あなただけにあなたの傍にいたいと、願った。
◇◇◇
貴方に嫁いだ日の事を、よく覚えている。
「後宮に入ったら、もうこのように臆病じゃだめだぞ」
柔らかな声で諭してくれた貴方の顔が見られなくて俯いたままのわたくしを責める事も呆れる事もなく、ただ優しく頭を撫でてくれた貴方の手のぬくもりを。
その瞬間はまるで時が止まってしまったかのようで、けれど、その永遠のような一瞬の静寂の中で──わたくしの心臓だけは、鼓動が貴方に聞こえてしまうのではないかというくらいに高鳴っていた。
今思えばわたくしは、あの瞬間に恋をしたのだと思う。
貴方を好きになることは──この世界のどんな事よりも当たり前に思えたのだ。
◇◇◇
「今度の戦いには自ら顔を出すのですか?」
「ああ、その必要がありそうだ」
「そうですか……」
ゆらゆらと部屋の灯りが揺れている。それは歩練師の中に生まれた、孫権が戦に自ら出向くことになってしまった事への不安が滲み出ているようにも思えて、歩練師は扇に顔を隠すようにして俯いてしまった。きっと今は、気の沈んだどうしようもない顔をしているという自覚があったから。
孫権の執務机の横で立ったまま俯いてしまった歩練師を暫し見つめていた孫権が、ふ、と仕方がないとでもいうように立ち上がった。そうして彼自ら立ち上がった事で視線の高さが逆転し、俯きがちだった歩練師が自然とまなざしを上を向けると──その瞬間、頬をつんっとつつかれてしまう。
「きゃっ!?」
「ははっ、俯いていては美しい顔が台無しだぞ練師」
緑色の瞳に映る自分の顔に不安の色は見えない。先程まではゆらゆらと頼りなさげに揺れていた蝋燭の灯も、孫権の緑色の瞳を通せば未来を示すように煌々とさす光になる。
貴方の傍で見る世界なら、いついかなる時も安堵できるのです。
けれど、それは。
「……出発は、」
「明日の夕刻だ。祝勝祈願の宴会が終わり次第発つ」
「では……無事に戻られるように、お守りでも作りますわ」
「ああ、楽しみにしている。練師にもらうお守りはきっと何よりも俺を守ってくれるだろうからな」
そのまま就寝の挨拶を口にしかけて、何か思うところのあったように歩練師は口を噤んだ。それから一思いに孫権の腕の中に飛び込んでみると、今の今まで「呉の王」の顔をしていた孫権が微かに動揺を見せる。その頬にやや紅が差して、抱きしめ返してくれる腕には子供のようにぎゅうっと力が込められた。心がひどく満たされていく。
王として皆の前に立ち、気丈に振る舞う姿も凛々しく立つ姿も好きなのだ。でもそれとは別で、こうして二人きりの時に見せる柔らかな顔も優しい声も好きだと心から思う。戦場では決して見せてはいけない甘さを自分の一挙一動で引き出せるのだと知ってからは、それが凄く特別な事に思えて幸せだった。
「……無事に、お戻りください」
けれど、けれど。
「ああ、約束しよう」
他でもない自分が貴方の弱さを作り出してしまっている事は、きっといけない事なのだと分かっている。
◇◇◇
たしかその凶報が飛び込んできたのは、歩練師が孫権に嫁いでから程ない頃だった、と思う。まだ一年が経っていないか、経ったばかりか、その辺り。孫権の兄である孫策が亡くなったという報せは瞬く間に江東を駆け抜けた。
小覇王、とまで呼ばれた男だった。
歩練師と孫策には直接的な関わりはあまりなかったが、喪に服す暇すらなく王にならなくてはならなかった孫権の姿は痛いくらいに心に焼き付いている。悲しみ立ち止まる時間すら与えられなかった背をただ見ている事は出来なくて、けれど自分が戦ごとで役立てるとは思えず、歩練師はただ孫権の傍で寄り添う事しか出来なかった。
あの時に歩練師は、どんなに強い人でも、たとえ孫策のような男であっても吞み込んでしまう程に戦場は恐ろしいのだという事を再確認したのである。
つまり端的に言うのであれば、
「……貴方を失うことが、わたくしは」
孫権にもいつかその日が来てしまうのではないかと、恐れてしまったのだ。
◇◇◇
「まあ……!」
肩にかかった雪を払いながら宮に顔を見せてくれたのは、他でもない孫権そのひとであった。一月、いや、二か月は経っただろうか。たった今も孫権からの便りに返事をしたためていたのだから、そんなときに現れた本人に驚いて筆を落としそうになる。
「それは……ああ、一昨日出した文か。返事をもらう前に帰って来てしまった」
「しまった、だなんて。無事に戻られて何よりです」
「ふ、出発前に酷く不安そうな練師の顔を見てしまったからな。帰りが遅くなっては泣いてしまうのではないかと思ったんだ」
しあわせと同時に、つきりと心が痛む。
「練師……練師!?」
自分でも気付かぬうちに零れた涙が、ぽとりと地面に落ちた。
どうした、泣かないでくれ、と困り慌てる孫権の声がする。けれど涙は止めようとすればするほど勢いを増すばかりで、頬を伝うあたたかい感触に歩練師ですらも戸惑ってしまうのだ。
──雪を払ったばかりの外衣は、雨雪の滲んだ冷たさでぐっしょりと濡れている。涙の止め方が分からなくて、けれど孫権は外界から守るように歩練師を抱き寄せてくれていた。きっと目元にさしている紅もいくらかは涙に流されて孫権の衣を染めてしまうだろう。
「(……ああ、)」
貴方の傍で見る世界なら、いついかなる時も安堵できるのです。
だけど、貴方が傍にいないとき、世界の何を信じれば良いのかすら分からない。
後宮ではこのように臆病なままではだめだと貴方から言われていたのに、わたくしは。
「……嬉しくて、泣いてしまいました。無事にお戻りになられた事が嬉しくて」
変わらないと駄目、と心の奥底で声がする。
情勢は目まぐるしく変化するばかりで、魏も蜀も国内の怪しい動きだって幾つあるか分かったものでは無い。そんなときに、そんな、これからに。
夫を支える妻が泣いてばかりでは様にならないでしょう。
それも貴方はただの夫ではない。
わたくしの夫だけではなくて──この東呉を治める唯一の王。
貴方はわたくしの夫でもあり、皆の王なのだから。
わたくしが貴方の弱さになってしまうのは、ええ、嫌なのです。
恋ではもう貴方の邪魔になってしまう。
夫を好きになるのはとても良いことなのだろうけれど、王に恋をしていては成り立たないもの。恋心を包み込むように力強く、それでいて穏やかで、もっとずっと強かなものを抱かなくてはならないのだろう。
「──愛して、おります」
ならばそれを、愛と呼ぶのでしょう。
幼い少女のように世界に怯えていた私は、貴方に恋する無垢な少女の瞳は、俯いてばかりいた頼りない姿とは、もうお別れしなくては。
貴方の弱さになりたくはないけれど、貴方へのあたたかな気持ちも押し殺してしまいたくはないのだから。強かに凛々しく、気高く立つのです。
いつだかに尚香様も仰っていた。
江東の地を支えているのは女たちなのだと。
「(今なら、わたくしにもそれが分かります)」
歩練師がわずかに肩を揺らして笑うと、泣き止むまで抱きしめているつもりだった孫権が様子を窺うように腕の力を緩めて顔を覗き込んできた。紅の崩れた顔を見られる事にはやや恥ずかしさがあったが、もう泣かないと決めたのだから、口にこそ出さないが見納め分だと隠さない事にする。その代わりに孫権の裾を軽く掴んで、歩練師はふわりと笑った。
やっと、貴方のためにできることを見つけましたよ。
「っ、」
きらきらと窓辺で太陽の光を浴びる横顔は、孫権の瞳に強く焼き付く。
その笑みは息をするのも忘れてしまう程に──美しかった。
◇◇◇
あなたの傍にいたいと、願った。
だから、
これからもあなたの傍にいるために、誓ったのです。