ちり、とした違和感を肘の内側に感じた。
そっと目を向ければ、案の定そこには小さな蕾が芽吹いている。
(あー、やっぱり)
隣りに座る藍忘機が眠っているのを確認して魏無羨は頭を抱えた。
「よりにもよって今かよ……」
魏無羨は花生みだった。時を選ばず自身から咲く花をいつもは別段気にはしていなかったが、今は非常時だ。藍忘機と二人玄武洞に取り残され、抜け出すには屠戮玄武を倒すしかないというこの時に、咲き始めてしまった花を魏無羨は恨めしそうにつついた。
花を生むためにはかなりの体力を消費する。食事も取れないこの状況では自殺行為といえよう。まして決戦の前に無駄な体力は使えない。
「毟るしかないかぁ……」
取り除いてしまえば体力の消耗は回避できる。けれど、咲ききる前の花を摘むのは生皮を剥がすようなもので、とてつもなく痛いのだ。
放っておけば満開になった花は自然と落ちるため、蕾をつけた魏無羨は花が咲き終わるまでだらだらと過ごすのが常だった。
(師姉の汁物が食べたいな……)
江厭離が体力回復のためにいつもたっぷりと用意してくれた蓮根と骨付き肉の汁物の味を思い出してグゥと腹が鳴る。
魏無羨は諦めるように大きく息を吐き出してまだ固い蕾に改めて目を向けた。
(そういえば、蓮以外の花が咲くのは久しぶりだ)
蓮に囲まれた蓮花塢の環境のせいか、ここ数年魏無羨が咲かせる花は蓮ばかりだった。
しかし今日生まれた蕾は木蓮だろうか。透き通るような白さの小さなそれは何かを彷彿とさせる。
木蓮といえば雲深不知処の蔵書閣にも立派な樹があったと思い出しかけて、魏無羨は気づいた。蕾がついた箇所はこの前藍忘機に噛みつかれたところだと。
何故だか無性に可笑しくなった。
(まるで藍湛を思って咲かせたみたいじゃないか)
江澄に話したらいったいどんな顔をするだろう。声を潜めてひとしきり笑うと、魏無羨は覚悟を決めて蕾を掴んだ。
「よし」
痛むのは少しの間だけだ。朝には何事もなかったように振る舞えるだろう。
痛みに耐えるためにぎゅっと目を瞑り、生えたばかりの蕾を力任せに引き抜こうとしたその瞬間。
「魏嬰」
蕾ごと手を押さえ込まれた。
驚いて目を開ければ、いつの間に起きたのか藍忘機が険しい表情で自分を見つめている。
「君は……花生みなのか?」
「……卯の刻にはまだ早いぞ、藍湛」
魏無羨がもごもごと関係のない答えを口にしている間に、藍忘機は彼の腕を持ち上げて肘の内側を確認する。
「花生みなんだな」
実際に花を生やしているところを見られたのでは誤魔化しようがない。仕方なく魏無羨は頷いた。
「そうだよ」
「私は、花食みだ」
蕾を見つめたまま藍忘機が告げた言葉に耳を疑った。
「そう、なのか」
それっきり黙り込んでしまった藍忘機につられて魏無羨も口を噤む。藍忘機は微動だにせずただ蕾を凝視している。やがて静寂に耐えられなくなった魏無羨が揶揄うように苦笑した。
「ずっと見てるけど、藍兄ちゃん、もしかして食べたいのか?まぁ、あんたにならあげても……」
言葉の途中で腕を掴む手に物凄い力が込められ、思わず魏無羨は悲鳴を上げる。
「痛い、痛いって!悪かった。冗談だよ、じょうだ……」
「もらう」
「へっ……?」
予想外の一言に魏無羨は動きを止める。一瞬聞き間違いかと思ったが、長い指がそっと蕾に触れるのを目の当たりにして本気なのだと知らされる。
(まあいいか。人に取ってもらった方が覚悟しなくていいからな)
必要なこととはいえ、自分で自分の皮膚を剥がすようなまねはできれば御免被りたい。代わってくれるというのなら甘えてしまおうと、魏無羨は腕を差し出した。
「遠慮はいらないから、一気に毟ってくれ」
ひっそりと奥歯を噛み締めて痛みに備えるものの、助言とは真逆に藍忘機はまるで大切な宝物を掘り起こすかのように蕾の根本を優しく引っ掻く。
それだけのことで小さな白い蕾はほろりと落ちてしまった。馴染みの激痛に襲われることもなく、ただむず痒いような痺れがさざ波の如く広がっていく。
「うそ……」
初めての出来事に魏無羨は目を瞬かせた。腕にはなんの痕跡も残っていない。まるで咲き終わった花が自然と落ちたかのようだ。
相手が花食みだからだろうか。
そっと藍忘機の様子を窺うと、彼は手に入れた蕾をじっくり眺めている。それから形の良い唇を小さく開いて、それを口に含んだ。
(ほんとに食べた……!)
自分の一部であったものが、ゆっくりと咀嚼されている。なんだか自分自身が食べられているようで気恥ずかしい。
藍忘機は丁寧にとても丁寧に蕾を味わい、最後に名残惜しそうにこくりと飲み込んだ。
「……美味かったか?」
「とても美味」
真っ直ぐな言葉に胸の内が熱くなる。もっと食べてほしいと思ってしまうのは花生みの本能だろうか。
「ごめんな、藍湛。たくさん咲かせられればいいんだけど、自分じゃ制御できないんだ」
藍忘機が花食みなら自分の花は栄養になるはずだ。たくさん食べれば傷も癒えるだろうに、思うようにならない体質が恨めしい。
不意に手首を強く掴まれた。
「藍湛?」
そのまま彼の口もとまで引き寄せられた指先にちろりと赤い舌が這う。
「藍湛?!」
驚いて腕を引こうとしたが、藍忘機の力は強く万力で固定されてしまったかのように動かない。
指先から付け根まで丹念に舐めた藍忘機が何箇所かに歯を立てる。噛まれた所からちりちりとした熱が広がり小さな蕾が生え始めた。ふっくらと膨らみ次々と綻んでいく。あっという間に魏無羨の指は満開の白木蓮の花で埋め尽くされた。
「……!!」
思わぬ光景に魏無羨は息を飲む。
これだけの花を咲かせているのに全く疲労を感じない。むしろ指先の熱が全身に伝わり高揚感すら覚えた。
指先を口もとに当てたまま藍忘機が請うように見つめてくる。その様子がとても可愛らしく見えて魏無羨は何故か嬉しくなった。
「いいよ。好きなだけ食べて」
見た目よりずっと熱い唇が指先に口づけるように花を食んでゆく。時折彼の歯や舌が指に触れると、そこにはまた新たな蕾が生じるのだ。
きっと花食みの唾液のせいだろう。花生みにとって最大の栄養分を皮膚から摂取して花を咲かせ続けている。
藍忘機もそのことに気づいたらしく、途中から敢えて魏無羨の指に舌を絡めるようになった。与えられる熱に指先から溶けてしまいそうだ。
知識としては知っていたが今まで花食みと出会うことがなかったため、これ程まで効果があるものだとは思わなかった。皮膚からの摂取でこれならば、直接与えられたらいったいどうなってしまうのだろう。
気づけば呼吸が乱れていた。花を食み続ける藍忘機の口もとから目を離せなくなり、こくりと知らずに喉が鳴る。
ふとこちらを見上げた藍忘機が小さく笑ったようだ。
「魏嬰」
名を呼ばれ、くいっと顎に触れてきた指に仰向かされる。
「口を開けて」
有無を言わせぬ響きを宿した声が鼓膜を揺さぶる。魏無羨は熱に浮かされたようにその言葉に従っていた。
乱れた吐息を漏らす魏無羨に覆いかぶさった藍忘機はゆっくりと唾液を零した。
とろりと滴ってくるそれを魏無羨は舌で受け止める。それは極上の蜜のように甘かった。
一口ごとに力が満ちてくる。無心で貪っていると、舌先がちりりと痺れそこにも白木蓮が花開いた。本能の赴くまま、藍忘機に無言で舌先を差し出してみる。同じく無言の藍忘機が己の舌でそれをこそぎ取ってゆく。一瞬触れ合った舌から腰の抜けそうな快感が走った。
咀嚼音と秘めやかな水音だけが洞窟の中に響く。
どれくらいそうしていただろうか。
注ぎ込まれる滋味は今や全身に行き渡り、身体の至るところから花が芽吹いていた。
(なんで木蓮ばっかり……)
白い木蓮ばかりを咲かせる自分が信じられなくて、魏無羨は咄嗟に蓮花塢を思い浮かべた。一面の蓮に思いを馳せると、小さな小さな蓮がようやくひとつ蕾をつける。懐かしいその形にほっと安堵したのも束の間、小さな蕾は綻ぶ前に何故か不機嫌そうな藍忘機に摘み取られてしまった。
「今、誰のことを考えていた」
問いかけの意味が分からず、魏無羨が首を傾げると、藍忘機は指にきつく歯を立ててくる。
「痛っ」
歯型からは再び木蓮の花が咲く。それを見て藍忘機は機嫌を直したようだ。理由は分からないが、彼は蓮よりも木蓮が好きらしい。満足そうに木蓮を食べる藍忘機を眺めて、たぶん木蓮の方が美味しいのだろうと適当に結論づけた。
そういえば、好き嫌いをしたり自分から他人に触れたり、普段の藍忘機からは考えられない態度に今更ながら気づく。おそらく花食みの本能的な行動なのだろうが、あの藍忘機を多少なりとも乱せたことに花生みとしての自尊心がくすぐられた。
「藍湛、俺の花美味しい?」
「とても美味」
もう一度確かめるように問えば、同じ答えが返る。
「じゃあ、全部お前にやるよ」
相好を崩してそう告げると、藍忘機の瞳がギラリと光った。
「言ったな」
素肌に直接羽織った外衣の合わせを大きく拡げられ一瞬羞恥のようなものを感じたが、すぐにどうでもよくなる。藍忘機は本気で身体中に咲いた花を食べ尽くすつもりらしい。ひとつまたひとつと自分の花が彼の口に消える度にふんわりと胸の内が暖かくなっていく。心地良さに目を細めていると唇に甘い雫を注がれた。
花食みから体液を与えられることが、花食みに花を与えることが、こんなにも満たされるものだとは知らなかった。身も心も力に満ち溢れ、今なら何でも出来そうな気がする。きっと屠戮玄武も敵ではない。
「藍湛、今の俺たちは無敵だな」
魏無羨が歌うように囁けば、藍忘機がこくりと頷く。二人とも同じように感じているのだと胸が熱くなった。
相手を満たし相手に満たされるこの感覚をなんと呼ぶのかはわからない。わからずとも構わない。ただ互いの存在だけがあればそれで良かった。
次々と咲き誇る旺花は全て一人の為だけに。
滔々と注がれる甘露は全て一人の為だけに。
まるで慈しむのように藍忘機は幾つか花を食べては魏無羨に唾液を注ぎ込む。繰り返される行為に、二人の唇はいつしかぴたりと重なり合っていた。