無関心と悪のあわい 今日、他人の指をへし折った。
特に罪悪感はない。
叶と服を買いに行こうという話になって、銀座を歩いていたらスリに時計を盗まれそうになったのだ。
器用な中指をそっと握り、「警察かこのまま指をへし折られるか選べ」
そっと囁くと、握った指先が痙攣するように揺れた。
鍛えられた指だった。他人から価値あるものを掠め取る、オレのような人間。
「あんまり自分をそう卑下するのはよくないなぁ、ケイくん」
にんまりと笑って、この数秒を眺めている叶が言う。
ケイ、と敬一を短縮して呼んでいるのは、目の前のスリ、見た目は普通のサラリーマンを警戒してのことだろう。
「銀座のスリは女ばかり狙うもんだと思っていたが」
オレの言葉に叶が息を吐き出すように笑った。
「…指を」
脂汗を浮かべる男の中の葛藤を、オレは読み切ることができただろうか。
分かった、とも言わずにそのまま男の指を握り込むように折る。
硬質で少し軽い音。
スリの男の指先からオレにまでその音は響いた。
「いい男の腕にある腕時計ってもんは、随分といいもんに見えるよな」
オレのジャガー・ルクルトを指先で突いて、また叶が楽しそうに笑う。
身を捩って痛みに耐えた男が、伺うようにこちらを見やる。
「行け。次はもうない」
お前はこの化け物に凝視められてしまったのだから。
背中を押して、男からオレたちも離れる。
「ケイイチくん、あいつはまたやるよ。ケイイチくんがやったのは、あいつの指が治るまでスリの被害者を無くしただけ」
「お前、そんなことも気にするんだな」
「あはは!するわけないじゃん。するわけないんだよ、そんなこと」
「そうか、オレもだよ」
他人から金や価値あるものを掠め取る。そんなこと、オレたちがいつもやっているのに、正義感に駆られるなんて可笑しい。
笑いっぱなしの叶の後ろの目が、弓形に撓った。
「ケイイチくん、だからみんな、君を気に入る」
「はっ」
鼻で笑って、オレは時計を外した。他人の手垢が付いたもの。もういらない。
「お前いるか?」
「それはいいや。今度お揃いのヤツを買おう。いいよな、ルクルト」
叶はご機嫌で、その長身からは考えられないほど軽やかに、ステップを踏んで飛んでみせた。