熱を孕んだ雨に気付かずに 宵が過ぎた頃に向かうは自分の部屋。お風呂も上がり、あとは寝るだけだ。廊下を歩きながら今日の出来事を思い浮かべる。終わった事柄、そして次にしなければならないこと、まだ取り掛かれないもの。そんなことを考えていき、その次に頭に浮かんだのは明日のことだ。
「明日は何をしようかなぁ……」
政府からの期限が近い書類は、今日全て方が付いた。
「あとは細々したものだけだろう?こちらで対処出来るから、主はゆっくり休んでくれ」
執務終わりにそう言ってくれたのは、うちの頼れる初期刀だ。お言葉に甘えて明日は休むことにしたものの、休みの日に何をするかはまだ決めていない。部屋で本を読みながらのんびり過ごしても良いし、万屋や政府近くにあるカフェに行ったりするのもありだ。会議以外で出掛けることも最近は無かったから、たまにはそんな外出も良いだろう。よく近侍を務めてくれている松井くんを連れて、いつものお礼をするのも良いかもしれない。
「頭」
「雨さん!」
後ろからかけられた声に、あれこれと思考を巡らせていたこともあって、後ろに彼が近付いていたことに気付けず、驚きながら振り返る。驚いたのは私が考えに耽っていただけでなく、彼自身の気配がないということも要因の一つではあるけれど。
「雨さん、どうしたの?何か――」
目の前にいた彼の顔は、俯いていて見えない。
――もしかして、何かあったんじゃ……。
そう思いながら伸ばした私の手は、深みのある紫に彩られた手に捕らわれる。微かに震えた彼の手は、私の手を確かめるように指先が這っては柔くなぞり、強く握ったと思えばきつく指が絡み付く。
「あ、雨さん……?」
「頭は、どうして……」
彼が呟いた言葉は、音としてはなんとも弱々しいものだった。普段の彼は、無表情なことはあれど、季語に目を輝かせては穏やかにこちらを見つめていた。そして、低く落ち着いた声で『頭』と呼んでくれるのだ。
だから、目の前にいる彼の姿は、普段からは想像がつかないもので、そんな様子に私自身も動揺してしまう。恋人のように絡む彼の指の力も先程よりは力が抜けて、ただ手に添えられているようなのに、逃げることが出来ない。
「隣に置くのはいつも松井。犬では……私では、駄目なのでしょうか?」
「そんなことないよ!雨さんだって大事で――」
「ならば何故、私をあなたの横に置いてくださらないのですか?もっと、私を見てほしいんです。頭」
頬に添えられた手が、慈しむように優しく滑る。懇願するような菫色の瞳は、私を捕らえてしまって離さない。彼の目から視線が逸らせないまま、まるで石になってしまったかのようだった。
――どうして、こんな風に思わせちゃったんだろう。
不安にさせているつもりなんて無かった。むしろ、雲さんとなるべく一緒に過ごせるようにしたり、彼が季語を探しに行く時間を作ったりと、彼を気にかけられていると思っていた。けれど、彼の抱える内は違った。私と共に過ごしたいと思ってくれていたのだ。
彼の顔がゆっくり近付いたと思えば、軽いリップ音が聞こえた。それから何度も、何度も重ねられた唇は、彼からの想いが伝わってくる。柔らかさと温かさ、そして少しのしょっぱさが混ざったそれは、私の心を溶かして後悔を露にするようだった。
「ごめんね、雨さん……」
キスの合間、息が上がる中で口に出した言葉は、思ったよりもか細いものだった。彼に聞こえたかはわからない。その後に小さく『わん』と鳴いたのは、聞こえた故の返事だったのか、感情の昂りからだったのか。
まだ止む様子ない彼からの雨に溺れるかのように、そっと目を閉じた。