「天使みたいな、」(LCB×執行) 真っ白な服に黄金の髪飾り、金色の翼……物々しい篭手は取り払われて、代わりに黒いグローブへ。そして、いつもきっちりと撫で付けられている意外と長い前髪がさらりと落とされたその姿を見て、シンクレアは一瞬ほう、と見惚れた。
鏡の世界から抽出された強力なE.G.O、その一つを今まさにムルソーが身に纏っている。天の執行官の補佐という名前のそれは、使用する技名にちなんで「執行」の愛称と呼ばれていた。
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ムルソーがダンテに命じられるがまま、その力を解き放つ。空高く舞い上がり、流星のようにまっすぐに相手へ拳を叩きつけた。鈍い音を立てて敵が崩れ落ちたと同時に、ひらひらと空からシンクレアに向かって落ちてきた羽が、ぱっと弾けて傷を癒やす。
(温かい……)
ほう、と息を吐く。執行は正常時ならば最も傷の深い味方を癒やす力を持っていて、ダンテは時折攻撃のためではなく、回復のために解放させる事もあった。
シンクレアの傷がすっかり癒える頃、ムルソーはいつもの見慣れた姿に戻っていた。ちらり、とその視線がシンクレアに向いて、傷が治った事を確認するとまた前を向いた。
ある日、いつものように鏡ダンジョンを終えてバスに戻ろうとした時に事件は起こった。
空高く金色の翼を生やしたムルソーが飛び上がり、すぐに地面へ突き刺さるかのような勢いで相手を殴り飛ばす。金色の羽がまた舞い散って、シンクレアの両手に触れた。温かさを大事に味わっていると、パキ、とガラスが割れる音がした。
「え……?」
ぎょっとしてムルソーを振り返ると、彼もまた目を見開いていた。それも、白と金の荘厳な衣装のままで。
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見た目が執行のまま変化しない事以外は問題ない、とムルソーを診たファウストは断言した。
「恐らく精神的疲労による侵蝕のひとつでしょう。一日もあれば元に戻ります」
<ムルソー、悪いけどそのまま今日は休んでくれるかな?>
「承知しました」
それから、ムルソーはその厳粛で禁欲的な衣装を身にまとったまま自らの座席に戻った。金色の羽は実体を持たないようで、ふわりと座席を貫通して存在し、ヒースクリフが興味津々の様子で羽に触れようとしたが、空を掴むばかりだった。戦闘時にそうであるように、羽は音もなくヒラヒラと舞い落ち、バスの床に触れるか否かというところで消えている。
シンクレアは思わずムルソーの姿をじっと見つめていた。戦闘中は使用する技の兼ね合いではるか頭上に飛びあがってしまう天使が今はこんなにも近くに存在し、腕を伸ばせば触れられる距離にあるという実感が湧かなかった。
あまりに長く見つめすぎてしまったからか、ムルソーの目がちらりとシンクレアに向けられ、どきりとする。慌てて前方を向き直ると、ムルソーもまた興味を失ったように視線を外した。
その夜。いつものようにダンテが業務終了を宣言し、ファウストが了承すると、囚人たちはぞろぞろとバス後方に現れた扉から各々の部屋に帰っていく。その時、シンクレアは珍しくまだ車内に残っているムルソーの視線を感じて振り返った。宵闇の中で金色の髪飾りがちらちらと輝き、ムルソーをいつもよりずっと神秘的に見せている。
「ムルソーさん、僕に何か……?」
「それは私の言葉だ。いつもより十回ほど多く私を見ていただろう」
「き、気づいてたんですか」
淡々と事実を告げるムルソーにぎくりとした。確かに今日はいつもよりムルソーを振り返っていた自覚はあったが、まさかきちんと把握されていたとは。周囲に無関心なように見えて、まるでビデオカメラのごとく周囲を正確に把握し、記憶する事を得意としているムルソーならではの指摘だった。
言外に用はあるのか、と伝えてくる緑の瞳を前に、シンクレアは数秒ほどもごもごしてしまう。その間に空気を読んだロージャが他の囚人と一緒に部屋へ帰っていき、ダンテも気配を殺してバスの座席で縮こまっている。
「もっと見たいな、って思って……」
答えをじっと待つムルソーに対し、シンクレアはぽつりとつぶやいた。
「初めて見た時、まるでおとぎ話に出てくる天使みたいだと思ったんです。だから、もっとしっかり見ておきたいと思って……すみません」
怒られるだろうか、という予想とは裏腹に、ムルソーは少しだけ身をかがめてシンクレアに顔を寄せた。
「見たいなら好きなだけ見ればいい」
暗がりの中、わずかな光で金色の髪飾りが煌めき、濡れ羽色の黒髪の合間から緑の瞳が覗いている。綺麗だ、とシンクレアはまた見惚れてしまった。そして、間近に見るムルソーの肌が白磁のように滑らかな事に気付いてしまい、胸が高鳴った。
呼気を感じられるかもしれない距離の近さにどきどきとしていると、ムルソーは再び姿勢を正し、シンクレアから視線を外した。
「まもなく就寝時刻だ。貴方が望むなら同じ部屋で眠るのも構わない」
「え?」
「私が眠っていても構わないのなら、好きに見つめればいい」
***
どうしてこうなったんだっけ。ムルソーと二人、大きなベッドに寝転がりながらシンクレアは何度目かになる自問自答を繰り返した。隣のムルソーはというと、執行の衣服を着てはいるが、髪飾りを外した状態で目を閉じ、耳を澄ますと微かに聞こえる程度の寝息を立てている。
シンクレアはそっと顔を上げ、ムルソーの顔を見つめた。冷たく威圧的な印象を受けるムルソーでも、こうして髪をおろし、目を閉じている間はどこか穏やかだ。そのままじっと彼の容姿を観察する。一本一本が艷やかな黒髪と、それに縁取られた白く滑らかな肌。頭をしっかりと支える太い首に、少し厚めの唇――怖いほど見開かれたあの緑色の瞳が見えない事が残念だ、とさえ思えた。
眠りが深いのか、ムルソーが起きる気配は依然としてない。それなら、とシンクレアは勇気を出してムルソーの衣服を少しだけ緩め、大きな胸板、心臓があるだろう場所に耳を当てた。どくん、どくん、と力強い脈拍が聞こえると、途端に途轍もない安堵感が広がっていく。
しっかりと服を着込んでいたからか、それとも眠っているからか、あるいは鍛え上げた筋肉があるからか、紺色のセーター越しに触れるムルソーは温かい。心臓の鼓動と温もりがとろとろとした眠気を運んできて、ゆっくりと瞼が降りていく。やがて目を閉じた後、ムルソーが身じろぎをしたように思えたが、その頃にはシンクレアはすっかり眠ってしまっていた。