら廊下の先へ走って行ってしまった。
     ため息をつく僕を、もう一人の幼馴染はやはりクスクス笑うとこちらの顔を覗きこんでくる。
    「それで、一晩にして世界を滅ぼそうとした彼を———なにゆえそこまでして取り込みたいのです?お聞かせ願いたい、”ボス”」
     両違いの瞳が光る。水の中でも、陸でも、こちら側を見透かすような揺らめきを持っているそれは、時折、何かを天秤にかけるような鋭さを孕んでいた。
    「そんなの、決まっているでしょう」
     今更、そんなものに怯える僕では無い。天秤は常に、僕の方へ傾く。その結果が今に、そして未来に繋がるのだ。そしてそれは彼もまた例外では無いのである。

     彼の力。つまり———彼の立場を、最大限利用するわけにはいかない。

    「学生の内に花の街きっての権力者と親密な関係になり、ゆくゆくは事業を大幅に展開させるため!その為に僕は、彼とのコネクションをより強力にする必要があるのですよ!」

     花の街。豊かな資源に、小さいながらも商売に富んだ土地。観光地としても名を馳せ、とにかく金の匂いがする。
     大変素晴らしい街だ。
    「ロロさんの実力、そして生い立ち、更には性格も加味すれば卒業後は花の街に在住する事でしょう。それこそ『正しき判事』のように、魔法士として重役を担うはずだ」
    「……確か、魔法がお嫌いな方でしたよね?」
    「えぇ。それでも魔法からは離れないはずです。魔法を根絶やしにするなら魔法の研究は欠かせないでしょうから」
     彼が『紅蓮の花』を頼ったあたり、研究職という選択肢も外せない。或いは、聖職者か。どちらにせよ学生の時点であれだけの地位を手に入れている彼なら、将来も有望だ。僕の第六感がそう言っている。
    「彼との繋がりを深くしておけば、僕の顔も街で広めやすくなる……そうすれば仕入れのルートも……旬の食材を……えっ、もしかして夢の2号店も……?!あぁっ、マドルを数える手が止まらない……!」

     鐘の音が鳴り響く美しい街に降り立つ自分を想像し、僕はうっとりと目を閉じた。
     立地も、食材も、お客だって充分だ。何が何でも手に入れたい、代物である。

    「いっそ清々しいですね」
    「な~んか、ちょっとかわいそうになってきたわ。あのホムラハゼくん」
     瓜二つの顔を寄せ合い、こそこそと言葉を交わす友人はお構いなしに僕は決意高く、廊下のど真ん中で高く拳を握るのだった。




     後日。ナイトレイブンカレッジの、図書室にて。
    「ほう?もうそんな分野まで学んでいるのか。この学園は随分と早いスピードで勉強カリキュラムを組んでいるのだな」
     一人でいた時に、背後から音も無く立たれて声をかけられた。弾かれたように振り向くと、僕は一呼吸遅れて顔を作る。
    「あぁ、ロロさん。……これはですね、授業では無く僕が独自に進めている勉強でして」
     まさか彼の方から声をかけて来るとは思わなかった。反射的に掌で隠したノートを、ゆっくり元の位置に戻す。
    「そこに座っても?」
    「えぇ、勿論」
     今しがた探してきたであろう本と、ノートとペンを持って彼は席に座る。こうして見ると、うちの制服姿も随分馴染んできてしまった。豪華な刺繍に赤い色のスカーフが翻る、あの後ろ姿が懐かしくすら思う。

     上品そうに手を揃え、花の街を闊歩する彼の姿は———美しかった。

    「ノーブルベルカレッジよりはるかに騒がしいが、図書室の蔵書は実に豊富だな。我が校へ持ち帰りたいくらいだ」
    「それは何よりです。学園長に話を通せば、手続き出来そうなものですが」
    「……いや、遠慮しておこう。そうなれば返しに来なければならないからな」
     眉を寄せ、ポケットから紫色のスカーフを取り出した彼は静かにそう呟いた。ノートを開き、本を並べてペンを走らせていく。つくづく真面目なお人だ。留学中の課題なんて適当に埋めておけば良いのに。
     テストも近くない時期、図書室に出入りする人間はまばらだ。広い空間に、所々に人がいて本棚の影に隠れている。微かな話声とページを捲る音が静かに反響する。そんな空間が、僕が嫌いではなかった。
    「あ、先日はありがとうございました。まさかあんなに早くカフェへ来ていただけるとは」
    「卿が誘ったのだろう……私も興味があったからな。経営は卿が行っていると聞いたが、相違ないかね」
    「はい。店の装飾にメニューや料金の設定、人材採用、店の営業許可や経費まで管理しております」
     図書室に似合う、やや低めの静かな声で言葉を交わす。ここでは時折、口からあぶくが溢れない事に些か驚く事がある。

     当たり前だ。
     だってここは、陸の上なんだから。
     僕のいた故郷では、無いのだから。

    「従業員、ひいては生徒を束ねるのは大変では無いかね」
    「そうですね。ま、やりようはいくらでもあります」
    「頼もしい答えだな。特に、異種族間では育った環境も考え方も違うだろう。崩壊しないのが、不思議なくらいだ」

     走らせていたペンを止めた。
     そうくるか。いや、いつかは話す時があるかもしれないと思っていた。
     ……さて、どう出ますかね。

    「諍いや小競り合いは絶えませんよ。事実、崩壊の一歩手前まで来る事なんてザラにある。それでもこの学園の均衡が保たれているのは———価値基準としての『魔法』があるからです」
     ここでは魔法こそが全てだ。秀でた魔法、強い魔法、珍しい魔法。魔法にこそ価値があり、アイデンティティなのだ。だからそれを、より価値のあるものにする為に勉強する。強化する。場合によってはそれをひけらかし、力を比べ合う。
     種族が違えど、同じ事だ。
    「ノーブルベルカレッジには、あまり異種族の生徒はお見かけしませんでしたね」
     ペンから手を離し、僕は手を組んで前を向いた。真面目で神経質な彼は、すぐに僕の視線に気づいて目を合わせる。

    「嫌いですか。異種族は」

     声のトーンを変えなかったのは、別に彼を挑発したかったからでは無い。
     仮にそんな事実があったとして、そんな些末な事は僕に少しのダメージを与えるものでは無いと、示したかったからだ。
    「いや、そういうわけでは無い。不快にさせたのなら悪かった」
    「とんでもない。かの『正しき判事』も、当時問題視されていた”他国からの放浪者”には特に厳しく取り締まっていたと聞きます。今は外交システムがしっかりと構築されていますが……そんなものなど無い昔なら、さぞ厄介だったでしょう」
     グレートセブンには名を連ねないものの『正しき判事』もその功績を讃えられ、僕達は彼の歩んだ歴史を学んでいる。

     当時の政治情勢。
     花の街には移民が溢れ、街側の権力者はそれを是としなかった。当時、まだ処刑制度が残っていた生々しい時代でもある。

    「———我が校は、悔しながら規模も小さくてね。単に受け入れ体制が取れないだけだ。遥か遠い地方の獣人、それに人魚……変身魔法を使っているとはいえ、環境には大きく左右されるだろう」
     僕の意に反して、彼は淡々と述べた。視線はノートへと戻して、さらさらとペンを走らせる。学生らしからぬ、背筋を伸ばしてものを書く様子は随分と大人びていてとても一つ上の年齢とは思えない。
     と、彼はその瞳だけを動かして僕を見た。鋭い眼光に、一瞬だけ息を呑む。
    「しかしながら、アズールくん。私もただ指を咥えて地団駄を踏むつもりは無いのだよ。いずれ我が校にもそれ相応の設備を整えて、全国から生徒を受け入れられるような体制を作る」
     一息に述べた、その声にうっすらと僕は燃える炎のような『熱』を感じた。声に熱がこもる、とは陸でよく聞いたものだが、彼の低く響く声ほどそれを感じた事は無い。
     言い換えれば、怒りのような。或いは悔しさを、そして悲しみを押し潰すような熱。
     それでいて、水を得た魚のような———何か、生き生きとした力強さを感じる音。
    「魔法は嫌いだ。だが如何なる場所でも、どこから来た者でも。幼かろうが、年老いていようが……学ぶ機会は平等にあるべきだ」
     ペンを持つその手に、グッと力が入る。俯く彼とは逆に、僕は思わず顔を上げた。
    「そう、あるべきだと。今はそう思っている」
    「全くもって同感です。今時、そんなものに左右されるなんて時代錯誤もいいところだ」
     僕の答えに、彼はまた一つ頷いた。そうしてまた、ペンが紙の上を滑る音が広い館内に響き始めた。

     ページを捲りながら、僕はあの、薄暗い海の中に再び思いを馳せる。
     確かに海の中にも、魔法を学べる場所はあった。但し、あの世界は狭くて、暗くて、僕にとっては孤独だった。制限された世界の価値観の中で比べられ、馬鹿にされて。更に狭い蛸壷の中だけが、唯一僕を慰めて安心させてくれる。そんな子供時代だった。
     黒く、冷たい水の中。赤く、激しい炎の中。対照的なようで———実は、同じだったのではないだろうか、僕達は。そんな事をふと考えてみる。その中にいるのは、たった一人ぼっちの少年なのだから。

     だから、同情なんてしない。
     憐れまない。嘆きもしない。

     それが何よりの『軽蔑』である事を、僕も、彼も、分かりきっている。

    「僕、そろそろ出ますけど」
    「む……もうこんな時間か。私も寮に戻らねば」
    「確か監督生さんの、オンボロ寮で過ごしているんでしたっけ。どうです、住み心地は」
    「グリム君の寝言が限りなくうるさい」
    「ふふ」
     図書室を出ると、暖かい風と陽射しに目を細めた。遠くのグラウンドから掛け声のようなものも聞こえる。さっきまでの響きや静けさが、まるで幻みたいだ。海から陸へ来た時を、昨日のことのように思い出す。
    「それにしても貴方、魔法がお嫌いな割には課題もきちんとこなすんですねぇ」
    「ふん。嫌いだからこそだよ。敵を倒すには敵を知らねばならぬ。唯一の矛も、君達に折られてしまったからね。それに、仮にも名門校だけあって講義の内容はレベルが高い。特にモーゼス先生のお話は大変ためになる」
    「本当に熱心ですね」
     矛は折れても心は折れず、か。如何にも彼らしいと素直に感心して、僕は感嘆の声を上げる。いや、そもそもこのくらいの執念、そして図太さが無ければあれだけの事を成し遂げられないか。

     だからこそ。
     彼のような逸材は、無くしがたい。火に薪をくべて、いつまでも燃えていて欲しい。どんな水や、風にも負けずに。
    「あまり根を詰めすぎては、それこそ身を崩しますよ」
    「卿がそれを言うのかね」
    「まあまあ。是非ともここでは”会長”の肩書を忘れてゆっくりしていってください。またカフェの方にも」
    「後者が本心だな。卿も熱心な事だ」
    「儲けがかかっていますからね。なんにせよ、良い成果には良い休息が必要だという事です」
     各寮の分かれ道に差し掛かったところで会話を締めくくる。ではまた、と挨拶をして僕は自分の寮へと向かった。そこから寮につくまで、しばらくは頬に残る熱が消える事は無かった。




     さて、話は丁度その一ヶ月後の事である。
    「お電話です、”支配人”」
     モストロ・ラウンジの経営中にジェイドから声がかかった。頭の中のスケジュールをざっと確認したが、取り立てて約束していた事案は無い。
    「相手は」
    「お出になればわかるかと」
     そう言って微笑む幼馴染に、僕は些か顔を顰めた。普段は相方とふざけ合っていても、仕事と遊びの区別はつけられる男だ。相手の名前を言わない辺り、悪戯の延長かと身構えながら受話器を取る。

     しかし、電話越しの相手は決して悪戯な人間では無かった。
    もしもしアロー?』
     低く、大人びた声。初めて電話越しで聞いても分かる、教会オルガンのような重厚感。
    「ロロさんですか?」
    『左様。……先に出た方に、名前を告げたはずだが』
     ややしどろもどろになりながら、胸の奥で舌打ちをする。ジェイドの奴、だから名前を言わなかったのか。僕がどんな態度で電話を取るのか、さぞ興味深かったのだろう。
    『卿の連絡先を、これしか分からなくてね。ほら、スタンプカードを私に寄越しただろう』
    「えぇ。そうか、電話番号を記載していましたね」
    『時間を改めた方がよろしいか?』
    「いえいえ。お客の入りも今日は落ち着いているので」
     受話器を耳に当てながら、僕は客席に目を配る。モストロ・ラウンジ———オクタヴィネル寮はいつになく穏やかだ。暖かい海の中で魚はのびのびと泳ぎ回り、そこで働く者も、食べる者もリラックスしている。一部の騒ぎ声や、皿の割れる音くらいではもはや驚かない。

     いや、今聞こえたやつはフロイドだな。今月入って十枚目だから説教と給料天引き決定。

    「それで、何か御用でしょうか。わざわざ貴方が連絡をしてくるなんて、よほどの事がおありなのでしょう?」
     彼の短期留学も終わり、花の街に帰ってしばらく経つ。あれからは律儀に何度かカフェにも足を運んでくれたし、留学最終日には挨拶にも来ていた。後は疎遠にならぬよう、定期的にモストロ・ラウンジのお知らせや挨拶文を送って……と算段していたので、むしろ彼からの連絡は願ってもない事だった。
     さて、どんな頼み事だろうか。

    『———海に、行かないかね』

     はい、喜んでと言いかけて。
     誰も見てはいないくせに、僕は首を捻った。
    「ええと、すみません。ちょっと電波が……海、だけ聞き取れたのですが」
    『海に行かないかね。アズールくん』
     聞き間違いじゃなかった。いっそ、聞き間違いなら良かったのに。
    「海、ですか。……あぁ!生徒会の皆様で合宿ですか?ケータリングならお任せ下さ」
    『違う。プライベートでだ』
    「あ、あぁ、なるほど。プライベートで……海ですか。僕と」
    『そうだな』
     単語を機械的に繰り返す。注文の確認、電話番号の繰り返し同様、お客様からの要望を間違えない為によくするやり方だ。又は自分の口で繰り返すことによって、自分の脳内に留めておく為でもある。

     ロロさんと、海に行く。プライベートで。
     ……何故に?僕と?

    「僕は構いませんが、その、理由をお伺いしても?」
    「休息が必要なのだろう。私には」
     一瞬頭にハテナが浮かぶ。それで唐突に、図書室でのやりとりを思い出した。
    「そうですね。息抜きは誰しも必要かと。海、お好きだったんですか」
    『いや?特には』

     ……
     何というか。ほんっとうに面倒な人だな。頭良いはずなのに。
    「念の為確認ですが、本当に僕でよろしいんですか?いえ、ロロさんにご指名いただけるなんて光栄な事この上無いのですが」
    『あぁ。むしろ適任かと思うがね』
    「ご忠告しておきますが、僕は人魚だからといって全国の海に詳しいわけではありませんよ。花の街の近くなら、ロロさんやご友人の方が詳しいのでは?」
     いつか、何かの本で見た輝石の国の写真を思い浮かべる。あの辺りは暖かい風が吹いていて、観光地としても名高い。時期的にも訪れる人が多くなる事だろう。彼に、あの人混みは耐えられるのだろうか。
    『近くの海へは行かない』
    「え」
    「確か……ずっと北の方だったかな、アズールくん。卿の生まれ育った海だ」

     ざぁ、と真っ黒な細波が、僕の足元を飲み込んだ。

    「そう、ですけど……まさか、行くんですか」
    『卿が案内してくれれば』
    「一体何の為に?っていうか列車で何日かかるとお思いですか。観光地でも無ければ周りにはカフェの一つも無い、冷たくて寂しいところですよ。とても貴方の癒しにはならないかと」
     そこまで言ったところで、受話器の奥がしんと静まり返る気配がした。しまった、と思いつつ強張った頬が中々溶けない僕は、口元で手を遊ばせながら彼の声を待つ。
    『……が』
    「うん?」
    『弟が、……夏の海遊びが好きでね。先日、ふと思い出したのだよ。貝殻を拾ったり、浅瀬で足をつけたりして……それまでは忘れていたが』
     細く言葉を紡ぐ彼に、僕は小さく相槌を打つ。
     それはそうだろう。何せその弟君が亡くなってから、彼は魔法に対して復讐の炎を燃やし続けていたのだから。

    「それで、海ですか」
    『あぁ。好奇心の強い子だったから……夏がくればきっと、色んな海を見に行った事だろう。世界の景色を』
    「えぇ」
    『……あの日、終わるはずだった命だ。どうせなら有益に使おうかと』

     少し苦しそうな、その呟きが耳の奥に沈む。僕は大きく息を吐くと近くに置いていたスケジュール帳を手に取ったのだった。



     そして当日。
    「おはよう、ございます」
    「おはよう。アズールくん」
     待ち合わせていた駅のホームで、僕達は短く言葉を交わした。

     朝一番の列車。真夏なので既に日は登っているものの、まばらに待つ人やホームに置かれたベンチ、時計なんかは眠そうにしている。
    「……お一人なんですね。てっきり、生徒会の皆さんも来るかと」
    「声を掛けようかとも思ったのだが……そう言う卿こそ、今日はあの、双子の友人達は連れてきていないのか」
    「えぇ、まぁ」

     ———え〜、オレはパス。用があんのはアズールだけでしょ。いーじゃん、ちゃちゃっと打ち解けてきなよぉ。

     ———すみませんアズール、僕も先約があって。あちらがご友人を連れてくるのであれば、会話には困らないのでは?無事に仲良くなれると良いですね。

     列車が気だるそうにホームへ入り、ドアが開いた。乗り込んだ車両には僕達しかいない。
     それはそうだ。観光地でも何でもない、北の、冷たい海へ行くのだから。
    「とはいえ、僕の故郷までは数日かかってしまいますので。今日はこの辺りの海岸を目指します。列車ならお昼近くには到着するかと」
    「ふむ、わかった。調べてもらってすまないね」
    「いえいえ、慣れていますから」
     地図を広げて、改めて場所を確認する。珊瑚の海はとても広い。僕の故郷は北の先端と言っても過言では無いが、今日行くところも大分北の方だ。水は冷たく、訪れる人も少ないだろう。

     列車が欠伸のような汽笛を鳴らして、のっそりと動き始める。座席を揺らす振動は、やがて軽くリズミカルになっていく。
    「ノーブルベルカレッジは、もう夏休みに入ったのですか」
    「あぁ、里帰りしている生徒も多いよ」
    「ではロロさんも、休暇を利用してご自宅に?」
    「あー……そうだな。しばらく家には帰っていないから」
     横並びに座り、取り留めもない言葉を交わす。今日一日はこの方と二人きりなのだ。何も無い移動時間は、会話で繋ぐ他無いだろう。何と言っても、これは彼からの依頼だ。
     それに。
    「いやぁ、それにしても『花の街・夏のマルシェ』で出店出来る事になるとは。今、どんなメニューを出そうか考えているところなんですよ。貴重な出店枠をいただけて、本当に感謝しております」
    「なに、”対価”になればと思ってね。人気店のオーナーの時間を頂戴するのだから、それ相応のものをと考えたまでだ。”会長”の肩書もたまには役に立つ」
    「ふふ、今日は全力で楽しませますよ」
     僕が意気込んで大きく頷くと、それは頼もしいと彼も笑った。存外、大人びた雰囲気の中に少しばかり幼さを加えたような、柔らかい笑い方だった。
     何というか、例えば僕に兄がいたら———こんな感じなのだろうか。不要な思考は小さく頭を振って、振るい落とす。
    「花の街も、夏は観光客で賑わうのではないですか?」
    「左様。それこそ夏のマルシェに、また祭り事に……別の街に泊まりに来た者が観光がてら来ることもある。賑やかなものだよ。しかしまぁ、『さかさま祭り』の時と比べれば比較的穏やかなものだ」
    「そうですか。いやぁ、観光地というのもそれ相応の苦労がおありなのですね」
     彼の話を聞きながら、僕は今一度花の街の景色を頭に描いて広げる。燦燦と降り注ぐ太陽の下で、魔法植物が色鮮やかなに咲くのはさぞ見物だろう。活気づいた住民達は競う様に声を張り上げ、観光客は皆物珍しそうにその景色や土産物を楽しむのだ。そこに我が『モストロ・ラウンジ』の名前を連ねられるのは、本当に願ってもない話だった。

    「だから、丁度良いと思ったんだ」
    「はい?」
    「今、花の街には人がごった返している。勿論、近くの海にもだ。……人が少ない方が、卿ものびのびと出来るだろう」

     やや遅れて、その言葉の意味を理解する。
     思わず立ち上がりそうになるのを抑えて、僕はそれまで上げていた視線を床に落とした。

    「あの」
    「なんだね」
    「……僕、戻りませんからね?その……本来の、姿に、は」
     ずり落ちた眼鏡を、手で直す。歯切れの悪い物言いになってしまった事を、今更ながら後悔する。そんな事など露知らずか、彼はさして気に留めた風でも無く「おや」と呟いた。
    「遠慮せずとも良いのに。魔法でその姿を維持し続けるのは大変だろう?」
    「遠慮とかじゃなくて……変身は魔法薬を使用していますのでご心配なく。浅瀬で遊ぶ程度でしたら、この姿のままでも問題はありません。それに」

     そこまで言って、口を噤む。

    「……それに、何かな」
    「いえ、何でも。貴方お一人を残して海に入るのも、あまり良い判断では無いかと。知ってます?海って、潮の満ち引きで浅瀬にいても危ない時があるんですよ」
     だから戻りません、と念を押すように告げれば、彼は特段深掘りするわけでも無く頷くだけだった。
    「そういうものかね」
    「えぇ。そういうものです」
     会話がそこで一度終わり、列車がゆっくりと止まった。一つめの停留所、やはり朝早すぎて誰も乗ってはこない。ドアは閉まり、さっきよりはいくらか眠気も飛んだかのように元気よく走り出す。僕達の雰囲気を、まるで読んでいないかのようだ。長い沈黙の後に、観念して僕は恐る恐る口を開いた。

    「ロロさん」
    「何かね」
    「もしかして、見たかったんですか。僕の、人魚姿」
     いや言われたとして、絶対に見せないが。しかしながら彼はクライアント———僕の依頼主。報酬は十分すぎるくらいに約束されている。
     ここで、そうだと言われたならば。……やるしかない。マルシェでお店、出したいし。

    「いや?私は別に」
    「……あ、はい。そうですよね」
     心の中でがくりと肩を落として、それでもすぐに体勢を取り直して座席に座り直した。ホッとした反面、どこか落胆してしまった自分に言い聞かせる。
     良かったじゃないか、見せなくて済んで。
     グズでノロマな姿。見られたくなかったんだろ?

     とても見せられたものでは無い。……幻滅されたくない。この人に。

    「流石に時間が早すぎたな。座ったままでいると、眠たくなる」
    「よろしければ、お休みになられても大丈夫ですよ。僕が起きていますから」
     ではお言葉に甘えて、と彼は腕を組んで目を瞑った。数秒も数えない内に、浅い寝息が聞こえてくる。そっと覗くと、閉じられた瞼に朝日が降り注いで、睫毛が控えめな金色の輝きを作り出していた。丁度、海の底から水面を見上げた時の、あの何とも言えない光の屈折にひどく憧れていた日を思い出す。

     二人だけの車両で、僕はしばらく間、彫刻のような彼の横顔を見つめていた。




    「さぁ、着きましたよ!ようこそ珊瑚の海へ」
     
     予定していた時間通りに、僕達は目的地としていた海の砂浜に立っていた。二人きり、とりわけこの方であればどんな事であれ時間通りにいかないと逆に嫌だろう。青空の下、湿った風。中々に心地が良い。

     ……まぁ、海はやや荒れ気味で僕達の他には誰もいないのだが。

    「海だ」
    「えぇ、ロロさん。ご希望通りの海です」
    「広いな」
    「……そうですね。海ですから」
     会話が途切れる。響くのは波音と、近くを飛んでいるカモメの声だけ。こんなにも盛り上がらない事なんてあるのか。僕、どちらかと言えばこういうシーンでは保護者ポジションに回るタイプなんですけど。テンションの上がったウツボ達を宥める役なんですけど。

     ……ううむ。
     やはり、僕だけでは難しいだろうか。

     悔しいやら、それはそれで何故だか寂しさを感じて、僕は恐る恐る隣に立つ彼を覗き込む。
    「!」
     すると、どうだろう。表情は変わらないものの、海を見つめる目は心なしか生き生きとしているではないか。水面に反射する日の光が、彼の瞳にも散りばめられる。
     これは、もしや。
    「とりあえず、海岸を歩いてみましょうか。波も落ち着いてくるかもしれませんよ」
    「あぁ、良い考えだな」
    「帽子はちゃんと被っていて下さいね。ロロさん、日焼け弱そうですし」
    「そんな事は無いと思うがね。優秀なアテンド役のお言葉には従うとしよう」
     いつもとは違う、麦わら帽子のつばを被り直しながら話す彼は、やはりどこか柔らかい表情をしている。僕もようやく肩の力を抜いて、遠くへ続く砂浜を歩き出した。


    「海に来たのは、幼少期ぶりかもしれない。こんなにも風が強かったかな」
    「アズールくん。これは何と言う貝かわかるかね?……ほぅ、そうか。初めて見た」
    「この辺りはあまり水が濁っていなさそうじゃないか。あぁ、波が落ち着いてきたのだね」
     歩く最中、実に彼はよく喋った。少し行けば海を眺めて立ち止まり、また少し進めば砂浜に落ちている貝を拾うためにしゃがみこむ。僕は、そんな彼に一つひとつ丁寧に応えながらも隣を歩き続けていた。
    「本当だ。ロロさん、ちょっと入ってみます?」
    「……あいにく、水着を所有していなくて。足だけでも良いだろうか」
    「それはもちろん。ちょっと冷たいと思うので、そこは覚悟して下さいね」
     そう仄めかして、最初は僕が細波に足をつける。足の周りに寄せては返す波と砂が、人の足には少しばかりくすぐったい。

    「さ、どうぞ」
    「うん」
     差し伸べた手を、迷う事なく握りしめてくる。触れた指先の温度が、じわりと自分の中に溶け出す感覚。口元が緩まないよう、そっと力を入れる。
    「わ、っ」
     ざざざ、と待ち構えていたように波が押し寄せると、途端に彼は握る手を強めた。そのままよろけて、僕の方へ飛び退く。

    「……ん、ふふ、本当に冷たい。驚いた……これは、泳ぐのは無理だな。ふふ」
     くつくつと、細い肩が揺れる。今日はハンカチでは無く、手を口元に添えながら可笑しそうに笑い声が溢れた。

     えっ、この人。こんな風に笑えたのか。
     『正しき判事』というよりは……ほんの少し大人びただけの、人懐こい少年のようだ。
    「でも、いいな。足首が冷えて涼しく感じる」
    「そうでしょう?あ、ほらロロさん。また貝殻が出てきましたよ。これもあまり、暖かい海では取れないものです」
    「どれどれ」
     波で砂が流され、出てきた貝殻を手に乗せる。それを、彼が興味ありげに覗き込んできた。ボタンが一つだけ空いたシャツから、白い、柔らかそうな肌が見えると反射的に目を逸らす。

     いや、ていうか。
     ……距離、近くないか?いかにも神経質そうで、こういった事に興味なんて無いかと思っていた。
    「他にもあるだろうか。その、こういったものは、持ち帰っても?」
    「少量なら大丈夫ですよ。旅の思い出になりますから。もっと探してみましょうか」
     自分の顔が赤くなっていないか心配で、僕は声のトーンを抑えながら提案する。彼も頷いて、貝殻を探し始めた。

     思っていたより、楽しめているんじゃないか?
     僕、上手くやれているんじゃ。
     図らずも、そう浮き足だってしまう。

    「……ん?あれ」
     何かまた珍しい貝殻を、と夢中になっていたら彼の姿が見えない事に気づいた。キョロキョロと辺りを見回すと、少し先の、岩肌が見える辺りにキラリと何かが光る。
    「おーい、アズールくん!」
     それが動いて、彼の白い髪が光るものの正体だと気がついた。僕は慌てて、彼の元へ走る。
    「ロロさん、その辺り大丈夫ですか?歩きづらいはずじゃ」
    「なに、大した事はないよ。それより君も早く来てくれ」
    「ちょ……ちょっと待って。ここ、滑りやすいじゃ無いですか。危ないですよ」
    「岩の隙間に、貝殻が沢山あるんだ。これなんか、良い形をしている。お土産に良さそうだろう」

     僕の声なんか聞こえていないかのように、彼はどんどん進んで行ってしまう。追いかけながら、僕は己の心内に薄々感じていた違和感を拭えなかった。

     そうだ。そうだよ。
     何か、おかしくないか?
     いつから。海に行こうと言われた時から?この人はこんな風じゃ無い。魔法士が嫌いで、周りになんか頼らないで。真面目で、神経質そうで。なのに今日ときたら、目を輝かせて。僕に頼ったりなんかして。あまりにも、無防備で。

     貴方らしくない。

    「ロロさん、一旦降りてきて。また波が高くなってきたから」
     急激に鼓動が速くなる。早くしないと、手遅れになる。そんな気がして。

     彼は。あの人は、まさか、もしかして———……


    「あ」
     世界の音が、全て消えた。

     彼の身体は一瞬にして高波に飲み込まれる。
    「ロロさんっ!」
     恐怖が背中を滑り落ち、僕は迷う事無く海に潜った。
     人間は、水の中では呼吸出来ない。呼吸出来なければ———生き物は死ぬ。当然の摂理。平等の運命。
     昔、よくジェイドとフロイドに連れられて海の上へと遊びに行った。そこでは時折、壊れた小型の船が漂っていた。誰も乗っていないのを良い事に、中の積荷を物色したり板を剥がしたりしておもちゃにしたものだ。

     今になってわかる。
     あれは、一人でに漂っているわけでは無かったのだろう。
    「……くそッ、追いつかない……!」
     頭ではわかっている。人間の身体なんて水中に全く適していない。水掻きも無ければ酸素だって取り込めないのだ。それなのに彼らは海に来る。馬鹿馬鹿しい行為だと、理解出来ないと鼻で笑っていた時だってあった。

    「———……」
     彼がどんどん小さく、遠くなっていく。このまじゃ本当に。

     グズで、ノロマで。容姿なんか全然違う。
     もし、そんな姿を見られたら。

     花の街を歩く、優雅な立ち姿が今でも脳裏に焼き付いて離れない。



    「ロロさん!!」

     水の中で大きく息を吐いた。刹那、自身の変身魔法は『解除』される。
     ごう、と水の流れが鼓膜に響いて身体が軽くなった。いや、実際には大きく、重くなったのだがここは水の中。大きかろうが足が八本も増えようが、水中に適する条件を満たしている。
     潮の流れを身体全体で掴み、一気に前へ突き進んだ。
    「……ぷはっ!ロロさん、聞こえます?ロロさん!」
     人の姿より格段に長くなった足を懸命に伸ばし、ついに彼の手首に届いた。自分の方に引き寄せて水面から顔を出し、耳元で叫ぶ。

     水で冷たくなった身体は、くったりとしたまま反応が無い。

    「このまま浜まで上がりますよ。ロロさん、もうちょっとですからね」
     細い身体を抱き留め、流れに逆らいながら僕はずっと喋り続けていた。波で跳ねた水で顔が濡れる。今まで気にもしなかったのに、視界が滲むのが億劫でならなかった。手足と共に、口を動かし続ける事でその灯火が繋ぎ止められると、馬鹿みたいに信じていた。

     必死に泳いで、泳いで、やっとの思いで砂浜に辿り着く。冷たい海より、日の光が当たっていた砂はやはりいくらか温かかった。ずるずると乗り上げて、彼を先に砂浜の上へ寝かせる。鞄から予備の魔法薬を取ってくる暇なんて無い。
    「ロロさん、ロロさん……起きて。起きて、ください」
     変身魔法で身体を戻し、さらに風魔法で彼の身体を乾かす。魔法に頼って、と嫌な顔をされるだろう。怒られるだろうか。ネチネチと説教されたって、挙げ句の果てに報酬を貰えなくたって構わない。

    「嫌、だ。嫌だ……ロロさん……!」

     消えてくれるな。
     貴方は、ここで消えるべき人間じゃない。

     ほぼパニック状態の思考で、うろ覚えの知識をなんとか引っ張り出す。
    「肺の圧迫……あっ、違う。溺れた時は、先に呼吸を身体に入れなくちゃ」
     尚も反応の無い、彼の顎を少し持ち上げて鼻をつまむ。
     そして、息の上がった自分の呼吸を無理矢理落ち着かせると、一気に空気を吸った。

    「———……っ」
     冷えてしまった唇に、ゆっくりと息を吹き込む。それは丁度、キャンプで焚き火をする時の、火種に酸素を送り込む作業とよく似ていた。強すぎても、弱すぎてもいけない。慎重に、その身体に見合うだけの酸素を伝えていく。
     後は、仰向けの彼に跨るような体勢で胸骨圧迫。肘は伸ばして、自身の手が彼の胸に沈み込む勢いで押していく。額を伝う水滴が、海水なのか汗なのかもわからなくなっていた。

     そして。

    「———げほっ!けほッ……」
     下で、彼の身体が突如として跳ねる。激しく咽せて、必死に酸素を取り込んでいる。
    「ロロさん!」
    「はぁ……っ、は……あ、アズール、くん……?」
     弱々しい声だったが、ちゃんと意識がある。胸の上下する動きから、呼吸も自力で出来るようになっている。

     ふ、と身体の力が抜けた。
     それと同時に込み上げてきたのは———……

    「馬鹿!!」
     気がついた時には、そう叫んでいた。
     急激に視界が眩む。目が焼けるように熱かった。ぶわっと頭が締め付けられる感覚。『頭に血が上る』とはこの事なんだと、後になって自覚した。
    「馬鹿なんですか貴方!ひ、一人で、あんな……人間のくせに。人間のくせに!もし、あのまま溺れてたら」

     溺れたら、もうそれで終わりなのに。
     積み上げたものが全て水の泡なのに。

    「あれだけの事が出来るくせに!凄いくせに!それなのにっ……勝手に消えようなんて、僕は許さない。一人で死のうなんて、絶対に」
     そこまで言って、真下にいる彼と目が合う。
     いつもは厳格そうな切れ長の瞳が、まんまるになって見開かれていた。その表面がゆらゆらと揺らめく。反射して映る僕も、全く同じ顔をして拳を振り上げようとしていた。

     死んで欲しく無かった。
     消えて欲しく無かった。
     海の中では決して見られない———そのあかに、恋焦がれていた。

    「ひっ、ぅ……ゔわあぁぁぁ〜……!!」

     握りしめた手を広げ、倒れ込むようにして彼を抱き締める。泣き続ける僕に何か言うでもなく、思いの外大きな掌が、ずっと僕の頭を撫で続けていた。



    「アズールくん」
    「……」
    「アズールくん。手を離していただきたいのだが」
    「嫌です」
    「嫌か……」
     帰りの列車を待つ間、そして列車が来てからも僕は彼の手を握りしめていた。
     鼻がツンとする。泣き腫らした目も、じんじんと熱い。

    「再三言うがね、私は、別に死ぬ気など無かったのだよ」
     ため息をついて言う彼に、何か取り繕っていたり隠している雰囲気は見られない。
     それでも、僕は首を縦に振らなかった。
    「絶対、嘘だ……」
    「嘘では無い。嘘も、自死も、神の御心に反する行為だ」
    「知りませんよそんなの」

     波にさらわれる、その一瞬。
     何か、憑き物が取れた様な———ホッとした表情をしたくせに。

    「……君も中々頑固だな。まさか私が、あの子の後追いをするとでも?それこそ無駄死にというやつでは無いか。死ぬならこの世の魔法士全てを巻き添えにするさ」
     声に、いつも通りの炎の様な熱がこもる。彼を生かす光。握る手はまだちゃんと、温かい。
    「当たり前です。貴方にはまだやるべき事がある。その為にはもっと権力を持って、もっと魔法の研究をしなければならない。そうでしょう?」

     だから。
    「だから……一人で、消えようと……しないでください」
     列車の音にかき消されそうなほど小さな声で呟く。知ってか知らずか、彼は静かに微笑んで僕の手を握り返してきた。
    「また海に行こう、二人で」
    「もうこりごりです他を当たって下さい。……それに、怪物の様な姿だったでしょう。僕は」
    「まさか」

     潮の香りが、まだ残っている。花の匂いも海に流され、まっさらな彼が僕に呟く。

    「とても美しかったよ」

     列車は走り続ける。花の街、そして僕達の学園へ。
     茹蛸みたいな膨れっ面をしていた僕だったが、その実、この時間がもう少しだけ続いて欲しいと心の内で願っているのだった。
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