「へえ、食べてみたいな」とフィガロが言った。先日シャイロックのバーで提供された、薔薇の花びらを模したチョコレートの話をしたら。可憐で儚い薄紅色のチョコレートは、とろける甘さに微かなリキュールの風味を忍ばせた、覚えたての恋のよろこびみたいな味だった。
ファウストを煽動したのは、思い返したチョコレートの味? それとも、右手に持つグラスの底で揺らめくワイン?
ちろり、ちろり、とデスクの上のキャンドルの灯が揺れる。
眼差しの先、欲望の言葉を落っことしたくちびるをそっと見つめながら、眠たげにひとつまばたきをして。
「なら、僕のことは?」
寝間着のストールをしどけなく肩から滑らせているファウストは、上目遣いで微かに笑んだ。
途端、フィガロがぎょっとした顔をする。その反応に機嫌をよくして、ファウストはフィガロに顔を寄せる。隣に椅子を並べて座る恋人に、甘く囁くようにして。
「僕のことは、食べてみたいと思わないの?」
誘惑の言葉に連なる吐息は、いたずらっぽい笑みの気配。それでも、フィガロを見つめる眼差しはひたむきだった。恋の言葉を、恋の行為を、恋そのものを。恋のすべてを、ファウストはフィガロに教えられた。そのうちの例示的なひとつがキスで、くちびるの柔さを触れ合わせて、唾液で濡れた舌を絡め合わせると、とても気持ちがいいことを知った。けれど、その快さとは裏腹に、キスをすると言いようのない切なさが心に込み上げてくる。
その切なさを満たす行為があることを、ファウストは知識としては知っている。その行為に興味もある。けれど、フィガロはまだファウストにそれを教えてくれない。
だから、無邪気にフィガロを誘惑しながら、ファウストはひたむきに願っていた。今夜こそ、キスのその先の教示があることを。
けれど、フィガロは呆気なくファウストから視線を外して、
「さて。俺もきみも、酔いが回ってきたことだし」
苦笑の気配とともにそう言うと、少しワインの残ったグラスを呷る。
「俺はそろそろ部屋に戻るよ」
そうして、ファウストと目線を合わせずにグラスを魔法で洗浄して立ち上がる。
置き去りにされかけたファウストは、グラスを置いて立ち上がった。扉に靴先を向けたフィガロのガウンの袖を掴んで引き留めて、こちらを振り向かせてグレイの瞳を見つめた。何かを言おうとした。何かを言いたいと思った。けれど心にせり上がってきたやるせなさや悔しさや羞恥に呑み込まれて、上手く言葉がまとまらない。上手く言葉が出てこない。――でも。でも。でも。
ぎゅっと眉根を寄せたファウストはフィガロの襟元を掴んで引き寄せると、ぶつけるようにキスをした。わずかにたじろぐ様子を見せたフィガロのくちびるをちろと舐め、隙間から舌を捻じ込んだ。フィガロに教えられた手順を踏んでだんだんキスを深めてゆく。舌をそっと擦り合わせて、柔さと柔さを絡ませる。時折わざと音を立てながら、少しずつ快楽に導いてゆく。
そうして、は、とフィガロが微熱を孕んだ吐息をこぼしたとき、ファウストはキスのその先を期待した。ひとりよがりに始めた勝負の、勝利の気配を読み取った。けれど、
「……っ、」
その刹那に項に手を回されて、ぐっと顔を上向けられて、キスの主導権を奪われた。吐息ごと舌を絡めとられ、口内を余すところなく蹂躙される。激しいのに優しくて、苦しいのに気持ちよかった。ぎゅ、とフィガロの寝間着の胸元を掴む。困難になった呼吸の合間に懸命に息を吐けば、鼻からぐずるような声が漏れた。それは一切の容赦のないキスで、今まではまだ手加減されていたのだと、ファウストは痛切に思い知る。
――ガクン、と膝を折ったファウストは、息ひとつ乱していないフィガロの腕に受け止められる。そうかと思えば次の瞬間、軽く指を鳴らす音が聞こえて、ファウストの身体はベッドの上に移動していた。
一歩、ベッドに近づいたフィガロは、呆然と仰向けに横たわるファウストの髪をそっと撫でる。
「酔ってるきみに手は出せないよ」
少し呆れたような、困り切ったような声でそう言って、
「おやすみ」
フィガロは扉へと靴先を向ける。
「……待っ、」
ファウストは引き留めようと身体を起こした。けれど脱力しきった身体が上手く動かなくて、無様に戸惑っているあいだに、フィガロは部屋を後にした。
ぱたん、と扉が静かに閉まる音が切なげに響いた。
ふたたびフィガロの弟子になった。互いの恋を伝え合う少し前、星がきらめく静かな夜に。フィガロの認識ではもっと以前――メシエ宮殿での会話で師弟関係を回復させたつもりでいたようだけれど、ファウストと認識を擦り合わせるのに時間を要した。あらゆる方面への配慮から、魔法舎の面々に「フィガロの弟子」と名乗ることはない。それでも、フィガロとの関係性に明確な名前がついたことは、ファウストの運命に絡む呪いをひとつ解いた。
置いていかれたと思っていた。
自分の不始末のせいで見限られたと思っていた。
フィガロと数多の言葉を交わして、慎重に手渡すように心の内を伝えた夜から、それまで何度もうなされてきた、フィガロに置いていかれる夢を見ることはなくなった。
悪夢も願望夢も過去の夢も、夢そのものを見ることが少なくなって、深く眠れる夜が増えてきた。
フィガロと恋人同士になったのはその矢先。けっして幸せになるつもりはなかったのに、幸せになる後ろめたさごと、フィガロが恋を受け止めてくれた。恋が繋がったその瞬間のよろこびは、丁寧にかたちづくった花束みたいな親しさをもってファウストを包み、束の間ファウストの心を無敵にした。
ともすれば愚かしい、けれどどうしようもなく愛おしい無敵感を抱えて、その夜は眠りについた。夢は見なかった。そんな安穏な夜がしばらく続き、心身ともに快調の日々を過ごしていたところで、その夢を見た。
晩酌をして、おやすみのキスをして別れたほろ酔いの夜だった。
は、と気づけば自室に戻ったはずのフィガロが目の前にいて、ファウストは目を瞬いて首を傾げた。微かな笑みを携えたフィガロは、ベッドで上体を起こすファウストの太腿をまたいで、こちらに手を伸ばしている。ファウストが小さく息を呑むと、フィガロの長い指先がファウストの顎先に触れた。ささやかな力で否応なく上を向かされて、そのままフィガロの顔が近づいてくる。視界がフィガロの影に染まる。くちびるが柔く触れ合って、そうして、――覚えたての深いキス。
ん、とファウストはあえかな声をこぼして、首をすくめるようにして身じろいだ。けれどキスは終わらなくて、息遣いがだんだん切羽詰まってくる。
「……ン、んう、……ッ」
キスの合間に挟む呼吸にぐずるような声が混じって、頬を熱で染めながらフィガロに必死に応えていると、いつのまにか。
「え……っ、」
寝間着の一切が取り去られていて、一糸まとわぬ姿をフィガロの眼差しのもとに晒していた。
ちろり、ちろり、キャンドルの灯りが舐める肌を、フィガロの指先がそっとなぞる。
「――ね。俺と、もっといいことしない?」
色めいた笑みを浮かべたフィガロが、ファウストの鼓膜を愛撫するように囁く。
また、夢を見た。
起きた瞬間の気分は最悪で、ファウストは険しい顔でしばし沈黙した。下腹部に滞留した熱の兆しを忌々しげに見やって、それを隠蔽するように頭まで布団を引き被った。
布団の中で身体を丸めて、熱が引くのをじっと待つ。四百年も生きているのだ、手っ取り早い処理の方法は当然知っている。けれど不届きな夢を契機とした熱をそれで宥めるのには、どうにも抵抗があって駄目だ。はあ、と眉間にしわを寄せてため息を吐いて、ただ、ただ、じっと待つ。
そんな起き抜けだったものだから、昨夜の顛末と掛け合わさって、こういう態度になった。
「ファウスト」
無視。
「ファウスト」
無視。
「ファウスト」
ふい、とそっぽを向く。
朝食後、そそくさと食堂を後にしたファウストを遠慮がちに追ってきたフィガロは、階段の前まで来たところで気落ちしたように息を吐いた。その気配を、背中側で感じた。そこでさすがに気が咎めて、足を緩めたところで手首を掴まれた。
「ファウスト」
手首を掴まれたまま一歩前に回られて、今日初めてまともに目が合った。途端に羞恥やら後ろめたさやらで頭が沸騰して、ファウストは逃げるように視線を外す。
「……何」
と、魔法舎で再会したばかりの頃のように、不敬極まりない態度で言った。するとフィガロは弱腰な微苦笑を浮かべる。
「怒ってるよね」
それに答えず口を曲げると、
「怒らせたなあって自覚はあるよ」
と、フィガロが気まずそうに続けた。
自分の感情を怒りだと言い表されると、それは何だか違う気がした。だから、怒っているわけじゃないと返そうとしたのに、それがここでの最適解だとわかっていたのに、
「なら、話しかけてくるな」
口先が喧嘩腰の言葉を吐き捨てる。自分に唖然としているうちに、フィガロが小さく、「ごめんね」と言う。
ファウストは顔を顰めると、フィガロの手を振り払う。
「……授業の準備があるので」
言葉尻をかろうじて丁寧にしたところで、何の弁解にもならないことはわかっていたけれど。
この場でさらに言葉を重ねても、事態を好転させられるとは思わなかった。
ファウストはフィガロに背を向けて、早足にその場を立ち去った。
(続く)