犬王の巻を語る最後の琵琶法師私は友有の死後も、魚座の宗有を名乗り続けた。
棟梁はもう居ない。処されとうないので口には出さないが、魚座であり続けたものは確かに多くいた。それだけ、皆、魚座を、愛していたのだ。
私は魚座に人生を変えられた者の一人だった。
盲の父と共に当道座に座していたが、そこが自分の居場所ではないことは、なにとはなく感じていた。琵琶を掻き鳴らすのは好きだ。
だが何かが足りない。
父らは物語をまるまる伝えるだけで、それをより良くしようとは思わなかったらしい。
物足りない、物足りない!
そんな時に奴らに出会ってしまったのだ。橋の上で、まだ幼い犬王が舞い、友一が琵琶を掻き鳴らすのを初めて見た時、あまりの興奮に手足が痺れたものだ。
見せる客などおらん、夜の深く、星の美しい日よ。
そこでふと思った。俺はこいつらを見届けたい、と。
私は当時若かった。友有、いや、その時は友一だったか。友一と犬王はもっと若かった。犬王は足以外を布にくるんどった。ぴょんぴょん飛び跳ねて、犬っころを引き連れて走り回っとった。犬の王というのもさながらの振る舞いだ。
友一は盲いているから犬王の醜悪さを知るまい。
私も琵琶法師だが、盲いてはいない。
犬王の姿は見るに耐えなかった。
だが犬王は美しかった。舞う時、この世の美しさを纏めたあげたように美しいのだ。
犬王もそれなりの青年となったある日、友一は犬王の物を語るのに、人を集めているようだった。
私は琵琶を鳴らせる。いつも遠くから奴らを見ているだけだったが、奴らが大きなことをしたいと言うならば、手を貸してやろう。
私は当道座を抜けた。賭けだった。奴らは私と違い、才能があった。琵琶でも舞でもなく、人を惹く才能だ。
せっかく乗ったのだから、津々浦々に犬王の物語を轟かせてやろう。
奴らは、それを冗談で終わらせない力が確かにあった。
友有は魚座の頭となったが、あまりにも頑固だった。
人を纏めるのはあまり上手くないらしい。
なんというか、人の心を叩き起すのが友有で、心をひとつにまとめあげるのが犬王と言った風だった。
友有は犬王を好きすぎたのだろうな。犬王に相応しい演出や表現が見つかるまで、何度も私らにやり直させた。
ここにもっと大きな鯨の影を移すのだ、ここはもっと光らせるのだ、と、無理難題を押し付けてくるのだ。
頑固者めと、魚座のみなみなが口にするが、誰も去ろうとはしなかった。友有の本気を見届けたかったからだ。
私たちは波に乗り、ついに将軍家の前に立つ日が来た。犬王の美しさは日に日に増し行き、この世のものとは思えぬ醜悪から、この世のものとは思えぬ究極の美へと姿を変えて行った。
私は犬王がひょうたんを被っていた頃、犬王の顔を見たことがある。口に出すのも穢らわしい、思い出すのも震え上がる、全くの醜悪だった。
それでもその醜悪を見届けたいと思ったのは、醜悪が作り出す舞が耽美を顕現したものだったからだ。
全て取り戻した時、あの醜悪な顔は一体どうなってしまうのだろう。
そして、全て取り戻した時、あまりの美しさに、きっと時代は動く。そう確信していたのだ。
私は賭けに負けた。時代は動いた。悪く。
友有は死んだ。犬王は裏切った。
全て取り戻したから、私たちは必要なくなったのだ。
犬王は全て捨てて、足利からの寵愛を受けた。
あいつは美しくなった。
だが、心が醜悪になってしまったのだ。
なんということだろう!全く、なんと酷い男だ!
私たちは犬王に利用されていただけだったのか!
犬王は住む場所が変わってしまった。
私たちと共にあった頃の犬王は帰ってこない。足利の寵愛と権力に縋る下衆に成り果てたのだ。
私は犬王を恨んだ。恨んで、恨んで、恨んだ。
友有が死んだのは犬王のせいだ。
そう思うようになっていた。
犬王を恨み続けて、早四十年、犬王は今まで一度も犬王の巻を語ることはなかった。友有を完全に無いものとして扱っているようにしか思えなかった。
ある時、嫌なことを知った。
犬王は天皇の御前で舞うらしい。
それを知って、さらに恨んだ。
四十年前のことは幻だったのかと思うほど、犬王は寵愛と権力を得ていた。
腕塚で、「身分だけが正しさ」と、歌ったことがあったか。私は四十年経った今でも犬王の巻を全て語れる。誰かに見せずとも、一人であの頃を思い出すように、ボソボソと琵琶を奏でたのだ。
犬王め!身分を得たいがためだけに、友有を死なせたのか!天皇に目を賭けられるほどに、身分を得たか!
ふつふつと怒りが沸き、私は使命感を得て、犬王を追った。
犬王が天皇の御前で舞ったのはもう5年も前だ。
やっと犬王を殺す機会を得た。
ここは、犬王と友魚が出会い、犬王と友一が歌い、犬王と友有を育んだ橋の上だった。
私が初めて二人を盗み見て、心臓を掻き鳴らしたのも、何の因果か、この橋の上だった。
「犬王や」
「お前は…」
「忘れたとは言わせぬ。美しさと引き換えに、心を悪鬼へと売った下衆め。」
「宗有…か?」
「斬り捨て御免」
私は刀を振り上げ、犬王の顔から、足にかけてを斬りつけた。
犬王はご自慢の声も上げず、ただただ静かに倒れた。まだ絶命してはいない。
友有がそうだったように、まずは右腕を斬り落としてやろう。そう思って、斬りやすいように右腕をさらし、手のひらを踏みつけた。
妙齢だと言うのに美しい犬王の顔に惑わされる。
醜悪だった幼い犬王が蘇る。
犬王と友有を見届けようと、手を挙げた己を思い出す。
皆で作り上げた舞台が、まぶたの裏に張り付く。
観客たちの叫び声が、鼓膜を揺さぶる。
私は涙を流していた。
「犬王……何故……」
右腕を斬り落とした。
落ちた右腕は橋の下の河原へと落ちた。
あの辺は、友有が処刑された場所だ。
私は、犬王の左腕を斬り落とした。
どくどくと、犬王の血が溢れて止まらない。
斬られてもなお、犬王は美しかった。
血でさえも、美しい。
その美しさが、憎い。
今度は首を跳ねてやろう。
刀を振り上げた時、犬王は笑った。
「友有」
そう言って笑ったのだ。
「友有、直ぐに、お前を、見つけてやる…から」
犬王は私を見ていなかった。
私はその美しい首を落とした。
私はその美しい肉片を、河に落とした。
私の涙は止まらなかった。
私は正しかったのだろうか。
何故犬王は笑ったのか。
何故友有を捨てたのか。
何故、何故、何故……。
考え出すと止まらなかった。
私は犬王の巻を語り継ぐ最後の琵琶法師。
私は水に溶けた血が広がる河へと、身を投げた。
あの二人がまた二人で歌う所が見たかった。
犬王が死んだ日、私は犬王の物語を途絶えさせた。