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    yudoufuneko

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    yudoufuneko

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    ◆MDZS交流会6_白兎◆
    藍湛が香炉で夷陵老祖時代の魏嬰を訪ね、過去してやれなかった、伝えられなかった後悔を払拭しようとするお話。
    大人 藍忘機×夷陵老祖時代 魏無羨の香炉if忘羨です。

    安心できる場所 藍忘機は目の前にある香炉をじっと見つめる。見た目はどこにでもある香炉だ。しかしこれは道侶である魏無羨が、邪祟退治の依頼で雲深不知処を離れる前に自分へ手渡してくれたものだった。

    「藍湛! 一つ俺からの贈り物だ!」
    そう言って魏無羨は左袖の中へ手を入れると、中で掴んでいるものを藍忘機の目の前へ差し出す。その表面には鶴の彫刻がなされ、もとは黒だったのだろうが年季が入り、それは色褪せて鈍色に近い色になっている。
    「それは香炉か」
    「そうだ。この間偶然見つけて俺が少し手を加えたものだ。これを持って行ってくれ。きっとお前の見たい夢が見れるぞ」
    魏無羨はどこか遠くを見るような表情を浮かべそう口にする。藍忘機は彼のその含みを感じるような顔に胸のざわつき覚える。しかし魏無羨はすぐにいつもの表情に戻し言葉を続ける。
    「藍湛が夜狩へ行くなら俺も本当はついて行きたいが……」
    「いけない。君は」
    「分かってるって。普段通りを装ってもお前には不調を見透かされるし、俺は大人しく静室でお前の帰りを待つことにするよ」
    肩をすくめながら口にする魏無羨に藍忘機はうん、と小さく頷く。そして道侶から差し出された鉄製の器具、香炉を手に取ると大事そうに自身の袖の中にしまった。
    「藍湛、早く帰って来いよ。でないと羨羨寂しくて死んじゃうかも」
    「ふっ、分かった。なるべく早く戻る。だから君はきちんと食事と睡眠をとって、体を冷やさぬよう――」
    「分かってるって。天子笑もほどほどにするから、ほら早く行って早く帰ってきてよ。早く行ってくれないと離れがたくなるだろ」
    そう言う彼は藍忘機の手を握り、上目遣いで夫の目をじっと見つめる。藍忘機は目をひと時も離さず見つめ返す。そして目にその姿を焼き付けるようにしばらく見つめた後、魏無羨のおでこへそっと口づけを落とした。
    「では行ってくる」
    「な……、うん、気を付けて。……ったく、今のは卑怯だろ、藍湛め、早く帰ってこい」
    不意打ちに魏無羨は口を尖らせながら言葉を零す。彼は藍忘機の背中が見えなくなるまで見送ると、少し寂しそうな表情を浮かべて静室へと戻った。

     その日やるべきことを終えた藍忘機は、目の前の香炉に手を触れずしばらくそれを見つめていた。しかし不審に思ってのことではない。魏無羨は香炉を差し出す時に『見たい夢が見られる』と言っていた。恐らく効果は以前の香炉と似たものだろう。しかもこれは彼の道侶である魏無羨が授けたもの、疑念を抱く余地もなかった。彼が今考えていることは一つ、自分の見たい夢についてだ。魏無羨がいること、それが最たるものでそれ以上の望みは出てこない。ただ彼がいてくれればよいと日々それだけを思っている。例え夢の中でもそれで十分だった。
    「亥の刻だ」
    彼は家規に定められている通り毎日同じ時間に床に就く。彼は考えることを止め、香を焚き始めるといつも通り亥の刻になって眠りについた。

     それからどのくらい経っただろうか。藍忘機が目を覚ますとそこは見慣れた、どこか懐かしい風景が広がっていた。
    「香炉か」
    彼はすぐにそこが自身の夢の中であると理解した。辺りを見渡し、場所を把握すると即座に行先を定める。今彼がいるのは、かつて魏無羨と藍思追こと阿苑と食事をした夷陵の茶楼の前であった。となれば彼が向かう先は一つ、乱葬崗――。
     しばらく歩いているうちに段々と人気が無くなり、辺りは活気のない草木ばかりの景色へと移ろっていく。そこは妙に静かで、時折鳥が羽ばたく音と、風音だけが耳に届くばかりだ。一言で言えば気味が悪い場所であり、普通の人であれば歩みがどこか重たくなる。しかし藍忘機にとっては全くそんなことはなく、むしろ自分の大切な人がその先にいるのだと思うと足取り軽やかにすらなった。荒廃した場所を歩き進めていくと、人の話す声が微かに彼の耳へ届く。目的地はすぐそこだ。彼は内心、はやる気持ちを抱きながら、それでいてゆったりとした余裕のある足取りで、声のする方へと向かう。聞こえてくる声はこの場所にはおよそ似つかわしくないような活気のあるものだった。そうさせているのはきっと〝彼〟なのだろうと、藍忘機は穏やかな気持ちになるのを感じた。任務のため雲深不知処を離れて半日以上が過ぎている。つまりその間魏無羨に会えていないのだ。互いのそばにいる時間が長い彼にとってはとてつもなく長い時間に感じ、彼は今すぐに魏無羨に会いたくて仕方がなかった。魏無羨の姿を見ようと歩みを速める藍忘機だったが、先に進むごとに胸中には靄がかかったような感覚を覚える。
    「乱葬崗であればここにいるのは……」
    彼はそこで言葉を飲み込む。すると彼の目に一人の青年が映る。髪を上半分束ね、朱色の髪紐が風にたなびいている。そして身丈よりも大きめの黒い衣を身に纏い、少しばかり陰の気を纏う。周りの同年代の修行者と比べるとどこか成熟したような印象を与えるその人物は藍忘機の未練、後悔、そして執着であった。どうしてこの時期の夢を見たのか、それはきっと彼が抱く心残りを少しでも振り払えるようにと、魏無羨の計らいだろう。
    藍忘機は魏無羨と道侶となった今、日々幸せというものを感じている。しかし心の奥底では過去の未練を払拭できずにいた。いくら悔もうとも既に過ぎた出来事で、過去を変えることはできない。あの時こうすればよかったとかつては何度も悔い、例え幸せを手にしたとしても簡単に消えるものでもない。しかし幸いにも彼は今、その未練を断ち切る、悔いを払拭する機会に恵まれ、夷陵老祖として乱葬崗で過ごしていた魏無羨と邂逅を果たすことができる。かつて彼がしてやれなかったことをしてやれるのだ。魏無羨は追及することは決してなかったが、彼はきっと藍忘機の心に巣食う暗闇をすべて見透かしていたのだろう。
    「君には敵わない」
    藍忘機はふっと笑みを零し、すぐそこにいる魏無羨の元へ歩みを進めた。
    「魏嬰」
    静かな声色でその名を口にする。すると黒い衣を身に纏う青年は声の主へ目をやり、少し目を見開くと笑みを浮かべた。
    「藍湛、また夜狩で夷陵へ? あまりここへ出入りするとお前のとこの叔父上から罰を受けるぞ」
    屈託のない笑みでそんなことを口にする彼を見て、藍忘機は胸がきゅっと締め付けられる感覚を覚える。彼は魏無羨の言葉に応えるように短く言い放つ。
    「構わない」
    それを聞いた魏無羨は少し困った表情を浮かべたが、すぐに表情を明るくし、一歩、二歩と距離を縮める。あと一歩と言う距離で足を止め魏無羨は口を開いた。
    「夷陵にはそんなに獲物がいるとは思えないが、含光君はまさか俺に会いに来ただけとか」
    からかい口調で魏無羨は目の前の白い衣を身に纏った美丈夫に言葉を投げかける。藍忘機は特に動じることなく答えた。
    「うん、君に会いに来た」
    「え、藍湛……?」
    いつものように、くだらないと返されると思っていた魏無羨の予想に大きく反し、彼は面喰った顔をする。そして彼らしくなく言葉に詰まる。
    「ど、どうしたんだよ。なんか変なものでも、口にしたのか?」
    「していない」
    「じゃあ魂を乗っ取られたとか」
    「ない」
    藍忘機は顔を歪めながら尋ねる彼に対し短く答える。魏無羨はちらりと藍忘機の顔を見たが、目が合うと気まずそうにさっと逸らした。それを見ていた藍忘機は愛おしそうに目の前にいる彼を見つめる。すると視線に気づいた魏無羨は堪らず口を開く。
    「そんなに見られたら穴が開きそうだ。それに、なんか今日の藍湛はいつもと違う。背が伸びたのか? なんか目線が大分高いし、顔つきや体つきも……」
    ぼそぼそと呟く彼の言葉で、自分がかつての姿ではなく現在の姿であることに気づく。どこか初々しさを感じさせるような魏無羨の姿に、彼の胸が高鳴る。今すぐ抱きしめたくてたまらなかった。しかし彼はその気持ちをぐっと抑え込む。
    「なあ、藍湛。本当はここへ何しに来たんだ?」
    「さっきも言った。君に会いに来た」
    「っ……。やっぱり今日の藍湛は変だ。もういい。取り敢えずこっちへ来いよ」
    魏無羨は何かを振り払うように数回首を横へ振ると、藍忘機を伏魔殿の中へと招いた。藍忘機は小さく頷くと、彼の後をついて岩で囲まれた空間へと足を踏み入れた。中はひんやりとしており、何も話さない彼らの足音が岩に反響する。すると少し歩いたところで魏無羨は途中で足をピタリと止め、藍忘機へ座るよう促す。
    「座り心地は悪いが……」
    「構わない」
    藍忘機はそれだけ口にすると、石でできた椅子へ静かに腰かける。魏無羨はその向かいに横座りすると、椅子同様に岩でできた机に肩肘をついて口を開く。
    「最近変わりはないか?」
    「うん」
    「そうか。俺がここへ来て一年以上。すっかり世間から取り残されて世事には疎くなったからな。何か面白い話はないか? って藍湛相手にそれを求めるのは酷か! ははっ」
    言いながら彼は可笑しそうに笑う。藍忘機はそんな彼の様子を温かい目で見つめる。その視線に気が付いた魏無羨は首を傾げ、彼が尋ねるより先に藍忘機が口を開いた。
    「魏嬰。君はここでどう過ごしているの?」
    その問いがどういう意図か分からず、魏無羨は不思議そうな顔を浮かべながら答える。
    「別に普通だよ。術を開発したり大根を町へ売りに行ったり、あとは皆でご飯を食べたり。変わったことは何もない」
    言い終わる頃には魏無羨の顔が険しくなる。そして言葉を続けた。
    「そんなこと聞いてどうするんだ? 俺がここでどう過ごしているのか調べるように言われたのか? それとも監視しに? 何にせよそんなことされる筋合いは――」
    「私がただ知りたかっただけ。君がここでどう過ごしているのか気になっていた。元気にやっているのなら私は嬉しい」
    「……」
    微笑みながらそう言葉にする藍忘機に、魏無羨は言葉を失う。あまりにも違いすぎる、別人ともいえる様子の彼に頭を捻らせる。そして怪訝そうな顔でもう何度目かの言葉を呟く。
    「やっぱり今日の藍湛は変だ。なあ藍湛。ここへ来る途中に邪祟と遭遇したか?」
    「していない」
    「じゃあ何か変なものを食べたとか」
    「否」
    「じゃあ……。お前は本当に藍忘機か?」
    「うん」
    「本当に?」
    「本当」
    色々尋ねる魏無羨だったが、藍忘機の答えに納得していない様子だった。しかしこれ以上何を聞けばいいのか分からず口を閉ざす。すると今度は藍忘機が口を開く。
    「魏嬰、何かしたいことやしてほしいことはある?」
    「え、いや、急に言われても。何だってそんなこと聞くんだ?」
    「……君は、ここで温氏を守りながらもう一年以上も過ごしている。自分のしたいことを我慢しているんじゃないかと」
    「お前に俺の何が分かるんだ?」
    分かったようなことを口にする藍忘機に苛立ちを覚え、魏無羨は冷たく言い放つ。この頃の藍忘機であればうまく言葉にできず、言いたいことが伝えられずいただろう。しかし今の藍忘機は違った。彼はすれ違いを繰り返したかつての後悔を既に嫌というほど味わっている。きちんと言葉にすることが如何に大切であるかを十分に理解している。だからこそ彼は今の自身の思いをまっすぐに、飾らずに魏無羨へ伝える。
    「私は君を好いている。ずっと君だけを見てきた。分かったようなことを、と思うかもしれないが、私は君のことを理解している自負がある。それくらい君を――」
    「待て! 藍湛、お前のその言葉、それじゃあ告白みたいじゃないか。今日の藍湛がおしゃべりなのは分かったが、もう少し言い方があるだろ。いくら友人だとしてもだな……」
    恥ずかしそうに、そして気まずそうに目線を反らしながらもごもごと告げる。しかし藍忘機は構わず続けた。
    「私は君が好きだ。だから君の望みは叶えたいし、私は君を甘やかしたい。みたい、ではなくてこれは告白だ。私は魏嬰のことがこの世界で一番大切。私がここに来た理由、信じてもらえただろうか?」
    魏無羨は口をぽかんと開け、その場で固まってしまう。そんな彼の頬はほんのり赤く染まっていた。藍忘機は何も言わず彼を優しい眼差しで見つめる。今の魏無羨の脳内は混乱していた。もちろんこれが初めての告白ではなかったが、今までにないくらい自分へ向けられる好意を感じられ、しかも相手が藍忘機であることに動揺せずにはいられなかった。
    「藍湛、藍忘機、お前は何か勘違いをしているんじゃないか? 俺を好きだなんて信じられるわけないだろ」
    本当は藍忘機からの好意がまごうことなき本物であることは彼自身十分に理解していた。しかし動揺故にそんな言葉が口をついて出てしまう。藍忘機は魏無羨と道侶となって数年が経っている。今の魏無羨が放った言葉が真意ではないことは分かっていた。しかしそれには気づかぬふりをし問いかける。
    「ではどうしたら信じてもらえるだろうか?」
    「どうしたらって……。うーん、なんだろう。そうだ! 藍湛、さっき俺にしたいことがないか聞いたよな。だったら俺天子笑が飲みたい」
    夷陵から姑蘇までは距離がある。あの忙しい含光君が自分を好いているからと言ってわざわざ天子笑を買いに行くわけはないだろう、とにやりと笑いながら望みを口にした。しかし次の瞬間彼は呆気にとられることになる。
    「分かった」
    「え」
    「少し待っていて。すぐに戻る」
    「え、ちょ、藍湛? お前どこ行く、というか姑蘇まで天子笑買いに行く気か? おい藍湛、待てってば!」
    魏無羨の制止も聞かず、藍忘機はすぐに伏魔殿を後にし、御剣して乱葬崗を離れていった。途中まで後を追いかけたが、結局魏無羨は藍忘機が去る姿をただ見ていることしかできず、その場に呆然と立ち尽くしてしまう。少しして我に返った彼は一度冷静になろうと、伏魔殿の中へ戻り椅子へ腰かける。それから一つ深呼吸し、彼は頭を抱えてしまった。
    「藍湛のやつ、本当に姑蘇まで天子笑を買いに行ったのか? 俺のために? と言うか、藍湛が俺を好いているって……」
    思い出して恥ずかしさを覚えた彼は両手で顔を覆い隠す。
    「いや、いつから? 全然そんな素振り見せなかっただろ。待て、思い返せばなんか思い当たる節があるような、ないような……」
    ぶつぶつと独り言を繰り返す。
    「あいつが俺に姑蘇へ帰ろうって言ったのもそういう? いや、やたら俺につっかかってきていたのも、俺がただ鬼道を修めてたからではなくてそういうことなのか? 分からない。何なんだ、本当に……」
    魏無羨はあれこれ考えていくうちにより困惑し、机へ突っ伏してしまった。
    そうしているうちに時間が過ぎてゆき、藍忘機が乱葬崗へと戻ってきた。耳に入った足音に魏無羨は顔を上げ入口の方へ目をやる。すると手に酒壺を持った白い衣を身に纏う人物が彼のいる方へ向かって歩いてきていた。魏無羨は落ち着こうと深呼吸し、こちらへ歩いてくる藍忘機へ声をかける。
    「藍湛、戻ったのか」
    「うん。これを君に」
    そう言って藍忘機は手に持っていた酒壺を彼へ手渡す。
    「あ、ありがとう」
    ぎこちなくお礼を言うとそれを手に取る。そして壺に〝天子笑〟の文字を確認し乾いた笑みを漏らす。
    「本当に天子笑だ……」
    戸惑いながらも彼は蓋を開け、久しぶりの天子笑を口の中へと流し込む。すぐにその美味しさに表情をぱっと明るくし、勢いよく喉をゴクゴクと鳴らしながら天子笑を飲んでいく。
    「まだあるからゆっくり飲んで」
    勢いのよさに、むせてしまわないかと心配しながら声をかける。魏無羨は美味しそうに甕を傾け、天子笑はどんどん彼の中に吸い込まれていく。いい飲みっぷりと彼の至福の表情に、藍忘機の表情が綻ぶ。彼は魏無羨のお酒を飲む姿が好きだ。美味しそうに飲む姿は彼を幸せな気持ちにさせる。当然それは魏無羨が彼の好きなお酒を飲み、嬉しそうであるからに他ならない。
     一甕飲み干した魏無羨は満足げな笑みを浮かべながら口を開く。
    「やっぱり天子笑はうまいな! 天子笑飲む機会なんてもうないかと思ってからな……」
    「うぇい――」
    「だからわざわざ買ってきてくれてありがとう、藍湛」
    「君が望むならいつでも用意する」
    「はは、なんか藍湛なら本当にやりそうだな」
    「他に何か欲しいものはある?」
    藍忘機は再び魏無羨の望みを聞き出そうと問いかける。
    「え、いや、天子笑が飲めただけでも十分だしな。他は……」
    少し困った様子で彼は考え込む。彼自身、望みがないわけではない。しかし今の立場を考えると欲を出してしまえばきりがなく、どんどん欲が溢れてしまいそうで怖かった。藍忘機が先程言ったように彼はここでの生活をする上で我慢することばかりだ。あれもこれも、と今口にしてしまえば後戻りできないようなそんな気がして、彼は自身の望みを口にするのを躊躇う。
    「魏嬰?」
    「あー、やっぱり天子笑だけで十分だ。本当にありがとう」
    そう言って魏無羨は笑ってみせる。しかし藍忘機はそれが彼の本心でないことを見抜いていた。彼が言いたくないのなら無理に聞き出したくはない。とは言え彼の望みを一つでも多く叶えてやりたいと思う彼は、ここで潔く分かったと言いたくはなかった。
    「魏嬰」
    「ん、なんだ?」
    「私と共に少し街へ出かけてもらえないだろうか?」
    藍忘機の誘いに彼は首を傾げる。しかしすぐに彼は首を縦に振る。藍忘機は安心したように口元を緩める。それから二人は乱葬崗を離れて、夷陵の町へと赴く。
    「魏嬰、食事は?」
    「ああ、そう言えばまだ何も食べてないな。そろそろお腹空いたかも」
    「なら先に食事にしよう」
    藍忘機の言葉にうん、と彼は頷き近くにある店の中へ入っていった。
    「藍湛は何食べる?」
    「君の食べたいものを、私も食べたい」
    「……そうだな、ならこれとこれにしよう」
    魏無羨は一瞬言葉に詰まる。ふとした時に出る、藍忘機の自分を尊重するような、愛情のようなものが彼を戸惑わせる。気恥ずかしさを感じながらも、不思議と心の中には温かな感情が広がる。それが嫌だとは全くもって思わなかった。料理を注文した彼は真剣な眼差しを藍忘機へ向け、問いかける。
    「藍湛、やっぱり気になるから教えてくれ。お前は本当に藍湛か?」
    「?」
    「いや、聞き方を変える。お前は俺の知っている藍忘機なのか?」
    「なぜだ?」
    藍忘機は問いかける。
    「ほんの数ヶ月で変わりすぎだからな。いくらお前でも数ヶ月で背が伸びたり、体格がよくなったり、ましてやそこまで修為を上げるなんて現実的じゃない。それに……」
    そこで魏無羨は言葉を飲み込む。
    (それに俺に対する態度や表情があまりにも優しくて、少し前の藍湛とは違いすぎる。いろんなことを経験してきたような雰囲気で未来から来たって言われた方がよっぽど真実味がある)
    俯きながら黙り込む魏無羨を見て今度は藍忘機が話し始める。
    「信じてもらえるかは分からない。信じないのなら無理に信じる必要もない。私は君の言うように、君の知る藍忘機ではない」
    その言葉に魏無羨はばっと顔を上げる。しかし口を出さず次に出る言葉を静かに待つ。藍忘機は言葉を続けた。
    「今の私は君よりもずっと年齢が上だ」
    「それはつまり未来から……?」
    「そうなるな」
    それきり二人は口を閉ざす。突拍子もないような状況に場には沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは魏無羨だった。
    「はぁー、やっぱりそうか」
    「私の話を信じるのか?」
    「姑蘇藍氏は家規で嘘を禁じているだろ? それに藍湛が嘘を吐くなんて天地がひっくり返ったってあり得ないからな。むしろ未来から来たって言われたらお前の見た目とか修為とか諸々妙に納得いったよ」
    魏無羨は微笑を浮かべながらそう言葉にした。
    「それに、やけに余裕がある感じでなんか悔しかったし、未来から来たってならその気持ちも仕方ないって思えるしな」
    「余裕……。私が君といて余裕でいられることはない」
    小さく呟いたその声は魏無羨にしっかり届いており、彼の顔を歪ませた。
    「お前はいつだって落ち着いてるし、大人になってさらにそれに拍車がかかってる。それを余裕と言わずになんだって言うんだ?」
    苦虫を嚙み潰したような顔で彼は言葉を投げかける。
    「藍湛はあまり感情が顔に出ないし俺がそう感じているだけ、なのか……? まあいいや。お! 藍湛、料理が来たぞ! うまそうだ!」
    魏無羨は運ばれてきた、出来立てで湯気が立ち上がる料理をじっと見つめる。そして食欲を刺激する香りに喉をごくりと鳴らす。
    「冷めないうちに食べて」
    そう言って藍忘機は料理を魏無羨の皿に取り分ける。魏無羨は箸を持ち、取り分けられた料理をゆっくりと口の中へ運ぶ。彼の好きな辛い料理に目を輝かせる。唐辛子が舌を刺激する。彼はこの感覚が懐かしく、一口、また一口と料理を頬張る。美味しそうに食べる彼を見つめていた藍忘機は、ふっと笑みを零し、彼もまた料理に手を伸ばす。
    「藍湛、これ美味しいな! やっぱり唐辛子は最高だ」
    「うん」
     それからすぐに皿の上は綺麗に片付けられた。魏無羨はお茶を飲み一息つく。
    「なんだろうな。藍湛と食べるご飯はいつも美味しく感じるんだ」
    「私も、君と共に摂る食事は美味しいと感じる」
    「大人の藍湛は、よく笑うんだな……。藍湛が笑うとこなんてほとんど見たことなかったから、なんか新鮮だ」
    誰かが彼をそうさせたのだろうか、とそんなことをふと考える。それは魏無羨にとってあまりいい気分ではなかった。一体誰が彼を変えたのだろうか、と考えるほど表情が曇る。すると藍忘機が口を開いた。
    「君のおかげだ。私がよく笑うようになったと言うのなら、それは君が私をそうさせている。私は魏嬰といるときがとても楽しく、嬉しさでいっぱいになる。君が私の傍で笑顔でいてくれることがこの上なく幸せだと感じるのだ。そういうときに私は笑みを浮かべるのだろう」
    まっすぐと魏無羨を見つめながらそう告げる藍忘機の表情はとても穏やかであった。飾らない彼のまっすぐな言葉が魏無羨の胸を高鳴らせる。先程までの霧がかかったような感情が一気に晴れる。彼を変えたのは自分であったのだと、それを聞いただけで心躍るような気持ちでいっぱいになる。しかしどうしてここまで感情が移り変わっていくのか、彼自身理解できていなかった。藍忘機の言葉に一喜一憂する彼の様子は、藍忘機の目にとても愛らしく映る。胸の中が魏無羨への愛おしさで溢れる。その瞬間、彼は気持ちを口にしていた。
    「魏嬰、君が好きだ。愛おしくてたまらない」
    「ら、らんじゃん!?」
    不意打ちともいえる告白に、彼は声を上ずらせる。動揺を隠せない彼の頬は赤く染まり、ふいっと目線を下へ逸らした。
    「お、お前が俺のこと好きなのはもう十分分かった。から、わざわざ口にしなくても……。というか不意打ちは勘弁してくれ」
    彼は顔を隠すように両手を前に出す。藍忘機はその様子を穏やかな表情で見つめていた。そしてあの頃もこうして素直に気持ちを告げていれば、と時々彼の心に影を落とす。過去にできなかったことを現実ではないとはいえ、今こうしてできていることで、ほんの少し救われるような気持ちでいた。
     藍忘機はずっと目を合わせずにそっぽを向いている魏無羨へ声をかける。
    「魏嬰、そろそろ店を出よう」
    「あ、ああ! そうだな! 腹も膨れたし外を歩こう!」
    意識しすぎないようにと考えていても魏無羨は彼の思い通りにはできず、明後日の方向を見ながら返事をする。それから藍忘機によって会計は済まされ、二人は店を後にした。魏無羨は何となく気まずさを感じ、藍忘機の少し後ろを歩く。後ろからその姿を見ていると、彼の大きな背中に安心感を覚える。そしていつもとは違い、ゆっくりと時が流れるような感覚に不思議な気持ちでいた。彼はしばらく藍忘機をぼーっと見つめる。するとふいに目の前にいる男が振り向き、二人の視線が交差する。
    「魏嬰?」
    「ん?」
    「どうかしたか? ぼーっとしているように見――」
    「穏やかだ」
    「魏嬰?」
    もう一度名前を呼ばれ、彼は我に返る。
    「あ、いや何でもない! 気にしないでくれ」
    「しかし……」
    藍忘機は心配そうに魏無羨の顔を覗き込む。しかし、大丈夫だ、と言う彼にそれ以上聞けなくなる。すると魏無羨が何かに気づき、口を開いた。
    「藍湛、あれ見ろ! うさぎをかたどった飾りだぞ。可愛いな」
    「うん」
    魏無羨は飾りを売っている露店へ足早に近寄る。そして藍忘機もその後を追った。
    「いい人への贈り物ですか?」
    「いや、そういうわけじゃないが」
    そう店主に答えながら彼はうさぎの飾りを手に取り、微笑みながらそれを見つめる。そして横に立っている藍忘機へその飾りを見せる。彼の表情が柔らかくなったのを見た魏無羨は口角を上げて話しかける。
    「藍湛、お前うさぎ好きだろ?」
    「うん」
    「やっぱりな。じゃあ何で俺がうさぎをあげたらあんなむっとした顔してたんだ? まあ、あの頃はお前を怒らせてばかりだったし、嫌いな相手からもらったらそんな反応するか」
    遠い目で過去を思い出す。座学のために雲深不知処を訪れていたあの頃から、そう時が経っているわけではないが、今日までに様々な出来事が起きたせいかずいぶん昔のことのように感じた。
    「私は君を嫌ったことなどない」
    「え?」
    驚いた顔で藍忘機のほうを見る。すると彼もまた自分のほうを見ており視線がぶつかる。藍忘機は申し訳なさそうに語り始める。
    「あの頃は、君へ向ける感情が何か分からず、どういう顔で、どのように接したらいいのか分からなかった。同年代で君みたいに私に接してくる人はいなかったから。あの頃、私は君の誘いをすべて無下にした。すまない」
    「いやいや! 藍湛が謝る必要はないって! 別に気にしてないしな」
    「君の誘いを受けていれば、と何度も悔やんだ。君は気にしていないと言うが、誘いを断られていい気分になるわけはない。すまなかった」
    俯きながらそう口にする彼の姿を見た魏無羨はばつが悪そうな顔をする。そして少し考えるそぶりを見せた後、笑顔で藍忘機へ声をかける。
    「なあ藍湛、俺お前としたいことがあるんだけど」
    すると藍忘機は顔を上げ頷く。その表情はどこか嬉しそうだった。
    「取り敢えず乱葬崗へ戻ろう」
    「分かった」
    魏無羨は手に持ったままだったうさぎの飾りを店主へ返すと、踵を返し乱葬崗のある方へ歩き始めた。藍忘機は店主と二言三言話をし、一礼して魏無羨の後を追った。

     二人は乱葬崗へ着くとすぐに伏魔殿の中へ入っていった。そして初めに座っていた岩でできた椅子に二人とも腰かける。藍忘機は琴を取り出すと弦をそっと撫でる。魏無羨もまた腰に差していた陳情を手に取り、指を器用に使ってくるくると笛を回転させ、吹き口を口元へ持ってくる。すぅーっと静かに息を吸い、彼は笛へ息を吹き入れた。笛から奏でられる音に乗せ、藍忘機は静かな手つきで弦をつま弾いていく。柔らかな透き通る笛の音と琴の甘く切ない音が合わさり周りの空気を揺らす。音が反響し演奏する彼らの心までも震わせる。互いの奏でる旋律が一つの音となる様に胸が高鳴り、それでいて波風立たない湖のように穏やかな気持ちとなる不思議な感覚に襲われる。二人は曲を奏しながら目を合わせると笑みを浮かべた。この時がずっと続けばよいのに、と彼らは同じことを願った。しかし永遠などはなく、惜しみながら最後の音を響かせる。
    一曲演奏し終えると二人はほっと一息つく。そんな彼らの表情はとても幸せそうで余韻に浸るようだった。辺りは静寂に包まれていたが、最初に口に開いたのは魏無羨だった。
    「ありがとう藍湛。すごく楽しかった。やっぱり俺、藍湛の奏でる琴の音が好きだ」
    「私こそ感謝している。君とこうして合奏ができてとても嬉しい。それに私も君の奏でる笛の音が他の誰が奏でるものよりも好きだ」
    「はは、ならまたいつか合奏しよう。その頃にはもっとうまくなってるぞ」
    「……うん」
    〝いつか〟という不確かな言葉に胸が締め付けられる。これから起こることを知っている藍忘機は表情を一瞬曇らせる。しかしすぐに表情を繕い、魏無羨の方へ目を向ける。
    「ふわぁ……」
    「疲れたのか?」
    「あ、悪い」
    「構わない。少し休もう」
    欠伸をした魏無羨を諭すようにそう口にする。藍忘機は琴をしまい始める。その様子をぼーっと魏無羨は見つめる。気づけば彼はふっと笑みを零していた。それに気づいた藍忘機は首を傾げる。
    「いや、何でもないよ。不思議な気持ちになっただけだ」
    「不思議な気持ち?」
    「んー、言葉では言い表せないかも。どうも俺は気が抜けてるみたいだ」
    藍忘機は彼の言わんとすることに察しがついた。しかし何も言わず魏無羨の言葉に耳を傾ける。
    「ここへ来てもうずいぶん経つがなんだかんだで気を張っていたんだと思う。それが今日藍湛と過ごしていてよく分かった。お前といると落ち着くんだ。安心する。余計な力が抜けてさっきは欠伸を」
    「君がそう思ってくれて嬉しい」
    「うん。何でだろうな。他の誰といてもこんな気持ちになったことない気がするんだ。江澄や師姐といても確かに落ち着くけど、やっぱりどこか気を張っていて……」
    そこで魏無羨の言葉が途切れる。そして少し躊躇うように口を開けては閉じを繰り返し、意を決したように再び言葉を紡ぐ。
    「俺は、俺には守らないといけない人たちがたくさんいる。俺は誰かを守る立場にあって、守られる立場ではない。だからこの先も心の底から安心できるなんてことはないのかと。だから少し嬉しかったんだ。藍湛といて心の底から安心できて、俺にもそういう場所が、安心させてくれるような人がいるんだと。俺は多分そういう安心できる、させてくれるような存在を望んでいたんだと思う。もうほとんど諦めていた……」
    「魏嬰……」
    「何言ってるんだろうな俺。なんだ、藍湛はやっぱりすごいやつだよ」
    戸惑いながらも笑みを浮かべてそう告げる魏無羨を、藍忘機は気づけば抱きしめていた。突然の出来事に魏無羨は言葉を失う。しかしそれを跳ねのけることはせず、彼はじっと動かずにただ抱きしめられていた。藍忘機はそのまま言葉を口にし始める。
    「私は君のことが好きだ。君のためなら私はなんだってしてやりたい。君に安心できる場所が、存在が必要だと言うのなら私がそうなる。君が諦める必要なんてない。どうか、望みを諦めるなんて言わないで。私はいつだって魏嬰のことを想っている。だから君が望むことは、私がすべて叶える」
    彼の言葉に魏無羨の胸が苦しくなる。こんなにも自分のことを想ってくれる人がいる。諦めなくてもいいのか、と嬉しくなる。それと同時に怖くもあった。今は望みを諦めなくていいと安心させてくれる人がいる。しかしもしいなくなったら。一度我慢してきたものを解放してしまえば戻れない気がして、それが魏無羨に恐怖を覚えさせる。そう考えていた時に藍忘機がさらに言葉を続ける。
    「君の知っている通り私は未来から来た。私はもう長いこと君だけを想い続けている。今までもこれからもずっと君だけを好いている。君を一人置いていくなど絶対にあり得ない」
    「…………ありがとう」
    魏無羨はぽつりと呟いた。そして彼は藍忘機の腕を解き、少し距離を取る。それから彼は今まで抱えていた思いを少しずつ言葉にする。
    「俺さ、不安なんだ。今自分が歩んでいる道は正しいのか分からなくなる。でもこれ以外にもう道がなくて、後戻りなんてできない。親しい人たちに心配をかけたくない、他人に隙を見せたくない、だからこれが正しい道なのだと信じて、今を過ごしている。でも俺の選んだ道を周りは良しとはしていない。俺は間違っているのか?」
    「……」
    「もし俺のせいで最悪の事態が起こったら……。俺はきっと本当に一人になる。それが少し怖い。そうならないために今を生きているけど、それが正しいのか自信が持てない。本当に今のままでいいのかと問われるたびに怖くなる。だったらどうすればいいんだ? 他に道はあるのか?」
    彼は語気を強める。そしてため息を零す。彼の苦悩が見て取れる。彼がこんなに自分を追い込んでいたのだと藍忘機はこの時初めて知った。それに気づけなかった自分に嫌気がさす。彼にかけるべき言葉は何か。藍忘機は今まで、十数年この頃の彼にかけてやりたかった言葉があった。それを伝えられなかったことが、彼の大きな心残りの一つであった。こうして香炉を介して心残りを払拭する機会を得ることができた。藍忘機は、『魏嬰』と優しい声でその名を呼ぶ。そして彼は長いこと心の内に抱えていた言葉を魏無羨へ贈る。
    「君はよくやっている。私は君が最善を尽くしているのだと知っている。だから君が選んだ道を否定したりは決してしない。たとえ魏嬰がどんな道を選んだとしても私は君を信じるし、必ず傍にいる。私はずっと君の味方だ。だからどうか無理だけはしないで。自分のことを大事にしてあげてほしい。私だけではない、他にも君を大切に思う人がいる。君は決して一人ではない、それだけは、どうか覚えていて」
    そう言って藍忘機は目の前にいる今にも不安に押しつぶされてしまいそうな顔をする青年を、再びぎゅっと優しく抱きしめる。魏無羨は先程よりも想いの籠った抱擁に肩をぴくりと跳ねさせる。しかし戸惑いながらも今度は彼も腕を藍忘機の体へと回した。
    「藍湛が傍にいるなら心強いよ。……ありがとう、藍湛」
    そう口にする彼の声はほんの少し震えていた。藍忘機は胸がいっぱいになる。そして自分の胸に顔をうずめる魏無羨の頭をそっと撫でた。
     それからどのくらいの時間そうしていだろうか。先程まで伏魔殿の中へ差し込んでいた光はすでにそこにはなかった。魏無羨は藍忘機の体へ回していた腕を下ろし、目の前にある体を押して距離を取ろうとする。
    「魏嬰?」
    「いや、なんだ、我に返ったらなんか……。俺はもう大丈夫だから。ありがとう」
    「……そうか」
    短く答え、藍忘機は腕を解き名残惜しそうに魏無羨から体を離す。解放された彼は気まずそうに、藍忘機のいない方へ目線を反らす。そして何度か咳払いをした後に藍忘機へ声をかける。
    「藍湛、もう日が沈んだ。お前は元いた場所へ帰らなくていいのか?」
    「帰らなければならない」
    「そう、だよな。途中まで送るよ」
    魏無羨の言葉に彼は首を横に振る。
    「見送りは必要ない」
    「……そうか」
    魏無羨の表情に影が落ちる。当然、藍忘機は魏無羨の提案を受け入れたかった。しかしこれ以上共にいると欲が出てしまいそうだった。もっと一緒にいたい、話をしたい、と。しかしこの夢もじきに覚める。藍忘機はそれを感じていた。きちんと別れを言う前に目が覚めてしまうのは彼の望むところではない。それ故の選択だった。しかし藍忘機にとって喜びを覚えることもあった。魏無羨の言葉や表情から離れがたく思ってくれていることが伝わってきた。少なくとも自分といることが、彼にとってそう悪い時間ではなかったのだと分かり藍忘機を安堵させる。気づけば彼の口元には笑みが浮かんでいた。
    「魏嬰、私はそろそろ行く」
    「ああ。藍湛、今日はありがとう」
    「うん。あとこれを、君に」
    そう言って藍忘機は袖の中から何やら取り出し、魏無羨へ差し出す。魏無羨は差し出されたものを受け取り、手の平に乗せたそれへ目をやる。
    「藍湛、これ」
    「私が君へ贈りたかったのだ」
    「そうか。ありがとう。大事にするよ」
    「うん。魏嬰、体には気をつけて。くれぐれも無理はしないで」
    「ああ、分かったよ」
    「では私はもう行く」
    「気を付けて。……ありがとう」
    「…………」
    藍忘機は何か言おうと口を開きかけたが、言葉を発することなく口を閉ざす。そして拱手をして魏無羨へ背を向け歩き出した。魏無羨はその背中が見えなくなるまで見送る。姿が見えなくなると、手に持っていた藍忘機から受け取ったうさぎの飾りを愛おしそうな目でじっと見つめる。彼はふっと笑みを零し、すぐに表情を曇らせ一言、ぽつりと言葉を零した。

    「いつか、何の憂いもなく藍湛の隣にいられたら……」

     魏無羨と別れ、乱葬崗を去った藍忘機はその道中、突然目の前が真っ暗になる感覚に襲われそのまま意識を失った。そして次に目覚めた時は、彼が泊まっていた宿の天井が目の前に広がっていた。視線を横へずらすと、煙の出なくなった香炉があった。外はそろそろ日の出の頃ですでに明るくなり始めていた。ちょうど藍忘機がいつも目を覚ます卯の刻である。彼は体を起こし身支度を整えると、香炉を片付け部屋を出た。
     その日、藍忘機は別の依頼のため、依頼主を訪ね依頼内容を聞いた。それから藍忘機はすばやく依頼を片付け、途中魏無羨への土産を買うために寄り道をしながら、すべての用事を済ませた後雲深不知処へと急いだ。彼は今すぐ魏無羨へ会いたくて仕方がなかった。彼が雲深不知処へ着く頃にはすでに日は沈み、辺りは暗く静まり返っていた。雲深不知処への入り口となる門をくぐり、彼は兄である藍曦臣と叔父である藍啓仁へ今回の任務についての報告をする。端的に、必要最小限の報告のみ済ませた彼の頭の中は魏無羨のことでいっぱいだった。
    (魏嬰、早く会いたい)
    はやる気持ちを抑えながら彼は静室へ向かう。そしてようやく静室の前まで辿り着いた。襖の隙間からはロウソクの明かりが漏れている。すると明かりがゆらゆらと揺らめきだし、その明かりが黒い影に遮られた。襖に映るその影が徐々に濃くなっていく。藍忘機は襖へ手を伸ばした。すると彼が開けるよりも先に襖が勢いよく開かれる。
    「藍湛、おかえ――」
    「魏嬰」
    藍忘機は魏無羨の言葉を最後まで聞くよりも先に彼を思い切り抱きしめた。そして何度もその名を呼んだ。
    「魏嬰。魏嬰……」
    「藍湛。ここにいるよ」
    「会いたかった」
    「俺も藍湛に会いたかった。藍湛が早く帰ってこないかずっと襖の方を見ていたくらいに」
    魏無羨は笑みを零しながらそう言葉にする。二人は互いをぎゅっと抱きしめゆっくりと言葉を交わしていく。
    「魏嬰、体調は?」
    「んー、もう平気だ。すっかり元気だぞ」
    「それなら良かった」
    安堵の表情を浮かべた藍忘機だったが、表情を硬くして魏無羨へ疑問を口にする。
    「……君は、どうしてあの香炉を私に?」
    「見たい夢は見れたか?」
    「……うん」
    「なら藍湛に渡した甲斐があった。……藍湛はずっと気がかりなことがあったんだろ?」
    「やはり気づいていたのだな」
    「まあ、俺は藍湛のことばっかり見てるからな。それでどうだった? って言ってもお前の様子からしてもうその気がかりは無くなったんだろうな」
    魏無羨は顔を上げて柔らかい笑みを浮かべる。藍忘機はうん、と頷き微笑んだ。
    「ありがとう、魏嬰」
    「俺は別に大したことはしていないさ。香炉を渡しただけ。実際に行動したのはお前自身だろ」
    「それでもその機会を与えてくれたのは君だ。感謝している」
    「そうか。ならその感謝の言葉はありがたくいただくよ。それより藍湛、手に持ってるのは酒か?」
    魏無羨は藍忘機が腕を回している自身の背中に当たる、固い陶器のようなものに意識をやり尋ねる。その問いに藍忘機は魏無羨を抱きしめる腕を解き、彼が手に持つ褐色の酒壺を魏無羨に見せる。
    「やっぱりそうか! さすが藍湛だな!」
    魏無羨は満面の笑みを浮かべながら酒壺を受け取る。
    「藍湛が俺のために買ってきてくれたし、早速」
    「あとこれも君に」
    そう言って藍忘機は袖の中から何やら取り出し、魏無羨へ手渡す。受け取った魏無羨は手の中にあるそれを見つめ一瞬大きく目を見開く。そしてすぐに不思議そうな表情を浮かべて呟いた。
    「うさぎの飾り……? これもお土産か? ご当地のものってわけじゃなさそうだが……」
    「うん。私がどうしてもそれを君に贈りたかっただけ。よければ君にもらって欲しい」
    「……そうか」
    魏無羨はどこか噛み締めるように短く言葉を零す。それからすぐに言葉を続けた。
    「まあ、藍湛が俺に贈ってくれるものなら俺は何だって嬉しいんだがな! 藍湛、ありがとう。大事にするよ」
    「……うん」
    魏無羨が発した言葉にどうしようもなく嬉しさを覚える。香炉の中で共に過ごした彼と同じ、やはり魏無羨は魏無羨なのだと。藍忘機は顔を綻ばせ喜びを嚙み締めるようにそっと目を閉じる。
    「藍湛? どうかしたか?」
    「ううん、何でもない」
    「そうか? なあ藍湛。お前からもらった酒が飲みたい。晩酌に付き合ってくれるか?」
    「もちろん」
    「そうこないとな!」
    魏無羨はにかっと笑い、足取り軽やかに机のある方へ向かい、酒壺を机の上へ置くと腰を下ろした。藍忘機もまたその後を追い、彼の向かいに座る。魏無羨は酒壺を傾けながら猪口二つに酒を注ぐ。そして一方を藍忘機の前へ置き、もう一方は自身の前へ持ってくる。
    「いい香りだ。これは絶対うまい酒だぞ藍湛」
    「うん」
    魏無羨は猪口を手に取ると、中に入った酒を一気に口の中へ流し込む。
    「っはー! やっぱりうまいな! しかも目の前には美人がいるし、美人を見ながら飲む酒は最高だ!」
    「気に入ったのなら良かった」
    「すごく気に入ったよ! ありがとう。さ、藍湛も飲めよ」
    「うん」
    藍忘機は魏無羨に言われるままに、彼と同じように器に入った酒を一気にあおる。そしてほんの数秒で彼は机の上へ突っ伏してしまった。
    「ふっ、相変わらず藍湛は酒に弱いな」
    眠ってしまった藍忘機の髪を手に取り、笑いながらそう口にする。そして少しの間の後、彼は優しく語りかける。
    「藍湛、ありがとう。一人じゃない、お前のその言葉できっと俺は救われたよ。それは俺が欲しかった言葉だったんだ。たとえ過去は変わらなくてもお前が俺のことをずっと考えて、想ってくれていたんだと知って嬉しかった」
    言い終わると彼は立ち上がり、寝息を立てる藍忘機の隣に腰かけ彼へもたれかかる。
    「藍湛、ありがとう。うさぎの飾りを贈ってくれたことも、俺の望みを叶えようとしてくれたことも、そして俺が安心できる場所を作ってくれたことも、感謝の気持ちでいっぱいだ。お前は香炉で自分の悔いを払拭できて、自分だけが救われたと思っているだろうが、救われたのは俺も同じだ。藍湛がかけてくれた言葉すべてが俺にとっては救いなんだ。俺はお前の傍にいる時が一番安心できる。お前は今、言葉の通りちゃんと俺の安心できる場所だよ。それに望みも叶った。お前が叶えてくれた。……今の俺は、何の憂いもなく藍湛の隣にいられる。ありがとう、藍湛」
    「それは、よかっ、た……」
    「藍湛起きて!? ってまた寝た。ふはっ。なあ藍湛、お前は俺の望みをたくさん叶えてくれた。お前が起きたら今度は俺がお前の望みを叶えてやる。俺にも叶えさせてくれよな」
    魏無羨は藍忘機の頬をつつきながら微笑んだ。それから藍忘機が目覚めるまでの間、彼は左手でうさぎの飾りを大切そうに握り、気持ちよさそうに寝息を立てる藍忘機の寝顔を見つめながら、今のこの穏やかな時間を噛みしめるように静かに酒を飲み続けた。
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