茉莉花の香りと心「あれ?主、何してるの?」
「んー?ちょっとねー……」
自分の部屋に向かおうと廊下を歩いていたら、主の執務室の横を通る。ちらりと部屋を覗けば、籠に入った白い花をぷちぷちと花弁だけになるよう千切っている姿が目に入った。思わず気になってしまって声をかけたけど、目の前の作業に集中しているのか、主ははっきりした答えを返すでもなく、まだ花を千切っている。
主に対しても自分自身にも、特に急ぎの用事があったわけではない。花弁だけになった花の行方が知りたくて、執務室に足を踏み入れた。
「気になった?」
「うん。……これ、良い匂いだね」
「でしょ?福島にちょっと分けてもらったんだ」
俺が隣に座って、ようやく主の視線がこちらへ向く。それが少し嬉しくて、花の話題を続ける。
「これ、何て花なの?」
「ジャスミンだよ。ちょうどこの種は……茉莉花って呼ばれてたかな」
「茉莉花……」
茉莉花といえば、確か茉莉花茶もあったはずだ。初めて飲んだ時は、独特の味がして苦い顔をしたのを覚えている。今では普通に飲めるようになったけれど。
――あのお茶、こんなに良い匂いがするんだ。
じゃすみんの種類によっては、“茉莉花”と呼ばないものがあることや、昔々の他国の小説でも出てくるほどのものだとか。そんな主の話を聞きながら、囚われたかのように目の前の花から目が離せないまま、花の香りを存分に楽しむ。
「気に入った?」
「うん。俺、この匂い好きかも」
「良かった!これね、元々村雲に作ろうと思ってたんだ」
「俺に?」
「そうだよ」
何を作ってくれるつもりなのか、今はまだわからない。けれど、主が俺に何かをくれようとしている。その事実だけで、わくわくと心が跳ねた。
「何だろう……楽しみにしてるよ」
「そう言ってもらえると嬉しいな。あ、作るのに二、三日かかるから、出来上がるまでもう少し待っててほしいんだけど」
「すぐ出来るものじゃないんだ?」
「うん。ちょっと時間がかかるんだよね」
申し訳無さそうに眉を下げる主。
――そんなこと気にしなくても良いのに。
主から何かを手作りで貰える。その事実が嬉しいのだから。
「大丈夫だよ。ありがとう、主」
「ううん。出来たら声かけるね」
「わかった、待ってる」
照れくさそうに笑った主に、思わず微笑みで返す。俺が思うのは烏滸がましいかもしれないけど、そんな姿が愛らしいと思ってしまったから。
二言三言話して部屋を出たその後、どうやら俺は端から見ても浮かれていたらしい。『嬉しそうですね』 『良いことがあったのか?』とそんな言葉ばかりをかけられた。
「そ、そうかな……?」
本当は、『主が俺に何か作ってくれてるんだって!』と声高々に言いふらしたい。けれど、そんな野暮なことが出来るわけもなく、当たり障りなく返すのが精一杯だった。
それから一日が経ち、二日、三日目を迎えた頃には、“待て”が限界の犬のようにそわそわと落ち着きが無くなっていた。なんなら、今にも主の元へ駆け出してしまうのではないかと思うくらい。
――どうしよう……主のところに行っちゃう?いや、でも催促してるみたいだし……。
あれこれと考え出すと、きりりとお腹が締め付けられる。考え過ぎなのかもしれないけれど、どうしたって頭を過っていくのだからどうしようもない。
「村雲、いる?」
「い……いるよ!」
あぁでもない、こうでもないとぐるぐる考えていれば、聞こえてきた主の声に跳ねる。返した声は、少し裏返ってしまって格好悪い。けれどまさか、考えていた相手が来るなんて思っていなかったから。
――大丈夫、大丈夫だ。
障子を開ける前に深呼吸。意を決して障子を開けば、そこにいたのは小さな入れ物を持った主だった。
「どうしたの?」
「前に言ってた物が出来たから、渡しに来たんだ。入っても良い?」
「あ、うん。どうぞ」
先程の失態が尾を引いているのか、まだ心臓がばくばくと動いている。深呼吸したはずなのに、と思っても主はもう目の前にいて、なんならもう部屋の中にいる。深呼吸する暇なんてあるわけもない。
「あれ?五月雨は?」
「あ、雨さんなら季語探しに出掛けてて……」
「そうなんだ」
そんな話をしながらぴしゃりと障子を閉めれば、改めて部屋に二人きりなのだと実感してしまう。微かに香る主の匂いと俺に向ける柔らかな笑顔。
――あぁ、心臓の音がうるさい。
自分の心臓に悪態をついても無駄だとわかっていても、つい責めてしまう。どうにか無視して主の隣に座れば、小さな入れ物を渡してきた。おそるおそる受け取れば、陶器の蓋が付いた入れ物。
「これ……」
「開けてみて」
そっと蓋を取れば、ふわりと香ったのはあの日主の隣で香ったもの。確かこれは――。
「茉莉花?」
「そうだよ。ジャスミン……茉莉花の練り香水なんだけどね。きっと村雲に良いと思って」
そう言いながら主は、入れ物の中の練り香水を少し指に取った。どうするのかと見ていれば、主に手を差し出される。
「手を貸してくれる?」
「うん……」
おずおずと手を差し出せば、少し袖を捲くられて手首に主の指先が触れる。指に取った練り香水を、くるくると円を描くように俺の手首の上を何度も行き来していく。優しく、時々くすぐったさを感じるそれに、無視しようと思っていた心臓が更に激しく主張してくる。
「茉莉花ってね、ストレスを抱えてる心を解きほぐしてくれたり、バランスを取ってくれるんだって。前向きな気持ちにさせてくれるって聞いて、これは村雲に作りたいなって思ったんだ」
ふと離れてしまった主の体温が、何処か名残惜しくて堪らない。俺と主の体温で溶けていった練り香水が残したのは、茉莉花の香りだけだった。
「くぅん」
「ん?どうかした?」
「……良い匂い、なんだけど」
香りだけではなく、俺が欲しいのはもっと別のものだと思うのに、出かかった言葉が出てこない。
――俺が欲しいのは、何だろう……?
そう考えた時に浮かんだのは、先程の練り香水を塗ってくれた主の姿。そして、微笑んでくれた主の姿だ。
「俺、主が欲しいんだ……」
「え?」
ずっと主張していた心臓が、緊張ではなく恋煩いだったのなら今の状況にも説明がつく。微笑んでくれた主を、愛らしいと俺は思っていたんだ。
「ねぇ、主。もっと……もっと、触れたいんだ」
「待って、村雲……ひゃっ!」
次は俺が練り香水を手に取って、主の首筋を撫でるように塗る。主もくすぐったいのだろうか。身体を捩り、逃げようとするけれど、抱え込んでしまえば逃げ場など無い。俺の手から少しずつ溶けていく練り香水は、俺と同じ匂いを主に付けていった。
「主。俺たち、お揃いだね」
同じ香りがすることに、何とも言えない多幸感。そして、俺たちだけの香りで主を独占しているという優越感。
「好きだよ、主。大好き」
抱き締めれば、柔い身体に香る茉莉花。主からの返答は無くても、伝えられたことに満足して瞳を閉じた。
ジャスミン(茉莉花)
愛らしさ
官能的