重なった唇をほんのすこし、たった数ミリ動かすだけなのに、心臓が爆発するんじゃないかと思うくらいドキドキして泣きそうだった。全く動けないまま何秒か経って、それは僕にとっては永遠に思えるくらい長い数秒で、耐えられなくなった僕は背伸びをしていた足を元に戻すことで唇を離した。目を合わせるのが怖くてすぐに俯いてしまう。掴んでいた腕から手を離して、それから、どうしよう。もうずっとどうするのが正解なのか分からなくて迷子のこどものようだ。
「……シュウ」
「っ、う、うん……」
「ごめんね」
「え。なにが……?」
「俺、ちょっと顔を洗ってくる」
「え? ルカ、あっ、待っ……」
顔を上げたところでもうルカは部屋を出て行ったあとだった。一人で部屋に残されて、僕は途方に暮れた。初めてのキスのあとに謝られて逃げられたんだ、途方に暮れる以外何ができる? さっきまでルカと触れていた自分の唇に無意識に触れて、ぽろっと涙が溢れた。
僕は、ルカとキスできて嬉しかったよ。ルカのことが好きなんだ、どんなことでもルカとならしてみたいって思ってた。ルカも僕のことを好きだと言ってくれて僕はその言葉を信じていたけれど、今はすこし自信がなかった。部屋着のパーカーの袖で目元を覆い、頬を濡らす前に水分を吸い取らせる。擦ったらダメなんだっけ、泣くのなんて久しぶりで熱があるみたいに目元が熱い。涙が溢れないよう上を向いていたせいか頭がクラクラして、僕はその場にしゃがみ込んだ。なんかもう、全部がダメみたいに思えてくる。ルカと付き合えたのも最初から僕の都合の良い夢だったのかな、そのほうが良かったかもしれない。
唇をギュッと噛んだところで扉の開く音がして、ルカの声が焦ったように僕の名前を呼んだ。
「シュウ?! どうしたの、具合悪い? 何かあった?」
「なんも、だいじょうぶ、ごめん」
「全然大丈夫じゃなさそうだよ! ……泣いてるの? なんで……あ、う……やっぱり、嫌だった……?」
「……? なにが……」
「俺、キス下手だっただろ……シュウ、せっかくの初めてのキスなのに、こんな下手くそが相手でごめん……」
「……ま、まって」
え? ルカの「ごめん」って、そういう意味? ルカの顔を見たくて、僕は袖で涙を乱暴に拭い取り顔を上げた。ルカは僕の前に同じようにしゃがみ込み、哀しそうな目を僕に向けている。目が合うとルカらしくない寂しそうな笑みを浮かべるから、咄嗟に手を伸ばして彼の頬に触れた。
「嫌じゃない、全然嫌じゃなかったよ」
「……本当に?」
「うん、僕のほうこそ、もっと上手にできたら良かったんだけど……」
「でも、シュウは初めてだったんだから」
「ルカはそんなに経験豊富なの?」
「……いや、そんなことない。ていうか実際、俺はどういうキスが上手なキスかも分からないんだけど、……でもさっきのは、たぶんあんまりうまいキスじゃなかったよな……?」
「わかんない。……わかんないよ、だって、ルカが初めてだもん。僕の知ってるキスはさっきのだけだよ」
「……もういっかい、してもいい?」
「いいけどその前に教えて、どうするのが正しいの? 上手なキスって具体的には?」
「え……そ、それは、なんか、……わ、わかんないけど……」
「じゃああとで一緒に調べて練習しよう。とりあえず今は、……下手くそなキスでもいいから、もういっかい。今度はごめんなんて言って一人でどっか行っちゃわないで」
なんでもない口調で言いたかったのに、堪えきれずに語尾が少し震えてしまった。ルカは目を丸くして僕を見つめ、それから僕の涙が移ったみたいに瞳を潤ませた。伸びてきたルカの指が優しく僕の涙を掬ってくれる。
「ん、逃げてごめん。もう逃げない。あー、シュウのほうが男前だ!」
「んへへ、泣いてるのに?」
「関係ないよ。ていうか、泣かせてる俺が最低ってだけかも」
「ううん、ルカは最高、いつもすごくかっこいいよ」
「……キスしたあとに逃げても?」
「さっきだけ、一瞬最低の男だった」
「だよな。じゃあ今度こそ最高の男になるよ。キスはまだ下手だけど、これから上手くなればいいよね」
「うん、二人で上手くなろうよ」
目を合わせてくすくす笑い、僕たちはもう一度唇を重ねた。濡れた唇は少ししょっぱくて、やっぱりほんのすこし動かすことがとてつもなく難しい。でも心臓のドキドキはさっきよりマシかもしれなかった。数秒で離して瞼を上げる。近い距離で絡んだ視線は二人して熱っぽい。
「……シュウ、もういっかい」
「……うん、いいよ」
三度目のキスはルカが顔を傾けたからさっきまでとは触れる角度が違くて、戸惑っているうちにルカが口を開けて僕の唇をぱくりと食べた。元から少しも動けなかったけれど、石になったみたいに体が固まる。ルカが数回唇を動かしてみせてからチュッと音を立てて唇を離した。まだ石のままの僕は目を開けることすらままならない。
「……シュウ?」
さっき、分からないって言ったくせに。僕には思いも寄らないキスをしてみせて、いつもと同じ声で僕の名前を呼ぶことができるなんて。
ゆっくり目を開けると視界がボヤけていてまた自分が泣きそうなんだということに気がついた。瞬きをしてそれを解消してから、どうしようみたいな顔で固まってるルカを睨みつける。
「もういっかい」
「……え?」
「僕だって、できるよ」
「え、なにが、……なんか怒ってる?」
「一人で先に上手にならないで」
「……上手だった?」
「わかんないけど、……けど、……ドキドキした」
「……俺も」
もういっかい?と首を傾げるルカに返事をせずに顔を近づけて、四回目のキスは僕からした。それが上手かどうかは、僕たちの心臓が教えてくれるだろう。