階−きざはし−① 卯の刻。起床の時間だ。
掟通りに目覚めようとして、魏無羨は違和感を覚える。
妙に身体が重い。頭はすっきりしないし、瞼もくっついてしまったかのように開かない。それに、微かに鼻腔をくすぐる馴染みのないこの香り。
(……酒?)
そうだ。昨晩、雲深不知処に酒を持ち込もうとしている藍忘機を見咎めて口論になった。売り言葉に買い言葉で、うっかり酒をひとくち口に含んでしまい、その後の記憶がない。
(家規を破ってしまった……)
しでかした失態に青褪めながら、魏無羨は重たい瞼をどうにか押し上げた。押し上げて、視界に飛び込んできたものに息が止まる。
家規を破る原因となった男が至近距離で微笑んでいた。いや、微笑みといえるほど明確なものではなく、表情だけ見るならば無表情に近い。しかし、明らかに歓喜の笑みを含んだ気配を纏った男がすぐそばに横たわり、自分を見つめていたのだ。
「おはよう、魏嬰」
「……っ!」
弾かれたように飛び起きた魏無羨は、勢い余って寝台から転げ落ちてしまった。そのまま床を転がるようにして藍忘機から距離を取る。
「魏嬰?!」
慌てて駆け寄ってくる藍忘機の両手首には、何か白くひらひらしたものが巻き付けられている。その正体に気づいて、魏無羨は再び呼吸を止めた。
(俺の、抹額!!)
なんで、どうして、と疑問符だけが頭の中を駆け回る。
他人に触れさせてはならないはずの抹額が、他人の手首にぐるぐる巻きにされ、更には七個も八個もこま結びが作られている。
魏無羨の前に跪いた藍忘機は、その視線に気づいて見せつけるように腕を掲げた。
「君が結んでくれた」
「はぁぁ?!」
嬉しそうに告げられた言葉に、家規を忘れて大声を出してしまう。
「昨日の夜、私は君のものだと君が」
重ねられる言葉と間近から見つめてくる玻璃のような美しい瞳に耐えきれずに、魏無羨はがばりと顔を覆った。
嘘だと突っぱねたかったが、藍忘機の両手首の抹額はかなりきつく結ばれている。彼が自ら縛り上げたとは考えにくい。そして、潔白を訴えたくとも自分には昨晩の記憶がない。
(本当に俺がやったのか……?)
答えの出ない自問をしばらく繰り返し、ようやく魏無羨は覚悟を決めた。
「……すまない。何も覚えていないんだ」
覚悟は決めたものの、藍忘機の顔を直視する勇気は出せずに、魏無羨はぽそぽそと謝る。
「どうやらとても失礼なことをしたみたいだ。本当にすまない。心から謝罪する。だから……その、俺の抹額を返してもらえないか?」
俯いたまま小さな声で告げた魏無羨の視界に、藍忘機の手首に巻きつけられた抹額がすい、と差し出される。
返して欲しいのなら自分で解けと。
いや、藍忘機の両手はまさにその抹額で封じられているので、魏無羨が自分で解くしかないのは理解している。だがしかし、己の抹額が他人の手首に巻きついている様をまざまざと見せつけられ、魏無羨は言いようのない羞恥心に襲われた。
顔が熱い。恐る恐る伸ばした指先が震える。
固く固く結ばれたこま結びはただでさえ解きにくいというのに、緊張と羞恥で思うように動かせない指で解くのは至難の業だった。
(なんでこんなにきつく結んであるんだよっ!)
焦れば焦るほど、顔に熱が集まっていくのがわかる。きっと今自分は林檎のように真っ赤になっているだろう。
あまりにも居たたまれなくて顔を上げられないために藍忘機の表情はわからないが、抹額が巻かれた彼の手は両方とも強く握り込まれている。
「本当にすまない」
羞恥をまぎらわす呪文のように小声で謝罪を繰り返しながら、どうにか結び目を解いた。ひとつ、ふたつ……。そして最後のひとつがようやく解け、藍忘機の手首に巻ついていた抹額がはらりと緩んだ瞬間、魏無羨の両手首は自由になった藍忘機の右手に掴まれていた。
「らん……っ!」
突然のことに思わず顔を上げた魏無羨の唇にふわりと柔らかいものが触れる。一瞬だけ触れ、軽く下唇をついばんで離れたのは藍忘機のそれだった。
「謝らなくていい。私は君のものだ」
目を瞬かせ二の句が継げないでいる魏無羨の髪を優しく撫でて、藍忘機は嬉しそうに微笑んだ。
——— ———
声にならない悲鳴を上げて部屋を飛び出していった魏無羨を見送って、藍忘機はわずかに赤くなった手首を撫でる。
何も覚えていないのだとしどろもどろに謝りながら、真っ赤な顔で抹額のこま結びを解く彼は非常に愛らしかった。昨夜の出来事を魏無羨本人が覚えていないのは至極残念だが、あの泣きそうなほどの狼狽えぶりは演技ではないだろう。
(自力で抹額を解かなくて正解だった)
彼が覚えていずとも、彼のしたことの確かな証拠だ。
柔らかな布の感触が未だ残る手首に、そっと唇を押し当てる。
まさか、彼があんなふうに思ってくれていたとは。
昨晩の魏無羨の様子を思い返して、藍忘機はひっそりと頬を緩めた。
昨晩、雲深不知処を密かに抜け出した藍忘機は、天子笑を抱えて戻ったところをまたしても魏無羨に見咎められた。
罰を受けろと迫る彼を言葉巧みに言いくるめ、詭弁を弄して酒を飲ませることに成功したまでは良かったのだが、魏無羨はたった一口の酒で昏倒してしまったのだ。
いつも冷たく澄ました彼がどんなふうに酔うのか見てやろうと思ったのに、まさか一瞬で寝てしまうとは。
眠りに落ちた魏無羨は、小卓に片頬を押し当て無防備に横顔をさらしていた。その姿に胸がざわつく。窓から差し込む月光が彼の輪郭を淡く彩り、ふさりとした睫毛は繊細な影を頬に落としている。
いつもより幼く見える寝顔の、柔らかそうな頬に触れてみたくて手を伸ばす。
その瞬間、長い睫毛が小刻みに震え、ぱちりと彼の眼が開いた。
ゆっくりと身体を起こした彼の視線は、なぜか天子笑に釘付けになっている。試しに酒壷を右へ左へ大きく動かしてみると、彼の視線も右へ左へぴたりと追ってくる。そして唇に残った酒香を探すように、赤い舌がちろりと覗いた。
明らかに様子がおかしい。
「もしかして君、酔っているのか?」
「酔ってない」
酔っていないと宣う彼は、ほんのりと潤んだ目もとでじっと天子笑の酒壷を見つめ続けている。
「もっと飲みたい?」
藍忘機の問いに、魏無羨の顔がぱぁっと輝いた。
「うん!」
やはり酔っている。常の魏無羨ならこんなことを言うはずがない。
しかしこれはいい機会だと藍忘機はほくそ笑んだ。酒壷を掲げると、すいっと彼に顔を近づける。
「上手におねだりできたら、分けてあげる」
魏無羨は天子笑からそれを持つ男へと視線を移し、「藍忘機」と呼びかける。
しかし、これでは駄目だと思ったのか、しばらく考えたあとでちょこんと首をかしげてみせた。
「忘機哥哥、それちょうだい」
告げられた言葉に、藍忘機はむせそうになった。
(忘機哥哥?それちょうだい?)
三千以上の家規が刻まれた姑蘇藍氏の規訓石そのもののようにお固い彼が……?!
予想以上の結果に気を良くして、藍忘機は杯になみなみと天子笑を注いでやった。
「ほら」
魏無羨は渡された酒をくぅっと一息に飲み干すと、名残惜しそうに空になった杯を覗き込み、またちらりと視線を寄越す。
よほど気に入ったようだ。
「まだ欲しいの?」
促すようにちゃぷんと酒壷を揺らす。すると、大変優秀な姑蘇藍氏の内弟子は今度は上目遣いで「おねだり」してみせたのだ。
「……忘機哥哥の、もっとほしい」
どこか舌足らずな言葉と、こちらをじっと見つめる潤んだ瞳にあらぬ妄想が膨らむ。藍忘機は思わず天を仰いだ。
「哥哥?」
つん、と袖口を引っ張られて顔を下げれば、褒美を待つ子どものような顔をした魏無羨と眼が合う。
姑蘇に来てから何度声をかけても冷たく無視され、最近では視界にすら入れてもらえなかったというのに。
藍忘機は苦笑を堪えて天子笑を酒壷ごと魏無羨の方へ押しやった。目の前に差し出された黒い酒壷をぱちぱちと瞬きして見つめた魏無羨は、嬉しそうにそれを胸に抱き込んだ。
その顔に満面の笑みが浮かぶ。
ああ。彼の笑顔を初めて見た。
常の氷のような無表情とは打って変わった春の陽だまりのような柔らかな笑顔。
魅入られたように眺めていると、魏無羨は手酌でぐびぐびと酒を呷り始めたではないか。美味しそうに杯を空ける度に、ふにゃふにゃと表情が解けていく。きっちりと額に巻かれた抹額も、今は心なしか緩んでみえる。
「天子笑気に入った?」
「うん」
もはや家規のことなど頭にない様子の彼に、悪戯心が芽生えた。
つれない優等生の本音を聞き出してやろうと藍忘機は質問を投げかける。
「本当に酒を飲むのは初めて?」
「うん」
「家規を破ったことはある?」
「……ある」
あるのかと意外そうな顔をした藍忘機に気づいたのか、魏無羨はむぅっと口もとをへの字に曲げた。
「……罰はちゃんと受けたぞ」
(取り繕った……!)
明け透けに答える魏無羨は、上気した頬も相まってなんともかわいらしい。抱きしめたくなるのを辛うじて堪えて、藍忘機は質問を続けた。
「藍先生のこと、どう思う?」
「尊敬してる」
「沢蕪君は?」
「大好き」
敬愛の念が声にまで滲み出ている。花が開くような彼の笑顔に、ざわりと心が波立った。
「では、私のことは?」
思わず口をついて出てしまった問い。
楽しそうに天子笑を飲み進めていた魏無羨の手がぴたりと止まった。
「……きらい」
「……どうして?」
心臓を鋭い刃で一突きにされた気がして、声が震えた。
魏無羨は黙り込んだままだ。沈黙を誤魔化すために酒を注ぎ足そうとする杯を掴んで問いを重ねる。
「どうして、魏嬰?」
「……名で呼ぶな」
「君も藍湛と呼べばいい。教えて、魏嬰。どうして私のことは嫌いなの?」
敢えて名を呼ぶと、赤く潤んだ瞳がキッとこちらを睨んだ。
「そうやって俺のこと掻き回すくせに他の人にも構うからだ……!」
一息に告げた魏無羨は、自棄になったように直接天子笑を煽る。掲げられた酒壷が邪魔をして彼の表情は見えないが、さらりと揺れた黒髪の間から見える形の良い耳は、鮮やかに色づいていた。
「魏嬰、それは……」
それは、嫉妬、だろうか。
酒壷の横からその表情を覗き込もうとすれば、ぷいっと顔を逸らされる。右から覗けば左へ。左から覗けば右へ。警戒心の強い小動物のようにすばしっこく視線を躱す彼に業を煮やして強引に酒壷を取り上げた。
ほとんど空になっていたそれを乱雑に放り出し、藍忘機は魏無羨の頬を両手で包み込む。
そうしてようやく彼の視線を捕らえると、藍忘機は真っ直ぐに告げた。
「これからは君にだけ。君だけだ」
「俺、だけ……?」
朝露を弾く蓮の葉のように魏無羨の瞳の中で光が揺らめく。
「そう。君だけ」
その光があまりにも美しくて、藍忘機は彼の瞳を覗き込み、もう一度囁くように告げる。
魏無羨は煌めく光を瞳に宿したまま、しばらく何事か考えていたようだが、やがてゆっくりと額から抹額を外すと、それを藍忘機の手首に巻きつけた。
「俺だけ……」
ふふ、と嬉しそうに笑いながら彼は藍忘機の手首を縛り、こま結びを幾つも作り始める。最後に目の前まで持ち上げて、結び目が解けないか確認する徹底ぶりだ。
「藍忘機。俺のもの」
藍忘機は居ても立っても居られなくなり、抹額で戒められた腕の間に魏無羨を閉じ込めて抱き寄せた。
「そう、君のものだ。だからこれからは藍湛と呼んで」
「……藍湛?」
「うん」
魏無羨は一瞬びくりと肩を揺らしたが、その後は大人しく腕の中に収まっている。
その時、室内を仄かに照らしていた月影が雲に隠れ、魏無羨の身体からふっと力が抜けた。無防備にこちらにもたれかかるその様は、まるで誘っているかのようで。
「魏嬰」
耳朶に触れそうな距離で囁いてみても、拒む素振りはない。
こくり、と喉が鳴る。鼓動がうるさいくらいに早い。淡く色づいた桜唇が眼に焼き付く。それに触れたい。奪ってしまいたい。
欲望のまま滑らかな肌に頬を寄せ、そして気づく。
無抵抗だと思った魏無羨は、すぅすぅと穏やかな寝息を立てていた。
「……魏嬰?」
雲深不知処に亥の刻を告げる鐘が鳴り響いた。