無題 離れていく心地の良い温度と布擦れの音に、意識がゆっくり浮上した。覚醒し切らない頭のまま、乱雑に頭を掻く男の背中を眺める。考古学者を志し進んだだけでは身に付かないであろう筋肉。惜しげもなく晒されるそれをなんとはなしに下から視線で辿っていけば、首の付け根辺りから肩甲骨周辺までに、赤い引っ掻き傷が幾つか見えた。瞬く。瘡蓋になり始めたばかりのそれは、つい最近のものだろう。視線に気づいたらしいラウルが振り返る。
「おはよう。起こした?」
「いや」
普段より更に穏やかな声音と、軽く掠れた自分の声。眉間に皺を寄せつつ咳払いをすれば、労わるように伸ばされた手に前髪を横へ払われる。
「水貰ってくるね」
柔らかく髪を梳く指先と、額に落とされた温かい感触。シャツを手に取る背中をもう一度眺めながら、相変わらずよくやるな、と。思ったところで、フラッシュバックする、昨晩のこと。
滲む視界の中、獰猛に笑う男。背中へと促される手。ぐっと顔を寄せたかと思えば、吐息に掠れた低音が、吹き込むように耳元で囁いて。目の前がチカチカと白んで、大きな波に呑まれるような、何度味わっても慣れない衝撃から、なんとか逃れようとして──
思い至った傷の原因に、一気に熱が上がった。穴があったら埋まりたい。シャツを羽織って立ち上がるラウルに背を向け、代わりに布団の中へ潜り込んだ。あの流れは中々の頻度で繰り返されているものでもあるのだ。つまり今日昨日だけの話ではなく。今まで以上に爪の手入れは丁寧にと決意したところで、その度これを思い出すのだろうかと居た堪れない気持ちを抱え、込み上げる羞恥と自己嫌悪に揺れる。自分がこれまで無自覚だった事にも、想像以上に溺れている事にも。今気づいてよかったと思う反面、余計な事に気づいてしまったとも思ってしまう。
扉の開閉音と遠ざかる靴音を聞き届け、肺の中の息を全て吐き出して身体を起こす。次いで喉奥から呻き声が洩れた。忙しなく思考を回しながら、自分の衣服へ手を伸ばす。
目下の問題は、部屋に戻って来たラウルの顔を真正面から見られるかどうかだ。
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今日は頑なにシーツを握りしめるなぁ、と。思ってはいたけれど、ここまでくるとおかしい。いつもしてくれることをしてもらえないというのは、不審を抱くには十分過ぎる。
「今日は、なんでダメなの?」
頑固な手の甲を突きつつ、直球で聞けば誤魔化したり嘘をつくのが得意でない彼は白状するだろうと踏んで問いかける。案の定、エドの瞳が一瞬揺らいだ。言葉を発しようと開いた口が結ばれて、また開いて。ちらりと見上げてくるメロンイエローをじっと見つめ返せば、小さな溜息の後ふいと前髪の影へ隠されてしまった。
「……背中」
「背中?」
一拍置いて、気まずげに零された単語に首を傾げた。だが直ぐに彼が何を気にしているのか、気にし始めたのかを察した。だらしなくにやけそうになり、慌てて内頬を噛む。
「お兄さん別に背中が出る服着ないよ?」
「そういう問題じゃない」
「お兄さんにとってはそういう問題だよ。よく言うでしょ、男の勲章」
「捨てちまえそんなもん」
「捨てませーん。……あ、じゃあお兄さんもエドに痕付けていい?」
「なにが『じゃあ』なんだ」
言いながら、無駄なく引き締まった右足を抱えた。内腿に唇を落としたところで、逃れようと暴れた獲物を押さえつける。そして、笑いながら、見せつけるように、がぱりと口を開けた。