クロネブルー、彼氏できたってよそれは、見覚えのある後ろ姿だった。
年末年始の帰省ラッシュのおかげか街中は人で溢れかえっていた。その雑踏の中を目的があっていくという様子もなく単にフラフラと気の向くままに歩いている女がいた。サラサラの髪が歩く度に揺れている。揺れるものに目を引かれるのは男の性とはいうがどうしてこうも掴んで離さないのか。眺めているうちに歩き方やスラッとしたスレンダーな体躯に既視感を覚えた。喉元まででかかっているそれがなかなか思い出せなくて、白いベールで包み込まれた記憶を、その柔らかな薄衣を1枚ずつゆっくりと剥がすかのように記憶の海を泳ぎかき分け続けた。その既視感の正体とようやく合致した頃ふと、口からその名前が溢れ出た。
「クロネ……ブルー……?」
その小さな声を大きな耳が拾ったのか肩に少しかかるくらいの柔らかな髪をふわっと靡かせてこちら側へ振り向いた。距離は離れているはずなのにいい匂いがした気がする。振り向いたその顔を見て確信を得た。クロネブルー本人で間違いなかった。学生の時から少しも変わらない、相変わらず年齢よりも少々大人びた雰囲気を纏っていた。彼女はまるでガラス玉のような透き通った目で頭のてっぺんから足の先までまじまじと見たあとで首を僅かに傾げ吸い込まれるような目で俺を見据えたあとに呟いた
「……誰?」
至極真っ当な反応だった。学生時代は殆ど話しかけたことも話しかけられたこともない、高嶺の花と一般生徒。そんな関係だった。ただ俺たちの間には1つ他と違うことがあった。たかが一つ、されど他と区別するには充分足りうること。
彼女と身体を重ねたことがあるということだった。
とはいってもたった1度ではあるが、そんな些細なことはどうだってよかった。
彼女の学年で童貞のまま卒業式を迎えたものはいないと噂されるほどにクロネブルーは遊び人と周りから称されていた。ついた異名は童貞狩り。彼女と目を合わせたが最後、気がついたら童貞を喰われている。他ならぬ自分も彼女がその異名を連ねたうちの1人だった。
「えっと、高校の時同じクラスだった模部山って言うんだけど……そうだよね……覚えてないよね。」
「うん、ごめんね。キョーミない分野覚えるの苦手でさ。」
「…………で、なに?用がないなら私もう行くね。」
興味無いとばっさり切り捨てられてしまったが諦めるにはまだ早い、興味を持たせれば自分のことを覚えてくれる可能性が僅かにある。神に与えられた絶好のこのチャンス、逃すわけにはいかなかった。
「お茶!!」
「お茶……?」
「お茶……でもどうかな?そこの──まあ、ファミレスなんだけど……」
「私、お金持ってないよ。」
「勿論俺が出すよ!奢り!!好きなだけ飲み食いしていいからちょっとだけ時間貰えないかな?」
「…………、」
顎に手をあてて目を伏せ考えるような仕草をした後スマホで誰かに連絡を入れたかと思えば画面に向けていた視線を再度俺の目に合わせて言葉を紡いだ。
「いいよ、待ち合わせしてたけど……場所と時間変更の旨を伝えたから。1時間くらいしか取れないけどいい?」
「全然大丈夫!ありがとう!」
***
案内されたソファ席に腰掛ける。年末年始なだけあってか店内はやや混雑していて、有線スピーカーからは流行りの曲や店の宣伝ボイスなどが流れていた。少し騒がしいと感じるが2人きりになれるためなら仕方がない。配られたメニューをみるふりをしながらこっそり彼女の姿をみていた。
「……こういう時って何を頼むべき?」
「え?いや、さあ……好きなものを頼んでよ!さっきも言った通りここは奢りだからさ!」
「…………君は何頼むの。」
「俺はコーヒーかな。」
「じゃあ私もそれで。あとアイス。」
後ほど忙しなく走り回っている店員のうちの一人が注文を伺いに来た。数刻後にホットコーヒー2つとアイスがテーブルに並べられ、ごゆっくりどうぞ。という常套句とともに駆け足でその場を去る。
湯気が立ちのぼるコーヒーを啜り一息をつく。
コーヒーに手をつけようとしない彼女に疑問をもった。
「……飲まないの?」
「コーヒー、そういえば飲んだことなかったなって。」
「ああ、もしかして気を使わせちゃったとか……」
「私そんなことできない。」
「そ……そう じゃあ、そのミルクとか砂糖とかもってこようか?それともそのアイスにかけて食べるとか。」
「アイスに……コーヒーかけるの?」
少し興味を持ったのか珍しく話題に食いついた。
これはチャンスだ。一気に興味を持ってもらうために話を広げるほかなかった。
「そう。アフォガードってデザートがあるんだけど、冷たいアイスに熱々の濃いコーヒーをかけて食べると、溶けたアイスと苦いコーヒーが混ざりあっておいしいんだ。」
「へえ…………」
相槌を打った後容赦なくコーヒーを並々と容器に注ぐ。加減がわからなかったのか少々食べにくくなってしまったが彼女はコーヒーの熱で溶けたアイスにスプーンを刺しこんで口の中へと招き入れた。
「…………おいしい……」
僅かだが彼女の目が輝いたような気がした。
「お気に召してよかったよ。」
「なんだっけ……あほ?」
「アフォガード。溺れたって意味。アイスがコーヒーに溺れてるみたいでしょ。」
「アフォガード、アフォガード……うん、覚えた。」
机の下からスマホを見てさも元々携えてあった知識であるかのように振る舞う。ふと、店に入る前のやり取りを思い出した。顔立ちが整っている彼女のことだ。学生時代もえらくモテていた。待ち合わせの相手は彼氏なのでは、と一抹の不安が過ぎった。彼氏がいるということもそうだが異性と二人きり、見る人が見れば浮気ともなりうる状況だったからだ。あわよくばなんて考えたりもしたが修羅場だけはごめんだ。体力や喧嘩には自信が無い。
「約束ってもしかして、彼氏とデートとかだったり……?」
「違うよ。ジョーヌ、妹。」
不安はまた1つ好機へと昇華された。勝機は完全に自分に傾きつつある。このまま時間が許す限り仲を深めて次の予定を取り付ける。まずはそこを目指す。俺に課せられた今すべき課題は会話を盛り上げること。楽しいという時間を提供することだった。そのためにまた会話を広げる。シンプルではあるが何気にトーク力が試されるためこれがまたなかなか難しい。
「ああ、確か2つ下にいたね 君そっくりの可愛い子が。」
遠回しに君のことを可愛いと思っているなんて伝えてみる。さて、どうでるのだろうか。なんでもない振りをしながら様子を伺った。
「……ジョーヌはダメだよ。今幸せになる試練中だから。」
言葉の意味に気づいていないのか、はたまた妹の話題に気を取られたのか、彼女は至って普通の返答と反応、しかしどこか鋭利な危険をはらんだ目付きをしているようにも感じた。子を守る親のような……人々を獣害から守る狩人のような……そんな目だった。
「もしかして今牽制されてる?違うよ。妹さんには手を出さない、大丈夫。」
「……そう」
一口、二口と溶けたアイスを食べ進めて気がつけばバニラが溶けて混じったコーヒーだけが器を満たしていた。
「…………もう1つアイス頼んでいい?」
「どうぞ、好きなだけ。アイス好きなの?」
「うん。」
「……他にも美味しい食べ方とかあるんだけど興味無い?」
「なに?」
卓上ベルを鳴らしてアイスととあるものを注文する。数刻後にはテーブルの上にアイスと湯気が経つほど熱々のフライドポテトが並んでいた。
「…………ポテト?」
「そう、ポテト。」
「これをこうして食べる。」
熱々のポテトをバニラアイスにディップして口へと運ぶ。塩気が程よく効いたポテトに甘いバニラアイスが絡んであまじょっぱい、さつまいものような味わい──とお馴染みのカンペに書いてある。他にも定番のお酒や醤油をかけるとみたらし団子などもあったがどれもこの場では再現は難しくいちばん手頃なアレンジがこのコーヒーとポテトだった。
「どう?」
「…………いけるね。意外と。さつまいもってこんな味なんだ。」
「もしかしてさつまいも嫌いだった?」
「さあ……?食べたことないから」
あっという間に完食してしまった。もちろん、アイスの方だが。
残ったポテトをちみちみつまみながらおかわりしたコーヒーを啜る。
***
「久しぶりにいっぱい食べたかも」
店に来た時から1mmも変わらないまるで貼り付けられたお面のような表情を浮かべながらお腹を擦る。そういいつつも実質食べたのはアイス2個にポテト数本とコーヒーを少々。学生時代から少食なのは変わらないようだった。思い返せばあの頃も昼休みにはアイスばかり食べていたような気がする。
「話戻すけど待ち合わせってこれからどこかへ出かける予定だったの?」
「ん〜……いや、特に。何も。散歩してただけだよ。ジョーヌが心配症なだけ、私一人だと怖いんだってさ。」
確かに、と頷いてしまった。そこに存在するはずなのに掴もうとしたら消えていってしまう陽炎のような儚さが昔から彼女にはあるように感じた。手を離した風船のように、1度空に舞い上がると一生手元に戻ることの無いそんな雰囲気を纏っている。まあ、この手に掴んだことなんて今の一度もないのだけれど。
「…………で、何の用?」
「え?」
「話、あるんじゃないの?それとも私とこうして同じ席に座って同じ時間を過ごすための口実だったりする?」
自分を見ているようで見ていない、無機質なビー玉の目が俺を通して違うものを見ているようなそんな目をしていた。勝機はある、なんていったのはやはりただの勘違いにすぎなかった。その目と言動から眼中にないと告げられているようにも感じた。
ふと店内の自動ドアが開き入店のコール音が鳴り響く。かなり大柄な男が入ってきた。自然と目を惹かれるその大男はえらく端正な顔立ちと肩よりは長いであろう髪を高い位置に結わえていた。イケメンは長髪でも様になる。真っ直ぐ伸びた背筋と胸を張って堂々と歩くその佇まいは彼の性格が滲み出ていた。
中の方まで進んでキョロキョロと辺りを見回す彼と目が合う。見ているのがバレたのか急ぎ目線を外すとその様子に疑問を持った彼女が後ろを向く。
「あれ、ノワール」
なんでここにいるの、とばかりに声をあげた。知り合いだったらしい。そういえば彼にも彼女と同じくヒト化のものでは無い耳と特徴的なしっぽが生えている。堂々とした佇まいとは裏腹に天井に近いともいえるその耳の先は少し折れ曲がっている。
「嗚呼、ここにいたか。探したぞ。」
「どうしたの?用事があるんじゃ」
「先程終えたところだ。元々俺が迎えに行く予定だったところを時間が合わなかったからお前の妹に頼んだんだ。しかしお前が時間をズラしただろう?アイツには俺がいくと連絡をいれておいた。」
同席している自分を後目に会話を続ける。彼女の知り合いなだけあって1時間少し話しただけの俺とは会話のテンポが異なった。少々いやかなり悔しい。
ぽっと出の男に好きな子を取られてしまったようなこれが巷に聞くBSSというものなのかもしれない。
背が高くてイケメンで体格がよく、高身長スレンダー美人な彼女と並ぶととても絵になる2人だった。
勝てる要素なんて何一つない、いや…1つあるにはあるがそんなものを勝負の場に出したとてだからどうしたと言われる。もし、彼女の元彼だったり学生時代1番仲の良かった異性などという関係性だったなら多少なりとも牽制が出来たかもしれない。しかし、そんなものは俺と彼女の間にはなかった。1度だけ身体を交わらせた。ただそれだけだ。
ふと、ノワールと呼ばれた男が漸く同じ席に着いている俺に気づいたのか目をこちらに向けた。
「…………こちらは?」
「ああ……えーっと、……高校の時のクラスメイト。」
「どうも、模部山です。」
「えっと、模部山くん、この人はノワール。」
「「……。」」
「で?ここで何を?」
「ああ、模部山くんにお茶に誘われて。」
「ほう……?」
「まあ、久しぶりに会ったしなんか話あったのかな?って」
「嗚呼、なるほど。そういうことか。お前、金はどうするつもりだ。どうせまた財布持っていないのだろう。」
「奢りだって言ってたから」
「全くお前は……訳もなく奢られようとするな。はあ……すまん。あまり現金を持ち合わせていない。ここの会計は俺が持つ。」
そう言って懐から取り出したえらくスリムな財布から黒光りするカードを出して伝票を取り会計へと足を運んだ。
「待っ───てください、貴方に奢られる筋合いはないです!」
「貴様に奢られる筋合いもない。」
氷のような鋭く冷たい視線を向けられ一蹴され思わず固まってしまった。本能が告げた。こいつを敵に回してはいけない、その脳からの司令はビシビシと体の奥へ、そして芯の先まで染み渡っていった。
店員の決まり文句を聞き流しながら店先へと出ていく。店内の最適な空調設備とは違い冷たい外気温が身体にまとわりつく。このままだとようやく会えた彼女になにも刻みつけられないままいつもの日常へと戻ってしまう。何とか……最後にひとあがき出来ないものかと思案しているとそんなのお構い無しに2人は相変わらず仲良さそうに会話を弾ませている。
「この場合……ノワールにお礼するべき?」
「結果論俺だが、俺が来てなかったら彼が支払っていただろうからきちんとお礼をしてこい。」
「お礼かあ…………ノワールになら如何様にもできるけど君にも同じように支払った方がいいかな?」
「支払……え?」
「あれ?そういう目的で声掛けたんじゃないの?あわよくば、もう1回ヤリたいなってことかと思ってたんだけど」
「え!?」
「私に声掛けてくる元クラスメイトなんて大抵そういうことでしょ。でも今は口で形式ばかりのお礼しか言えないや。ごめんね。」
彼女は俺に近づいてきたかと思うと耳元で彼に聞こえるか聞こえないかくらいの囁き声で耳に言葉を落とす。
『ノワールはね、すっごく嫉妬深いんだ。今日はいっぱい抱き潰されちゃうかも。君はいい触媒になったよ、ありがとうね。』
俺は並んで同じ方向へ帰っていく2人の姿が消えるまでただ呆然と見ていることしか出来なかった。
数日後に開催される同窓会で集まった際にはかつての旧友たちにこう告げたい
"クロネブルー、彼氏出来たってよ"