【ご搭乗の皆さま、当機は降下中で、間もなく着陸いたします──】
着陸準備に入るアナウンスが流れ、出久は凝り固まった身体を軽く伸ばしてからシートベルトを締め直す。いよいよだと高鳴る胸をそっと抑えて、窓の外に視線を向けた。
日本を出発してから十数時間。白い雲の隙間からキラキラと輝く真っ青な海と、日本とは違うレンガ造りの街並みがひどく懐かしく思えた。訪れるのは二度目になるオセオン国の景色だ。
出久は緊張と不安を織り交ぜたような面持ちで眺め、此処オセオン国に住む友人──ロディ・ソウルに思いを馳せる。
世界滅亡の危機を共に阻止し、空港で抱き合い別れを惜しんだ日から早十年。再会の時が刻一刻と迫っていた。幾度となく手紙やメールで連絡を取り合っていたものの、実際に会うのはあの日以来だ。
プロヒーローとして邁進中である出久は常に危険と隣り合わせであり、もう二度と会うことは叶わないかもしれないと思っていたロディとこうして再び生きて会えるのはとても喜ばしいことだ。しかし実の所、手放しで再会を喜べる心境ではなかった。
「どんな顔すればいいんだろ……」
頑張れ僕の表情筋。そう念じながらそばかすが浮かぶ頬をむにむにと揉む。
後悔先に立たずとはまさに現在の出久の状況そのもので、ため息混じりに吐き出された言葉は飛行機のエンジン音にかき消されてしまい誰の耳にも届くことはなかった。
ヒーローになるという夢を叶えた今、人々を救けることに生き甲斐を感じているし、有難いことにファンもいて、順風満帆──とは言い難いかもしれないが、それなりに楽しく充実した毎日を送っている。
目まぐるしい生活の中でふと、遠く離れて暮らすロディのことを思い出すことがある。あの逃避行は出久にとって一生忘れることのできない思い出になっていた。
ヒューマライズの事件以降、出久が差し出した手紙から始まった文通は不定期ではあるものの長く続いていた。そしてロディがようやく携帯を持ち始めたことで、手紙からメールへと変わったのはいつだっただろうか。
届くまでにそれなりの時間を要する手紙とは違って、すぐに返事が帰ってくることに感動したのは今でも覚えている。手紙を待つ時間も、郵便受けに手紙が入っている瞬間もわりと好きだったので、それが無くなるのは惜しかったけれど、電話が出来るのは最大の利点だった。
手紙では聞くことのできないロディの声が変わらず元気そうなだけで安心するし、出久を慕ってくれているロロやララと話すことだってできる。予定を擦り合わせて月に一度の電話が既に生活の一部として定着していた。
命懸けなのはもう二度と御免だと、ときどき笑いながら二人で過ごした時のことを話すロディもまた、同じように忘れずにいてくれることが嬉しかった。共に過ごしたのはたったの数日間だけだというのに、人当たりは良いけれど周囲の人間と深くは関わらないでおこうと一線引くロディの中に、自分の居場所があるんだと実感できた。
それがもはや友人の域を越えた「特別」な感情なのだと、いくら恋愛に疎いとて自覚するのにそう時間はかからなかった。
ひっそりと芽生えた感情に最初こそ戸惑い、勘違いだと否定すらしたけれど、日に日にその想いは募っていくばかりで。メールを受信する度にわくわくしたし、ロディが「デク」と呼んでくれるだけで自身のヒーロー名がとびきり特別に思えた。それはもう勘違いや気の所為では片付けられないほど大きく育ってしまっていた。
けれど、出久には今の関係から進展させる気はなかった。拒絶されたらどうしようという不安もあったし、純粋に友人のままで充分だった。自分の気持ちにそっと蓋をして、想いを告げることのないまま一生を終えようと密かに決意していた。それが、ずっと傍に居られる最善の方法だったのだ。
それが何故、本来ならば嬉しいはずの再会が憂鬱になっているのか。──事の発端は一か月前に遡る。
いつものようにメールで予め決めた日時に始まった通話は他愛のない話で盛り上がる。このひと時が、身を粉にしてヒーロー活動をする出久にとって心安らぐ瞬間だった。軽やかなテンポで繰り広げられるロディとの会話はとても話しやすく心地良い。
電話を始めてから一時間ほど経った頃だろうか。オセオンは夕方で、スクールから帰ってきたのであろうララの声が遠くの方で聞こえてきた。出久に一言断って、電話口を離れたらしいロディが、手を洗うようにと注意している声が微かに聞こえ、出久はくすりと笑みを零した。普段は知り得ない日常を垣間見れた気がして、何だか得した気分になる。
思春期真っ只中のララだが、反抗期はないのだとロディは鼻高々に語った。確かに、些細な喧嘩はあれどロディに反抗的な態度をとるララは想像できないなと出久は納得する。きっと兄であり父親の代わりでもあるロディの育て方が良いのだろう。
スクールでの出来事や友達のことを話すララも楽しそうで、昔に一度会っただけだというのに未だに懐いてくれているのが嬉しかった。
「ララちゃん何かいいことあった?」
『なんでわかるの!?』
「いつもより声が明るいから」
常日頃から明朗快活なララだが、この日は特別ご機嫌な様子だったので分かりやすかった。
『実は今日、告白されたんだぁ』
『ハ!?』
声を弾ませ、くふふと含み笑うララと、驚きと怒りを孕んだ声を上げるロディ。出久は以前、ロディがメールに添付してくれていたララの写真を思い出していた。昔と変わらず可愛らしいまま成長したララの人気があるのも頷ける。
告白したのは何処のどいつだと問い詰めるロディだが、ララはどこ吹く風で上手いこと躱していてさすがである。ロディの扱いに慣れてるなぁと苦笑する。
「返事はどうしたの?」
『考えさせてって言ったよ』
『なんでその場で断らないんだよ!』
『付き合うかちゃんと考えるの!適当に返事したら失礼じゃない。それにお兄ちゃんだってこの前告白されてたの知ってるんだからね』
「えっ」
出久が驚いたように短く発した言葉は、電話の向こう側でララとロディが騒ぐ声にかき消される。
もちろん出久は告白された事なんて知らない。ロディはそういう事をひけらかす性格でもないし、わざわざ出久に言う必要もないのだから、知らなくて当たり前だ。
特別な感情を抜きにしても出久から見たロディは格好いいと思う。周囲のことをよく見ていて気が利くし、話し上手で、家事は一通り出来るし、血の滲むような努力の末パイロットになるという夢を叶えたロディを女性たちは放っておかないだろう。
きっと優しくて可愛い人と付き合って、結婚してからは子供も授かって頼もしいパパになる。そんなありきたりだけど幸せな未来を容易に想像できてしまう。
『CAさんでしょ?それもすっごく美人の!』
『何で知って……』
『電話してるとこ盗み聞いちゃった』
恋愛話にきゃあきゃあと年相応の反応を示すララとは反対にずきずき、もやもやと出久の胸中は燻っていた。とっくの昔に塞いだはずの心から、良くない感情がどろりと一気に流れ込んでくる。その女性と付き合うのかな、嫌だな。ぐるぐると渦を巻くように負の感情が出久を支配する。駄目だと思った時にはもう遅い。
「……僕だって、好きなのにな」
いつのまにかそう口走ってしまっていた。
楽しそうな雰囲気から一変して静まり返る電話の向こう側。出久の背筋に冷たい汗が流れる。しまったと慌てて口を噤んだところでもう手遅れだ。独り言のように呟いた言葉はきっとロディとララの耳にも届いてしまっている。
『デク、今……』
「……っ!」
嫌われる。きっと気持ち悪いって思われた。言うつもりはなかったのに。ロディだけじゃない、ララだって、きっと引いている。
身体中が冷えていく感覚と頭が真っ白になって、咄嗟に電話を切った。恥ずかしさと情けなさが同時に襲ってきて泣きたくなる。今からでもかけ直して、冗談だと言おうか。好きだというのは友人としてだと言い直そうか。そう迷ったけれど敏いロディのことだ、いくら言い訳したところですぐに気付かれてしまうだろう。
今まで何のために友人でいようとしていたのか。自分の醜い嫉妬のせいで築き上げてきたものがたった一瞬で綻び、無に帰した。
「僕の馬鹿……」
真っ黒な携帯の画面を見つめながら消え入りそうな声で独りごちて、ずるずるとベッドの上に倒れ込んだ。ただ無力感だけが出久を襲う。
それから何度かロディから着信があったけれど出久が電話を取ることはなかった。
憂鬱な気持ちのまま悶々と過ごす出久の元に海外遠征の任務通達が入ったのは、ロディに衝撃の告白をしてから数日後のことだった。現地ヒーローとのチームアップ要請で、何の因果か場所はオセオン国だ。
困っている人がそこに居るのならば海外だろうと駆けつけるし、断るつもりも毛頭ないけれど、オセオンに行くことをロディに伝えるべきか迷った。
もう十年も会えておらず、出久としても会いたい気持ちはある。けれどあんなことを言ってしまった手前、一体どんな顔をして会いに行けばいいのかが分からなかった。
うっかり口を滑らせてしまったあの日から頻繁にしていたメールのやり取りですらも気まずく、ロディから届くメッセージの返信も躊躇してしまい無視している状態だ。
三日三晩悩んだ末、携帯を取り出してフリックで文字を打ち込んでいく。もちろん宛先はロディで、オセオンを訪れることになった旨を伝えた。そして、会えるのならば会いたいという一文も付け加える。変なところはないだろうかと何度も読み返し、深呼吸してから震える指先で送信ボタンを押した。メッセージを打ち始めてから、かれこれ一時間は経ってしまっていた。
時差はあれど返信は思いのほか早く返ってきて、『楽しみにしてる』と至ってシンプルだった。
たったそれだけなのに、メッセージと言えど久しぶりにロディと話せたことが嬉しくて胸がきゅうと苦しくなる。同時に、あの件については訊かれず少しほっとしていた。しかし実際に会うとなれば必ず言及されるだろう。
どんな顔をして会えばいいのか、振る舞えばいいのか。正解がわからないまま無情にも時間だけが過ぎていった。