蜘蛛の糸「愉快とはこのような事を言うのだろうな。笑っていいぞ、エンフィールド」
そうに違いない、と猫のように目を細めたスナイダーは自身の本体となるスナイダー銃に取り付けた負い紐──スリングを右肩にかけ背負っている。普段は取り落とす訳もない本体だが、高い樹上へと登るためには両手を塞ぐわけにもいかない。
そこまでしてスナイダーが登った枝に片膝を立てて腰を下ろし観察するのは、同じ木に下がる網だ。大物を抱えて膨れながらも丈夫な良い物で、こと港町であるフィルクレヴァートにおいては網漁で大量に使われるため容易く手に入れることができた。
「いい加減にしてくれ! 早く下ろすんだスナイダー!」
「騒々しいぞ」
「なっ、どうして君はいつもそうやって……っ」
網の中でもがくエンフィールドは不安定に揺れる網に息を詰め、恨めしげに高みの見物をするスナイダーを睨み付ける。
数分前までエンフィールドは、いつも通り課せられた責務から逃亡したスナイダーを捜索するべく、士官学校近辺の山を鬱蒼と覆う森を方々歩き回っていた。不真面目な弟の躾は兄である自分の責任だ、と引き受けた為だ。しかしスナイダーは普段から勝手に、この山を我が物顔で駆けてはアウトレイジャーなどの『侵入者』を屠っている。つまるところエンフィールドは端から地の利で負けていたのだ。
やはりと言うべきか一向にスナイダーは見つからない。諦めかけたその時、エンフィールドは何かを踏み抜き突如として足元から掬われ釣り上げられた。それこそがこの網で、スナイダーの仕掛けた罠だった。
「何を言ったところで、どうせおまえは理解しないだろう」
「ああ、もう全く! 身勝手だなぁ、君は……」
身内の罠でなければ今頃おまえの銃は圧し折られていただろうな、とエンフィールドを揶揄えば恐らく二週間は口を利かずスナイダーの為の料理も作らなくなる。
事実はいずれにせよ、そういう確信がスナイダーにはあったので口に出さなかった。スナイダーは決して何であれ摂取したくなどないが、エンフィールドの手料理が一番マシなのだから取り上げられては困る。身勝手極まりないように思える彼にも、一種の線引きはあるのだ。
とびきりの善人のような振る舞いを絶やさず優等生の仮面を外さないスナイダーの兄は、意外と悪辣で残酷な子供のようなところがあった。あくまで弟にとって、だが。スナイダーは自身を棚の一番高い場所にまで上げた様子で笑みを浮かべる。かわいいやつだ。
「そもそも……確かにね、僕は改造だけは嫌だと言うさ。だからって改造以外なら何をしてもいい訳がないだろう?」
「それがどうした。何が言いたい」
肩を落として溜め息を殺すエンフィールドなどスナイダーは見向きもしない。そしてスナイダーはエンフィールドが吊られた網を下げる縄の先を取って枝を支点にし、引きながら右の手の平へ何重にも巻いた。エンフィールドの重みを支えに木の幹の凹凸へ軍靴の底を乗せつつ、するすると器用に歩いて降りていく。
「えっ、お、おい、スナイダー!?」
「それ以上、騒ぐな。落としたくなる」
置いていかれるのかとエンフィールドが寸の間、青褪めたがスナイダーは冷たい声色のまま、その不安を一蹴した。どうやらエンフィールドを落下以外の方法で解放してくれるようだ。
てっきり落ちる以外に術はないのかと思った。エンフィールドは垂直で落ちるには高過ぎるが頭を使えば降りられないことも無いであろう、絶妙な塩梅の高さから目下に立つスナイダーを視線で追う。
「……」
降りたスナイダーは予想外なほど素直に、手に巻き付けた縄をゆっくりと解いてエンフィールドを下ろしていった。ならば何故、罠などかけたのかとスナイダーに問う時間ほどエンフィールドにとって無意味なものも無いだろう。スナイダーの人並み外れた握力からか片手で縄の長さを調節しているにも関わらず、大きなブレも無く下ろされる身体に複雑な心地になる。
スナイダーは強い。周囲から理解を得る必要も無いほどに。ただそれはとても諸刃ではないか、と注意こそすれどエンフィールド自身、連携強化以外の利点を説明できないでいた。それも極論、強ければ必要が無いのだ。エンフィールドは胸中に広がる苦みのような何かから目を逸らす。
そうして、網はある程度の高さまで下りる。絡む縄から出そうと伸ばされるスナイダーの指先に触れたエンフィールドは、おもむろに首を傾げた。
「……あれ? 君って、こんなに平熱が低かったっけ」
元よりスナイダーの体温は決して高くはないが、今はまるで氷のようだとエンフィールドは目を丸くする。季節によっては放置された銃身と同等に冷めていることさえあるものの、とはいえ滅多にないことだ。
「っ……!」
「うわっ!? い、いたた……!」
答えは至極、単純だった。ただエンフィールドが自分を見付けるまで、この樹上にいようとスナイダーが決めてから既に数日経っていたのだ。
いわゆる飢餓状態が招いた低体温症に過ぎない。エンフィールドがそれに気付くのは、降りる彼を受け止めたスナイダーが、そのまま地面へと倒れ伏せてからのことだった。突然の衝撃に短い悲鳴を飲み込んで見下ろせば、下敷きになったスナイダーは動かない身体へ舌を打つ。
「チッ……、来るのが遅いおまえのせいだ」
「君にだけは文句を言われたくないな……。僕の何が分かるって言うんだい」
「ふん。到底、理解はできん」
こっちはジョージ師匠の試験勉強を見て差し上げる約束も反故にして、探し来たというのに。
心なしか鋭くなったエンフィールドの視線も物ともせず、スナイダーは流石の生命力で意識を保っている。現状、唯一自分を連れ帰ることができる命綱の兄さえも挑発する胆力だけは残っているらしい。いつぞやのように伏した小生意気な弟の上から降りてやったエンフィールドは息を吐く。
これから自身より幾ばくか身長の高いスナイダーの肉体を背負うより、いっそ銃に戻ってくれたほうが運びやすい。エンフィールドの脳裏には一瞬そんな考えが過ぎるが、即座に首を振った。流石に、ここで急に弟を撃って銃に戻すなんて紳士的なやり方じゃない。
だがそれでも、とスナイダーは続けて口を開く。
「おまえ以外を兄と呼ぶ予定は無いぞ」
見下ろしたエンフィールドは、無言で屈んでからスナイダーと同じようにスリングで肩にかけていた自身の銃を前方に下げて背面を空ける。どこか嬉しそうな表情で薄ら笑うスナイダーの腕を、こわごわと首に回させて脚を抱えた。普段からろくに食べていないと言えど鍛え上げられた筋肉で、ずっしりと重いスナイダーを背負って降りるのは至難の業だろう。
──けれど。また同じ長い山道を一人で戻るよりは誰かと話しながら降りたほうが、ずっといい。それが、たとえ相手は可愛げがないどころか空恐ろしい弟でも。
「……スナイダー、君のことを慮る僕を裏切らないでおくれよ」
エンフィールドが呟くと、その言葉を聞いたのか確認する間もなく小さな寝息が背後から聞こえてきた。睡眠さえ忘れていたのか。呆れたエンフィールドの腕から力が抜けかけ慌てて、ずり落ちないようにスナイダーの身体を浮かせて背負い直す。
結局、静かな帰り道を歩くことになったエンフィールドの足元は、しかし最後まで二人分の濃い影を落としていた。