獣に飼われるならあなたに 「お久しぶりですねぇ、園田さん」
「飯田さん、ご無沙汰しています。いきなりの連絡でしたのにありがとうございます」
「いやいや、今時画廊の店主なんて暇なもんですよ」
にこにこと、人の良い笑顔でソファへすすめる画廊の主人、飯田に、僕は久方ぶりに会えた、という以上の感慨を覚えた。
この人は金持ち喧嘩せずを体現したような人物で、画廊に飾られている作品も優しい、朗らかな作品が多い。
昔はこういう作品に対して興味をあまり持てず、市場の価値しか見出せなかった。そして飯田はそんな自分を見抜いていたが、何も言わずに笑って作者や作品の来歴を語ってくれた。
「これ、新しい名刺です」
「ありがとうございます。おや、フリーではなくなったんですね。なんだか雰囲気も柔らかくなりましたか」
「はい、いやどうでしょう」
「ふふ。…不勉強で申し訳ないですが、聞いたことのない方ですね」
名刺には獅子神さんが法人のトップを務める会社名が書かれている。
「はい、雇い主に前職…美術品のバイヤーをやっていたことを話したら、もう一回やってみるか、と言われて。一回辞めたんです。色々ありまして」
闇賭場で地下落ちし、奴隷となった、などと言ってもこの人は冗談だと笑うだろう。
「そうだったんですね。ですが園田さんがこうやって戻ってきてくれて嬉しいです。今の日本の美術業界はちょっと元気がないですからね。園田さんのように若い方の力が必要です」
「ありがとうございます」
そう言ってお互いに立ち上がり、ギャラリーの中をゆっくりと歩く。飯田の選んだ絵画は見ていて落ち着く。こちらを悪戯げに見遣る幼児の視線が可愛い作品、野に咲く花と空を描いた作品、こういった絵が、人間には必要だ。
「…そう言えば園田さん、雛形春人という芸術家をご存知ですか」
「まさか飯田さんの口から彼の名前が出てくるとは思いませんでした。はい、名前と作品の幾つかを見たことがあります」
「彼、死因は公表されていませんが亡くなってしまったようで。今市場では作品の価値が上がってきているんですよ」
「あぁ」
ーー雛形春人は餓死したんですよ。僕の雇い主の友人が殺したんです。
「私は彼の作品は…怖くて。今を生きている人間があんなにも苦しみや憎しみを滾らせて作品に込める、いえ、素晴らしいことです。ですが彼の作品にはそれ以上の力がある。…奥に彼の作品があるのですが、ギャラリーには飾れなくて」
「見せていただけるんですか」
「えぇ、是非」
通された部屋に、しんと佇むように雛形春人の作品があった。あぁ、これはまだ彼が、人の死を間近に眺めながら描いたものではない。
僕たちはそのまま数分間、彼の作品を眺めた。
題名は『 』
「どうでしょう、園田さん。お求めになりませんか」
沈黙を破ったのは飯田だった。
「えっ。これからこの作品の価値は上がり続けます。見たところ雛形春人の初期の作品ですし、小さいものですから倉庫に保管されても負担もさほどではないと思うのですが」
「えぇ、まあ。ですが先ほど園田さんに言ったように、私には彼の作品は怖いのです。私もほとんど趣味でこんなことをやっていますからね。私のギャラリーには、私の心地良い作品があってほしいのです」
「では、是非購入させていただきたい」
言うと、飯田はあからさまにほっとした様子をみせた。
「良かった。偶然この作品を手に入れましたが、私には荷が重い。園田さんから連絡を頂いた時、あなたにこの作品をお願いするべきだと思ったのです」
「獅子神さん、戻りました」
「おー、お疲れさん。知り合いに挨拶は出来たか?」
夕方、獅子神邸に戻った僕は雇い主である獅子神さんに帰社の挨拶をする。
「はい、ええと。作品を二つ購入しました」
「そうか、いいのがあったんだな」
「はい。一つはここに。小さな作品でしたので、そのまま持ち帰らせて貰いました」
僕は飯田のギャラリーで見た、野花と空の作品を獅子神さんに見せる。
「へぇ。オレは芸術は全然分かんないけど、それは好きだぜ」
「獅子神さんが気にいるかもと思って購入しました。小作品ですし作者もまだそこまで名は知られていませんが、画廊主のお気に入りの画家ですから、これから価値も上がってくると思います」
「いいな。ちょっとそこに飾ろうぜ。もう一つは?」
獅子神さんは壁を指差す。頷いて、飾るのは僕がやりますと請け負う。
「もう一つは、雛形春人の作品です。彼の初期の作品を購入しました」
「……そっか。もしかしたら真経津が欲しがるかも。そうなったら、お前があいつと話をしろよ」
「えぇ…」
あからさまに不安な表情をすると、獅子神さんが少し笑う。
「オレんとこ美術部門はお前しかいないんだから当然だろうが。お前が買った以上の値段で、お前が適正だと思う値段で売れ。あいつがいらないと言った時も、作品をどうするかはお前に任せる」
「最終的な決定権は獅子神さんですよ」
「分かってる」
言って、獅子神さんは僕の買ってきた小作品を見て柔らかい表情を浮かべる。
僕は、この顔が見たかった。
僕はこれまで、自分の手から他者に渡る作品のその先を思い浮かべることがなかった。
だが、この作品を見たときに、あなたは必ず笑ってくれると思ったのだ。
僕も随分と、主人のことが大切な生き物になってしまった。