そろそろおやつ時だろうかという午後三時より少し前。
キッチンには甘い匂いが立ち込め、生地がたっぷり入ったボウルが縁を汚しながら次の出番を待ってる。フライパンを握った承太郎は、ふつふつと気泡が出来始めたまあるい肌色をじっと見つめていた。
まだだ。まだその時じゃない。
フライパンの上で焼かれている物がそう告げているようだ。フライ返しを持った手に力を込めて、今すぐひっくり返したい気持ちを抑えると承太郎はチラリと時計を見た。
典明が帰ってくるまで、あと少し。
それまでには上手く焼けた物が一枚くらい出来るはずだ。承太郎は残りの生地と、炭と化した丸い物を交互に見てフライパンを握る手に力を込めた。
『ふわふわのホットケーキが食べたい』
事の発端は幼稚園へ行く間際、テレビを見ながら言った典明の一言だった。
本人は特に深い意味もなく呟いたのだろうが、帰って来て望みの物が目の前にあった時の顔を想像すると作らずにはいられなかった。
改めてフライパンに目を戻すと、気泡まみれの肌色の生地は薄く日が通っていて、『今だ』という声が聞こえて来るようだった。
慎重にフライ返しを差し込み、思いきって生地を上に放り投げる。
「よし、これだ……!」
思わず声が漏れた視線の先には、今朝典明が見ていたテレビと同じような色をした物が丸く出来上がっていた。
後は裏面を焼けば典明の望みは果たされる。
コンロを弱火にして皿を準備しようとその場を離れた瞬間、玄関からインターホンが聞こえて承太郎はあわててそちらに向かった。
「はかせー! ただいま!」
玄関を開けるや否や、元気な声と共に典明が足元に飛び込んでくる。その姿に目尻を下げながら承太郎は、落ちかけて傾く典明の帽子を頭から取り肩に掛けた登園バックに手を伸ばした。
「おかえり。さ、手を洗っておいで」
「はかせ、見て!」
いつもなら言われると同時に手を洗いに向かうはずの典明が、なぜか今日は全く動かない。
どうしたのかと思えば、帽子とバックを脱いで身軽になった体は急にその場でしゃがみこんだ。背筋をぴんと伸ばし、立てた膝をしっかりと両手で抱え込む姿は所謂『体育座り』と呼ばれるものだ。
「これ、おやますわり! きょうならってきました!」
幼稚園で習った事が余程嬉しかったのか、典明は目をキラキラさせて見上げてくる。なんとも言えない可愛さの中、承太郎の頭に残ったのは聞き慣れない言葉だった。
「お、おやま……」
この座り方に色々呼び名があることは知っていたが、今典明が言った言葉は初めて耳にする言葉だった。
自信に満ちた可愛さから発せられるその言葉の可愛さたるたるもの、承太郎を破顔させるには充分だ。気を抜けば下がりきってしまう目尻をやんわりと誤魔化して、おやますわりをしたままの小さな体を抱き上げる。堪らず承太郎はその体に顔をすりつけると柔らかい赤毛を肺一杯に吸い込んだ。
「もぅ! のりくんおやますわりしてるのに!」
ぷりぷりと怒る典明の声を聞く承太郎の頭にはフライパンの事などとうに無く、焦げた匂いだけが虚しく漂い始めていた。