ところで司馬懿、原稿の進みはどうだ今は十二月の終わり、世間ではもうじき大晦日とかいうやつである。けれどこの家に時間間隔や年越しを祝うような風習があるかと言われればなくて、あるのは日曜午後のサザエさんと司馬懿の締切だけだ。締切とは一体何のことだろうか? 言わずもがな、世間では天才イケメン小説家だのなんだの言われている家主? 飼い主? の原稿締切だ。顔が悪いとまでは口が割けても言えないが、
「……」
時折執筆部屋からふらふらと這い出て来てはカフェインのおかわりを手に部屋へ帰っていく死んだ目の男を見れば、百年の恋も醒めてしまうだろう。こいつのファンを名乗る女性たちにこの姿を見せてやりたいものだ、と暗潮はわざとらしい溜息を吐いた。
「なんだ」
「べつに。司馬懿、原稿は終わったのか?」
「終わったと見えるほどお前の頭はめでたいのか?」
「だろうな。終わらないと信じていた」
「……幾分かましな言い方が出来ないのかお前は」
普段は下ろしている長い髪をその辺にあった髪紐で邪魔だと結い上げた司馬懿の目は、元来赤いが、いつにも増して迫力がある。目の下の隈と、画面と原稿用紙を往復し続けた眼精疲労で充血した瞳のせいだろう。早いうちに進めないからこうなるんだ、と鼻で笑ってやりたい気持ちはあるが、結局暗潮は小説など書いた事が無いから口出しできることではない。
用がないならもう行くぞ、と司馬懿が大股で執筆部屋へと入っていく。ティーポットをドンッと叩きつける音の後で、いくつかの資料を机の上からなぎ落とす嫌な音がした。暗潮はそろっとソファーから起き上がると、静かに執筆部屋の扉を開ける。
デスクライトだけが明るく灯された薄暗い部屋の中で、司馬懿はちゃんと机と向かい合っていた。ほっと安堵に胸を撫でおろし、何事も無かったようにソファーへ戻る。
以前凄い音がしたかと思えば、それが資料を雑に扱う音ではなく、司馬懿が眠気に負けて床に倒れ込む音だった事があってから、偶にちらりと様子を窺いに行くことが出来た。まったく、一回り大きい司馬懿を介抱するのがどれだけ大変だった事か。
作り置きのご飯をひとり食べながらテレビをつけると、年越しまであとどれくらいだという表示が出ている。
「司馬懿は年を越せるのか?」
もぐもぐ、もぐもぐ。口の中にあったものを全て咀嚼し終えても答えは出ない。元々締切以外の理由で日付など気にしない男だから、世間が年越しを祝う中一人だけ締切目前になった事に苛立っている方が正しい気がする。
「まあ、俺にできるのは司馬懿が寝落ちていないか確かめることだけだ。一眠りしたら司馬懿の部屋に行くぞ」
お皿を水に浮かべるだけ浮かべて、暗潮はソファーの上でごろりと丸まった。
「ご飯を食べてすぐ横になると太るぞ」
「ご飯を食べたら眠たくなるのは自然な事だ」
「ふん。最近は贅肉がついてきたのではないか?」
「痛い! 肉をつねるな!」
そんな会話を思い出してムッとしながら姿勢を正し、こくこくと眠気に抗いながら時計の針の動きを追いかける。何度か瞬きを繰り返しているうちに針が急に進んだり、逆にあまり進んでいなかったり。いつの間にかテレビも深夜帯で静かな砂嵐が流れている。眠い目を擦りながら執筆部屋に赴けば、案の定司馬懿は椅子にもたれて意識を飛ばしかけていた。
「よし、司馬懿。俺は今からお前を起こす」
ジャ~~~~~ン!!!!!!!
司馬懿を起こすためだけに暗潮が用意したシンバルは、おもちゃとはいえ音量は保証されている。ガバッと身体を起こした司馬懿は音の出処が暗潮の持つシンバルだと気付いた瞬間、鬼のような形相でそれを部屋の隅のゴミ箱に突っ込んでしまった。否、実際はゴミ箱よりもシンバルの円周が大きいため入りきらずに地面を転がっているのだが。
「司馬懿、起きろ。原稿の時間だ」
「起こし方をどうにか出来ないのかお前は」
「なんだ、寝落ちるような事があれば起こしてくれと言ったのはお前だぞ」
「感謝する、少なくとも世界で一番最悪な目覚めには違いないな」
ぎゅううううと両頬を反対向きに引っ張られて痛い痛い、と泣き言を上げると司馬懿はようやく満足したのか突然手を離した。抓まれていたせいでじくりと痛み頬を摩っているとそのまま部屋から追い出されて、次はもっとまともな方法で起こせという台詞のあと扉が硬く閉まる。
「なんだ、人の好意を雑にするとは」
次は絶対に起こしになんか行ってやらないからな。そう思っていた暗潮は本当にその通り、丸一日ごろごろとソファーで過ごして司馬懿の様子を見に行かなかった。結果、翌朝睡眠を取った事で幾分かすっきりした顔の司馬懿が執筆部屋から出て来るなり「起こしに来るように言ったが」と笑顔で怒る事態になるのだが、理不尽にも程があるので暗潮は早急に記憶から抹消している。つまりどういう話かといえば。
「なるほど。これが二度あることは三度ある、というやつか」
「何の話だ」
「ことわざを覚えたかもしれない」
◇ ◇ ◇
年明け特番が始まってしまった。
けれど当然ながら、司馬懿の原稿は終わっていない。
「司馬懿、まだ原稿が終わっていないのか」
「……」
執筆部屋から出て来た司馬懿はこの二日で更に顔色が悪くなっていて、ついに最終手段のカフェイン剤に手を出す段階まで来たらしい。カフェインではなく水を注ぎに来るようになった時点でそれは分かっていたが、よくこれでまあ大きな病もなく生活できるなと暗潮は今更ながらに司馬懿の強い身体が羨ましくなった。
まあそれはともかく、と暗潮は視線を手元に戻す。昼食は作り置きのハンバーグプレート。端っこから食べ進めて、あとは一番上に置かれたハンバーグを平らげるだけだ。満足げにそれを切り分けながら突っ立ったまま動かない司馬懿に話しかけ続ける。
「流石に何か飯を食べないと死ぬぞ。部屋にあるカロリーなんちゃらとゼリーだけだと頭が回らなくなる」
「……一応聞くがそれは誰から聞いた」
「諸葛亮さんが「不摂生ですよ」と言っていた」
「ほ~う、成程な」
手に持っていたケトルをテーブルに置くなり、司馬懿はずかずかと暗潮の元まで近付いて来てプレートを持ち上げた。まさか此奴。暗潮が止めに入る前に、司馬懿は暗潮がわくわくしながら残していたハンバーグをぺろりと平らげてしまったのだ。それも暗潮の背が届かない所で手早く確実に。
「俺の!?」
「ふん、味付けが甘ったるいな。幼児向けか」
「文句を言うなら食うな!」
「部屋にあるものを食べると不摂生だと言ったのはお前と孔明ではないか」
「う、うう……俺のハンバーグが……」
学習しないやつめ、と空になった皿を雑にシンクへ浮かべながら司馬懿が笑う。暗潮がしょんぼりしながらハンバーグに思いを馳せていると、これ見よがしにため息が背後から聞こえて来て、振り返れば司馬懿が冷凍ハンバーグの袋を頭に載せて来た。
「司馬懿、お前は最高の人間だ。世界で一番お前が格好いい。原稿だってきっと終わる」
「……まだお前にやるとも言っていないのに、随分とおめでたい頭だな全く」
暗潮は電子レンジを使う事ができない。家電との相性が最悪で、テレビのボタンがもちもちしたリモコンならまだしも電子レンジは何度か壊してしまっている。司馬懿はお金持ちだから電子レンジが何台壊れようが金に困ったりはしないが、いちいち処分するのが面倒だから二度と触るなと言われているのだ。安心してほしい、暗潮も電子レンジが気に食わないから二度と触る気はない。
司馬懿がちらりと包装の裏面を確認してピ、ピと電子レンジを操作する。稼働し始めた電子レンジの前でそわそわとハンバーグを待っている暗潮の横をすり抜けて、司馬懿は人のいなくなったソファーに腰かけた。出来上がったら開けてやるから触るなよ、と念まで押して。
ピーーッ、と電子レンジが完成を知らせる。のそのそとソファーから起き上がった司馬懿は億劫そうに首を傾げながら暗潮を顎置き場にして、電子レンジの扉に手をかけた。
「……?」
一秒、五秒、十秒、……三十秒。
「司馬懿、」
まさか……と思った暗潮が身体を上手く捩らせると、やはり司馬懿は暗潮にもたれかかったまま寝てしまっているではないか。全くもって器用である。
「司馬懿!!!!!!!おーきーろ!!!!!!!おもい!!!!!!」
「ああ……」
「ああって司馬懿が言うのは大抵起きない時だ!!!おきろ!!!!あと俺を猫のように吸うな!!!!!!!!!!!」
司馬懿の生体:原稿が限界になると暗潮を猫のように吸うことがあります。抵抗しても無駄なので、大人しく吸われましょう。長くて十分で開放してくれますが、電子レンジの中身はきっと冷めているので諦めて温めなおしてもらいましょう。
そんな説明書きが脳裏を過って、暗潮は背がぞわりと震えるのを感じた。
温めなおしてもらったところで結局同じことを繰り返すだけなのでは、と気付いたからだ。
◇ ◇ ◇
「明けましておめでとうございます」
「諸葛亮さん! 原稿が終わったんだな!」
「ええ。隈はありますが、睡眠はとれているのでご安心を」
「安心できないな。司馬懿もそうだ」
玄関扉が開いてすぐ外の冷気がぶわりと入ってきて、暗潮はぷるぷると震えた。知らない人は追い返せと司馬懿に言われているが、諸葛亮は知らない人ではない。素直に通した事がバレたら後でねちねち言われるだろうが、ハンバーグの恨みは数日間有効だ。まだ根に持っているなんて子供だな、と馬鹿にされた事で更に恨みは深くなったが。
「……おや、当の本人が嫌味ったらしく追い返しに来ないという事は、まだ原稿が終わっていないのですね。ご愁傷様です」
「もっと言ってやってくれていいぞ。司馬懿は俺のハンバーグを食べた」
「それはそれは……では司馬懿殿の代わりに近場のお店でご馳走しましょうか?」
「いいのか?」
それは聞き捨てならないとでもいうように、バァン!と勢いよく執筆部屋の扉が開いた。今朝方もう少しで書き終わると言って、いつもの「もう少し(全然もう少しではない)」モードに入った比較的元気な司馬懿である。二人並ぶと相変わらず隈の酷さで良い勝負になるなと思いながら、暗潮は棚から出したばかりのマシュマロをもきゅもきゅ食べていた。
「暗潮は……原稿が終わってすぐ、私の憂さ晴らしに付き合ってもらう予定でな」
「待て司馬懿。俺はそれを了承した覚えがない」
「拒否権など与えていない」
「横暴ですね。私はただ、一食分の食事をご馳走するだけだと言っているのですが」
「ふん、昼までには書き終わる」
「今は既に昼ですが」
ちらりと壁掛け時計に視線をやれば、確かに時計は十一時。昼と言えばもう昼だ。司馬懿と諸葛亮が昼の定義が正午か昼下がりかで中身のない議論を始めると、暗潮はクリップでマシュマロの袋を閉じて自室に逃げ帰る。もこもこのコートに耳当て、マフラー。
「司馬懿。俺はもう支度をした。食べ物の恨みだ」
「後で痛い目を見ると言ってもか?」
「俺のハンバーグを食べたのは司馬懿だ」
「……一食だけだからな。いいか、行くなら行くでメニューの高いものを片っ端から食いまくってやれ」
「そんなに多く食べられない」
はあ、と馬鹿を見るような目で司馬懿が溜息を吐いた。それからまたよろよろと執筆部屋に戻っていくと、資料をなぎ倒す音が聞こえてくる。今のは必要な資料を取るためではなくて、ただの憂さ晴らしだろう。
「諸葛亮さん、下で待っていてくれ。鍵を閉めたらすぐに追いかける」
「ゆっくりどうぞ。ああ、そうでした。これはお年玉です」
「お年玉」
さっと両手を諸葛亮の前に差し出せば、暗潮の手がやけにお椀のように丸まっている事を疑問に思いつつも紅の封筒がそこに載せられる。困惑するのは暗潮の方だ。
「お年玉?」
「ええ、お年玉ですが……待ってください。まさかとは思いますが、司馬懿殿から貰うお年玉はこれくらいの大きさのボールを上から落とすだけ、なんてことは」
「諸葛亮さんは凄いな。その通りだ」
「……」
呆れて物も言えない、と苦笑している諸葛亮は後々の面倒を回避するべく、自分の家ではお年玉はお金を包んで渡す事を言うのだと嘘を吐くことにする。暗潮はそれを馬鹿真面目に受け取り、紅色の封筒を大事そうにしまい込んだ。自分の部屋などではなく、コートのボタン付きポケットに。
「外で司馬懿にカフェイン剤を買って帰る。カフェインが足りないとイライラしていたからな」
「私は毎度不思議に思うのですが、司馬懿殿はいつかカフェイン中毒で搬送されるのではないでしょうか」
「何故かされないんだ。怖いな」
「……私は今、絶対にカフェイン剤には手を出さないと固く誓いました」