「きみは31日まで高校生だから」~保険医×高校生~ それは、夏休みに入る直前の放課後だった。
閉め切った窓の向こう側には淡い影色の雲がたなびいていて、ほのかな暖色に染まった光が、夕暮れの気配をふくませていた。窓のこちら側の空間も暖かな色合いにきらめいていて、空調が低く唸る音がささやかに響いていた。小さく吸い込んだ空気は、微かに薬品の匂い。
数式を綴るシャープペンを止めたのは、ノートに柔らかな影が落ちたから。誘われるように眼差しを上げると、慈雨を降らす空みたいな、グレイの瞳が数式を見下ろしていた。少し背を屈めたフィガロは、ファウストが腰掛ける椅子の背もたれに片手を突くと、反対側の手をノートに伸ばした。
「このアプローチでも間違いではないけど、シャープペンを借りていい? ……この定理を応用すると、もっと効率的に証明できるよ」
さらさらと流れるように綴られた数式は、完璧で完全で美しい。ほう、と感嘆のため息を吐いたファウストは、さっそく数式を書き換える。ややあって完成させた証明をフィガロに確認してもらった。フィガロはにこりと目を細めると、「上出来だ」と囁いた。それはいつもと同じ放課後だった。フィガロに勉強を見てもらったお礼を言って、ノートや筆記用具を片付けて、挨拶をして。――そうして保健室を後にするのがいつもの放課後。
けれどあの日は、暖色の光を透かすブルーグレイの髪先のきらめきにはっとした。その途端、フィガロとの距離の近さが突然に意識されて、きっと頬が朱に染まった。夕やけのオレンジでも隠せないくらいに明らかに。ファウストは瞳を小さく揺らした。シャープペンを握る手に力を込めて、フィガロから眼差しを逸らそうとした。けれどそのとき、ふっ、と微かに笑う気配がしたかと思ったら、フィガロの指先が頬に触れた。少しつめたくて、しっとりとしていた。その感触に慄くファウストの頬に、フィガロのかたちの影が落ちる。は、とファウストは息を呑んだ。光を透かすブルーグレイが、ひときわ繊細にきらめく。
まどろみへ誘われるみたいに、夢へたゆたうみたいに、ファウストは目を瞑ろうとした。それを断ち切ったのは高らかなチャイム。空間のきらめきを切り裂いて、明瞭に響き渡る。
「ほら、下校の時間だ」
ぱっとファウストを手離したフィガロは、いかにも先生らしい声音で言う。数秒前との落差に置いてけぼりになったファウストは、返事をするのが遅れた。
「……は、はい」
呆気に取られた声でようやく返事をして、まごついた手つきで荷物を鞄に収めながら、ファウストは自分のデスクへ戻るフィガロを見やった。小さな靴音をさせながら白衣をひるがえすフィガロの表情は見えない。けれどブルーグレイの髪の下から覗く頬がほのかな朱に染まっていたのは、夕日の色を映していたからかもしれないけれど、そんなのは浅はかな願望かもしれないけれど、でも――あるいは、もしかしたなら。
何かが仄めいたのは、あの日のあの一瞬だけだった。あの日以降、フィガロは完璧な先生の態度でファウストに接した。眼差しの向け方も、距離の取り方も、相槌の打ち方も、名前の呼び方も、すべてが先生と生徒としてのそれだった。もどかしく思うこともあったけれど、ファウストはあの日のあの一瞬を今日まで鮮明に覚えていた。
小さく吸い込んだ空気は、微かに薬品の匂い。開け放した窓から吹き込む、春のきらめきを含んだ柔い風。それを頬で感じながら、ファウストはフィガロと向き合った。
「卒業おめでとう」
眼差しを和らげて、フィガロが微笑む。「ありがとうございます」と微笑みを返せば、風に灰茶色の癖毛がそよぐ。フィガロのブルーグレイの髪先も、風のきらめきをあえかに透かした。それを見つめるファウストの脳裏に、あの日のあの一瞬がよみがえる。制服をまとうみずからの、胸元には薄紅色の花の飾り。逸る心音を抑えるように、握り締めた右手を胸に当てたファウストは、切実な声音でフィガロに問うた。
「今ならキスしてくれますか」
フィガロは虚を突かれた表情で目を見ひらいた。やがてひとつまばたきをしたフィガロは、先生らしい声音で言う。
「きみは31日まで高校生だから」
その返答はもっともだった。卒業式が終わっても、31日までファウストは、この高校に籍がある。そもそも、自由登校期間中に受けた二次試験の結果もまだ出ていない。卒業した、と浮かれるには早すぎる。
――そうですよね、とファウストは口元を微苦笑で取り繕って、先程の問いを撤回しようとした。けれどそれより一瞬早く、ぐい、と腕を引かれたから吃驚する。少しつめたくて、しっとりとした指先が顎を掴む。そのまま上を向かされて、視界がフィガロの影に染まったと思ったら。
掠めるみたいに、柔く、儚く。
「……だから、今のは内緒だよ」
笑みの気配とともに耳元に落ちた囁きは、よく知っているのに知らない声をしていた。