やさしい夜の雨(仮題)◆01〜02◆01
一目惚れというものが本当にあるのだと思い知った時の衝撃。
それは煉獄にとって忘れ難い、永遠のような一瞬だった。
出会ったのは雨の日で、場所は交番だ。
煉獄は財布を落としてしまったことに気付いて、駅や駅ビルに忘れ物の届出はないかの問い合わせをあちこちにしていた。そこでかなりの時間を要した後に、警察に届いているかもしれないと気付いて駆け込んだのが駅近くの交番だ。
雨で濡れそぼった煉獄が駆け込んできたので、二人の警官と一人の先客は少し驚いた様子で入口を振り向く。警官の一人が煉獄に対応して空いていた椅子を勧めた。煉獄は弾む呼吸を抑え込みながらそこへ座る。
もう一人の警官は先に来ていた大柄な男の前に立っていて、その人は手元へ視線を戻すと何かの書類へ記入を続けていた。少し長めの銀髪の人という印象があるだけで、周囲を見渡す余裕のない煉獄はほとんど顔を見ていない。
そんなことより財布の届出があるかどうかが最重要だった。
「財布の落とし物はありませんでしたか」
中身は何が入っていただろうかと頭の中であの財布を開く。現金は二万円もないくらい(大金でこそないが学生の煉獄にとってはそれなりの金額だ)、銀行のキャッシュカード(まだ銀行へ電話もしていない)、作ったばかりのクレジットカード(これもすぐに連絡しなくては)、あとは、それから……、他に大事なものは……。
「濃茶色の長財布で、内側のポケットの色が少しずつ違ってて——、それから……」
一目惚れの財布だった。自分には少し高価だったが大学の合格祝いだと奮発した。一点物と聞いて、アルバイトの給料日まで数日取り置きをしてもらったことさえ懐かしい。少しずつ色が変化していくことに愛着も感じていたというのに。
「まずお名前を伺っても?」
思いつくままに喋り続けていた煉獄は、ハッとした。財布の中には自分の名前がわかるものが入っているはずだから、まずは身分を証明するべきかとやっと気付く。幸いにして手元にあった学生証を提示して名乗った。
「煉獄と言います」
「おお……、」
感嘆の声を上げたのは隣で書類を書いていた男性と、それを担当していた警官の二人だった。煉獄の対応をしていた警官もそちらへ視線を向け、ひとつ頷いた。
「今こちらの方が届けてくれたところですよ」
警官がひらりと手で示した隣の人が書いていた書類は、拾得物の届出だったらしい。
「よかった、落とし主サンが見つかって」
銀髪の青年が煉獄に向かって小さく片手を上げて見せた。
その瞬間、煉獄の心臓がどんと大きく打ち、頭の奥に痺れが走る。後から思い返せば、雷に打たれたようなという表現はぴったりに思えた。一秒にも満たない僅かな間に恋に落ちることがあるなど考えたこともなかったが、まさしくこの時が一目惚れの瞬間だったと煉獄は思う。
雨で湿度も高いのに、さらさらと流れるような髪。モデルか俳優かと思うほど端正な顔。そして何かのプロスポーツ選手みたいな大きな身体。
これまで自分の身近では見たことがないほど整った容姿に驚き、にっこりと笑い掛けられたことでさらに気が動転してしまう。色素の薄い肌や髪色と、赤みの強い瞳がルビーのように光を放ったかに見えた。その瞬間に自分でも驚くほど心臓が大きく跳ねて、体温が数度上がる。
その人は煉獄の異変に気付くと席を立って、大丈夫かと肩に触れて煉獄の顔を覗き込んだ。その温かく大きな手の感触にも、背の高さにも、間近で見る瞳の美しさにも、煉獄は全てに舞い上がってしまう。
顔が熱い。耳まで火照っている。心臓は背中から叩きつけてくるような勢いだし、掌は汗で濡れていた。そのくらい煉獄の心はめちゃくちゃに掻き乱されていたのに、何もしなければこの人とはあと数分で二度と会えなくなるということだけはきちんと理解できていた。
「あの、お礼がしたいので、連絡先を教えてもらえませんか」
溺れたみたいに息が苦しい。深く息を吸い込もうとしているのに、肺がうんと小さくなってしまったようだ。懸命に息継ぎをしながら尋ねる煉獄を、この人は不審に思うだろうかと心配になる。
「そんなの全然いいよ。こういう時はお互い様だからね」
「これ……すごく大事にしてた財布なんです。中身がダメなら、財布だけでも見つかって欲しいと思っていたので、本当に助かったんです」
だから是非、どうか、と、ほとんど懇願のように食い下がって頭を下げる。
「今、充分お礼言って貰ってるし。ね?」
これは迷惑ということなのかもしれないと過ったけれど、どうしても諦められない。煉獄はもう一段深く頭を下げた。
「どうしてもおれの気が収まりません。お願いします!」
「じゃー、とりあえず友達登録でもしよっか」
その人はそう言って、パンツの後ろポケットからスマホを出しながら笑ってくれた。
お礼に食事でも、とメッセージを送るのは簡単だった。
それが言葉ほど簡単なことではなかったと煉獄が思い知ったのはたった今だ。どの店を選べばいいのか全くわからない。
約束はあっけない程スムーズにできた。明日午後六時に駅で。その返信が嬉しくて、自室のベッドの上で過呼吸になるんじゃないかというくらい興奮した。
メッセージのやりとりは実に簡素なもので、煉獄の質問にその人——宇髄というそうだ——は、ごく短い返信をしてくる。本当は乗り気ではないのかもしれないし、忙しいのかもしれない。けれど短いレスはそう長い時間も空けずに返ってきていたし、やりとり自体はその日のうちに何往復もしていた。
『もう「友達」だから、あまりかしこまらなくていいよ』
宇髄からそんなメッセージが届いても、どう見ても年上の宇髄相手に緊張せずにタメ口など無理だと煉獄は思う。
『でもおれの方が年下なので』
『フランクに接してもらう方が俺は嬉しいな』
『宇髄さんがそう言うなら頑張ります』
——と、送信してから、慌てて『頑張る!』と追送した。
『いっそ、さん付けもやめた方が早く慣れそうだね』
無慈悲なレスに煉獄は思わず天を仰ぐ。きっと明日顔を合わせても同じ要求があるだろう。あの顔を見ながら当たり前みたいに馴れ馴れしく話すなんて、とんでもなく難易度が高そうだ。
それだけではない。
煉獄はまだ宇髄の食事の好みも知らないし、普段どんな店へ行くのかもわからない。もちろんメッセージをやりとりする流れで聞いてもいいはずだと思うのに、踏み込み過ぎかもしれないとか迷惑かもしれないと突然躊躇ってしまう。そのくせ、少しほとぼりが冷めたら、住んでいる場所や年齢も知りたいなどとまた気になり始める始末。
自分がこんなに誰かのことを考え続けるなんて、本当に意外だった。しかも、ほとんど外見しか知らないのに。
思い返せば、芸術作品のような力のある美というのがあの人にもあったような気がする。大理石の彫刻のように滑らかで白い肌、美術室にあったどの彫像よりも均整の取れた顔立ちだったと思う。そのくせ思い出そうと目を閉じても、光に透ける髪が眩しく輝いて表情まで上手く脳裏には描き出せない。
あんなに釘付けになって、胸を掴まれるような気持ちで見返した瞳も、笑顔も、煉獄はもう上手く思い出せなくなっていた。
なのに、好きだと思う。強烈に焼き付いたのはもうそのシルエットだけだ。
外見しか知らない。そのくせ、顔も思い出せない。それでも好きなんて、絶対おかしい。これまでの自分ならそう思っていたと煉獄は思う。でもこれが一目惚れというものに違いない。
おれはきっと一瞬で撃ち抜かれてしまったんだ。
そこで一目惚れなんて知らなかった今までのおれは死んでしまって、記憶を失ってしまったに違いない。
煉獄はそう確信していた。誰が何と言おうとも、これは知ったものにしかわからない事実なのだという強い自信がある。
今ここに生きている煉獄は、撃ち抜かれた時の甘い衝撃だけを覚えているのだろう。あれをもう一度味わいたくて、宇髄に会いたくてたまらない。
自分でも誘いのメッセージが少しもスマートではないことはわかっている。でもみっともなくても笑われても何でもいいから、約束を取り付けたかった。できることの全てを試して、必死で手を伸ばさずにいられない。ずっとそわそわした気持ちに振り回されているみたいだった。
「明日——、明日、どうしようか」
店を予約するにも急だし、好みも聞かずに一方的に決めてしまうのも躊躇われた。いくつか候補を挙げておいて、そこから選んでもらおうか。混み具合もわからないから、散歩がてらに二軒か三軒、店先を見に歩くのもいいかもしれない。すぐに店に入って対面してしまうより、歩きながらの方が少し話も弾みそうだ。
そう思うと、会ってしまえは何でも上手く行きそうな予感でいっぱいになって、幸せな気分になった。
結果的に言えば、連日の雨は止まず、街歩きには不向きな天気だった。
そして宇髄は、雨だから車で来たと言い、駅で煉獄を拾って助手席へ招いてくれた。煉獄が立てていたこの先のプランは総崩れだったし、突然の助手席は緊張もしたけれど、降って湧いたようなこの幸運にときめいて、煉獄は宇髄の横顔ばかり見ていた。
「食事は俺の知ってる店でいいかな。苦手なものってある?」
「特にないです」
即答すると、宇髄は横目でちらりと煉獄を見て口端に笑みを浮かべた。
「苦手なものは、……なんだって?」
徹底的に「ですます」を禁止ワードにするつもりらしい宇髄の問い返しに、煉獄は大きく息を吸って肺へ酸素を取り込んだ。
「苦手なものはない! 好きな食べ物と大好きな食べ物しかない!」
一気に勢いだけで言い切ると、宇髄は「おお」と感嘆の声を上げた。
「それ、すっごくいい答えだね」
とりあえず及第点が出たことにホッとした煉獄は、知らずシートから浮いていた背中をそっと預け直す。
雨は大降りというほどではないものの、傘なしで歩くには不向きで、ワイパーはずっと忙しく仕事を続けている。
フロントガラスの端に残る水滴が、灯り始めた店先の看板の色を映してきらきらしている。真っ直ぐな道の青信号が今度は水滴を青く染めて、過ぎ去ってゆく。それらの光は宇髄の目にも映り込んでいて、とてもきれいだった。
目玉のあの水晶体の透明なところ。誰にだってあるはずなのに、特別澄んで見える。肩に付くくらいの髪、ピアスの空いている耳、横顔のラインだって本当に見惚れてしまうほどの——。
「ねー、煉獄さぁ。俺のことめっちゃ見るじゃん」
宇髄はずっと笑うのを堪えていたのか、肩を小さく揺らして笑い始める。
「え、あ、すみません……」
「いや、全然いいんだけど。チョット緊張シチャッタ」
少しおどけたようにそう言って、ちらりと煉獄の方を見る。ふっと目を細めた笑顔は何だか可愛く見えて、全部写真に残せたらいいのにと思った。見ているだけでドキドキするような容姿の人というのは、煉獄にとって初めてだった。
アイドルや芸能人のファンならこんな気分もわかるのだろうか。でも決定的に違うのは、手の届かない人というわけではなく、その人は煉獄の呼び掛けに答えてくれたり、視線を合わせて笑いかけてくれたりするのだ。
嬉しくて、ずっと緊張していて、それから、少し悲しい。この食事を終えた後、煉獄はどうやって宇髄と次に会う約束を取り付ければいいのか全くわからなかったからだ。
宇髄の行きつけは、店内の雰囲気はモダンながら和食メニューが中心の小さな店だった。昼には定食を、そして夜は酒も出すのだそうだ。少し意外な感じもしたけれど、出てくる皿がどれも綺麗な盛り付けになっていたから、それを見れば納得もできた。こういうのを美意識が高いというのかもしれない。
「……煉獄は若いし、肉とかガッツリ系のが良かったかな」
ここは駐車場が近くて停めやすいからつい、と宇髄は肩を竦める。
「和食も好きですよ。……あ、ええと、和食も、肉も魚も大好きだし、ゼンブスキなヤツばっかりで……」
敬語禁止を思い出してしどろもどろだ。普段どうやって喋っているかすら、宇髄の顔を見ていると訳がわからなくなってしまう。
「ふふ。良かった。ありがとね」
煉獄は本当のことを伝えたつもりだったのに、宇髄は気を遣ってくれてありがとうというニュアンスだ。
ちゃんと伝えているつもりだが、もっと言葉を選ばないと本当の気持ちは伝わらないんだろう。きっとこんなものは取るに足らない誤解で、どっちもそんな会話をしたことを数日で忘れてしまうかもしれないけれど。
「お待たせしました、皮付き豚肉の角煮です!」
この店のスタッフは女性三人で、全員顔見知りらしい。そのくらい仲が良いのだろうけれど、煉獄はなんとなく胸の中がちくちくするのを感じていた。
「お連れさんとなんて珍しいですねー。生徒さんですか?」
角煮をテーブルに置いた人懐っこそうな女性は、煉獄の方を見て「初めまして」と笑いかけてきた。
「友達だよ。この間友達になったばっかり」
「あらまー、若いお友達ですねぇ。学生さんですか?」
「あ、はい。二十歳です」
へぇー、と、宇髄さんと店員さんの声が揃った。
「てっきり未成年だと思い込んでたわ。飲めるなら酒もいいのあるよ、ここ」
そんなに酒は詳しくないし飲みなれていないのでと、もごもごと辞退する。すると店のカウンターの中から前髪だけ金髪にしている女性が「須磨!」と店員の女性を呼んだ。
「一番テーブルに刺し盛り出して」
「はぁい」
須磨と呼ばれた女性はパタパタとカウンターへ向かってゆく。
なんとなく置いてけぼりになった空気になってしまい、それまで何の話をしていたんだったかと煉獄は頭を巻き戻した。
「あ。宇髄……って、先生? ……なの?」
「いいや?」
「さっきあの人が、おれを生徒さんかって言ってたから、てっきり……」
あーそうか、と宇髄さんは上向いてから頷いた。
「俺ね、レザークラフト作家なの。で、師匠の教室で講師もしてるから——」
でも週二日だけだし、先生なんて感じじゃないよと宇髄さんは笑う。
とても綺麗な顔をしているのに、笑うととても可愛らしい。煉獄は自分よりずっと大きい人だというのをすっかり忘れてしまうなと思うながら何度も見惚れてしまう。映画の画面でも見ているような感覚に近い気がした。
そんな風に煉獄が無意識に見惚れていたことに気付いたのだろう。宇髄はぱちぱちと大きな瞬きをしてから、堪えきれないように小さくくすくすと笑い出した。そして大きな身体を小さく丸めて、掌へ顔を伏せた。その様子もとてもかわいくて煉獄はつい目でその動きを追ってしまう。
「俺の顔なんか見てなくていいから、食べよ」
まだ少し照れの残る表情で宇髄が顔を上げた。
テーブルに届いたばかりの大ぶりの角煮を、宇髄が箸でほろほろと割って小皿へとよそう。添えられていた辛子と貝割れ大根の彩りも良い感じに取り分けて、煉獄へ渡してくれる。
「どれもホント美味しいし、角煮もすっごく美味そうだ」
「でしょ。まー友達の店だからちょっとは贔屓目もあるかもしれないけど、何食っても美味い穴場なんだ」
「あぁ、お友達なん……」
ですね、という語尾を飲み込んだ。
そう、と宇髄は頷いて、カウンターの方へ視線を向ける。さっきの須磨さん、前髪が金髪の女性、そして奥からもう一人顔を出して何かの指示をしている様子だ。
「あの三姉妹の店。元々は別の店の常連同士でね、もう七〜八年の付き合いになるかな」
煉獄は頷きながら、もしかしたら宇髄は思ったより年上かもしれないと感じた。とはいえ宇髄はそもそも年齢不詳な見た目をしているから、思ったより若くても年上でも不思議と説得されてしまいそうだ。
「そーだ、煉獄。あの財布を大事にしてたみたいだけど、あれは誰かからのプレゼント?」
「いえ。あの、自分の大学入学祝いに自分で一目惚れして買ったやつで」
——偶々行ったデパートに期間限定で出店してた時で、と敬語にならないように気を取られながら説明する。
一目惚れしたものの、そもそも財布を新調する予定はなかった。他に入り用なものはいくらでもあったしかなり悩んだが、一週間後がアルバイトの給料日だったので、それまで取り置きをお願いしたというくだりまで宇髄は熱心に頷きながら聞いてくれた。
「ハンドメイドの一点物って店員さんから聞いたら、こんなに気になるのは運命かもしれないと思って、」
話しているうちにその日の光景を思い出した煉獄は、バッグから財布を出して宇髄へと差し出した。
「これ、びっくりするくらい手に馴染むんです。持ってみてもらえませんか」
「え」
きょとんとした顔で財布を見つめている宇髄に、煉獄はしまったと肩を竦めた。タメ口で言い直さなくてはと焦る。
「宇髄、これを持ってみてくれ!」
「お、おう」
受け取った宇髄は財布の細部まで点検でもするように角度を変えて眺めている。
「すごくしっくりくると……、思うんだが……、どうだろう」
「もしかして、煉獄って、タメ口……すごく下手?」
怪訝そうでもあるし、笑い出しそうな三秒前にも見える表情で宇髄は小首を傾げて見せた。
「どうだろう。いつもこんな感じなんだ」
自分の口から出た言葉を口の中へ戻したいくらいに恥ずかしくて、煉獄は無意識に口元を手で押さえた。
「なんだ。そういうことならそれでいいよ。フランクにってのは、いつも通りでいてねってことだからさ」
そう言って微笑みながら、宇髄が煉獄へ財布を差し戻す。それを受け取った煉獄は改めて財布のフィット感を試すように手の中へ収めて優しく撫でた。
「これは初めて持った時からすごく手に馴染んだんだ。そんなことは初めてで、すごく不思議で……」
いかにハンドメイドといえども、煉獄の手に合わせて作ったオーダーメイドというわけでもない。だというのにあまりにもしっくりきたことに煉獄は感動したのだ。
「こういうのは、例えば偶々おれと手の大きさが近い人がデザインしたのかな」
質問に、宇髄は右手を開いて差し出してきた。手を見せろという意味かと煉獄も右手を差し出す。煉獄の手は全体に厚みがあり、サイズは宇髄よりひと回り以上小さい。反して宇髄の手はかなり大きく、すっと縦長で洗練された印象だ。手も綺麗だなと煉獄は思わず見入ってしまう。
「それね、俺の作品なの」
宇髄の言葉がすぐに飲み込めなくて、煉獄は視線を手元からゆっくりと宇髄の顔へと移した。
「えっ?」
煉獄が使っていた財布は宇髄の師匠のメーカーのもので、宇髄もそこで作品を扱ってもらっていた時期があったのだそうだ。ちょうどそのメーカーが期間限定でデパートへ出店したタイミングと同じ頃だ。そして取り扱っている数も僅かだった宇髄の作品を、煉獄は一目惚れして選び取っていたということらしい。
本人にだけでなく作品にもまた一目惚れだったとは。煉獄は、運命のようだと舞い上がりそうになる気持ちを懸命に抑えた。
「——だから、たぶん手の大きさではないよね。似たようなことを手びねりで作品を作る陶芸家と話したことがあるんだ」
テーブルにあった湯呑みを取り上げた宇髄は、それを両手で包むように持った。湯呑みをくるくると少しずつ回しながら、ぴたりと止める。気に留めていなかったが、この店で使われている湯呑みは揃いのものではなく、色も形もそれぞれ個性がある。これも手びねりの湯呑みなのだろう。
「手に馴染むようにしっくりくるところって、こういうのにもあるよね。この湯呑みを作った人と俺の手の大きさは全く違うけど、」
湯呑みを持っていた手を今度は煉獄へ差し出した。そしてさっきからテーブルへ置きっ放しだった煉獄の右手を取って、握手の形で握られる。
「握手みたいじゃない? 自分とは全く違う手と、ものを介して繋がるこの感じ」
さっき湯呑みを持ったばかりだった宇髄の手はとても温かく、それだけで煉獄はのぼせてしまいそうだった。握手は案外としっかり握られていて、伝わる体温にどぎまぎする。
「なるほど、握手か……」
煉獄がやっとそれだけを喉から搾り出すと、宇髄はにこりと笑って手を放した。
「もう二年くらい使ってるんだよね。型崩れもほとんどないし、すごく大事に使ってくれてるのがわかるよ」
「極力余計なものを入れないように気をつけているし、あまり尻ポケットに入れたりもしないようにしてる」
形が反ってしまったりするからと言えば、宇髄は感心したように頷いた。
「ありがたいねぇ。もちろんその人が扱いやすい『使い方』にも財布は馴染んでくれるから、それもいいものだけどね」
「それもいいな」
「でしょ。寄り添ってくれる感じ」
あぁ、それはすごくいい。煉獄は宇髄と出会う前から運命に導かれていたような気がして、胸の奥が擽ったかった。
会計の時、財布を出した煉獄を制して宇髄が支払いを済ませてしまった。宇髄の意図は店員の女性にも通じていたようで、会計はとてもスムーズだ。
「でも、今日はお礼におれがご馳走するつもりで——」
レジ前でそう言う煉獄に宇髄は片眉を上げて小首を傾げた。
「じゃあ、次は煉獄のお気に入りの店でご馳走して」
そんな風に言われると、煉獄は次もまた誘っていいのだろうかと期待の方が膨らんで、何と返すべきか迷ってしまう。
「うちにもまた一緒に来てくださいね」
そう笑うのはレジに立った須磨さんだ。逡巡しているうちにありがとうございましたと見送られ、外へと出る。午後八時半。雨は小雨になっていた。
「もう一件行きたい気分だけど、車なんだよなぁ……」
車でなければお酒を飲む人だったのかと煉獄は今更気付く。それなら次は徒歩で行きやすい場所でお酒の美味しい店を探しておこうかと考えながら、駐車場までを宇髄について歩く。
「良ければ、ウチでちょっと飲まない?」
思いがけない誘いに、煉獄は胸をときめかせた。
◆02
制作用のものはほとんど工房へ置いている。寝ることが主な目的の部屋でもある宇髄の自宅は、小ぢんまりとしたごく普通のマンションだ。
それでも煉獄は興味深そうにぐるりと部屋を見渡して、羨ましいと呟いた。
「おれは実家暮らしで、一人暮らしの経験はまだなくて……」
いつか一人暮らしをするなら、すっきりとしているけど殺風景ではないセンスの良いこんな部屋をお手本にしたい。そう言う彼の瞳はキラキラとしていて、本当に嘘がないのだということがよく伝わってきた。
最初からそうだった。
宇髄は財布を拾った時点で、それが自分が過去に作った作品だということはすぐにわかった。もちろん落とし主にも興味は湧いたが、まさか交番で出会すとまでは思っていなかったからこれもシンプルに驚きだ。
しかし何より。
最初に目を合わせたときから、煉獄が恋をしていることに気付いていた。
——何がすごいかといえば、そういった気持ちを隠し立てする気がまるでないらしいことだ。本人は無自覚なのかもしれない。だが無防備なほどの視線で、表情で、仕草で、声で、言葉で。とにかく煉獄は毎秒全身で好きだと言っているようなものだった。宇髄はそれを真正面で受けていたのだ、気づかない方がどうかしている。
そして、臆せず恥ずかしげなく懸命に慕うその様子を目の当たりにして、可愛い奴だと思わない人もないだろう。
だから宇髄もまた煉獄に対して興味を持って、もう少し知りたいという気持ちになっていた。
宇髄は氷を適当に入れたウイスキーをロックで、煉獄にはレモンのリキュールをソーダで割って出した。
ソファではなく、小さなダイニングテーブルに二人向かい合わせて座っている。
酒を飲むのに明るすぎるのはあまり好みではないから、リビング側は暗いままにしてある。廊下と部屋を繋ぐ入口のダウンライトと、ダイニングテーブル上の四灯シーリングライトのうち二灯だけ点けている。
傍には煉獄の財布の中身が全部出してあった。現金やカード類は本当に必要最小限で、入れっぱなしのレシートすら見当たらない。そして本体の財布は宇髄の手元にあり、今ブラシをかけ終えたところだった。
この財布の手入れをどうするのが良いかと煉獄に尋ねられて、宇髄がやって見せることにしたのだ。柔らかな布に皮革用のクリームを取って、財布へと丁寧に伸ばしてゆく。
「クリームもオイルも効果は同じようなものだけど、クリームの方が塗りやすいと思うよ。浸透させるのに少し時間がかかるからゆっくり擦り込んでやる必要はあるけどね」
オイルは慣れないとシミになりやすいからと言えば、煉獄は同じものを買うと言って、クリームのラベルをスマートフォンで撮影している。そして宇髄の作業を見飽きる様子もなく眺めていた。
「これを拾った時から、丁寧に使われてるなって思ってたんだ。こうやって作ったものと再会する機会ってそう多くないから、嬉しくなるよ」
「まさか作った本人に拾われていたなんて思わなかった」
こればっかりは意外だったのもお互い様だ。そうあることじゃない。
宇髄は乾いた布で殊更ゆっくりと丁寧に優しく拭き上げてやる。丁寧に使ってくれた返礼の意味もあるが、何となくこの時間が終わるのも惜しかった。
煉獄を引き留めようと思えばできる気はした。けれど彼が遊び慣れているようにも見えない。過ぎた提案をするべきではないのだろうとは思う。だが好奇心のようなものが宇髄の胸の内でざわざわと騒ぐ。こんなにも無邪気に好きだと態度に出されれば、彼に何もしてやってはいないのに必要とされているようで、はっきり言えば、少し気分が良かった。
窓の外からまた雨音がし始める。さっきより大粒の雨だ。
「今日ってこんなに降る予報だったっけ」
窓の方を眺めながら宇髄が尋ねると、煉獄はスマホの天気予報を見ながら、明日も雨だからかなと苦笑気味に答えた。
「俺、酒飲んじゃったからもう送ってあげられないけど、朝なら車で送れるよ」
磨き上げた財布を煉獄へ手渡しながら尋ねると、心底驚いた様子で言葉も出ないらしかった。でも、と言い出すんじゃないかと考えていた宇髄の予測を裏切って、煉獄は黙したままだ。でも急に泊まるなんて迷惑でしょう? くらいの遠慮を見せるだろうから、それを引き止めれば良いと思っていたのだ。それは茶番とも様式美とも言えるだろう。だが煉獄はそれらさえも見失って、ここに留まりたい気持ちが強いらしく、それが宇髄を喜ばせた。
つまらない遠慮を優先させるよりも、自分の欲求に敏感な方がずっと良い。欲しいものを欲しがれるというのは大事なことだ。それを抑制していたら、自分が欲しいものもしたいこともどんどん見失っていく。煉獄の恋心はまだ瑞々しく、勇敢だ。
「せっかくだから、もうちょっと煉獄と話したいなって思うんだけど、泊まって行かない? ——それとも明日は急ぐ予定がある?」
「予定は何も……」
「じゃあ、雨も止まないし、泊まってってよ」
提案から要望の形へ変えれば、煉獄は言葉を選ばずとも頷くだけで答えに事足りる。そのくせ宇髄の真意を図りかねているのか、少しばかりの不安も筒抜けだ。
宇髄はこんなにも手持ちのカードを開けっぴろげにしたままの人間を知らない。会ったばかりで、まだ何を知っているわけでもないのに、煉獄は熱烈に宇髄に焦がれている。
憂鬱な雨が降るこんな夜なら、そんな心地よい気持ちをひとくちくらい分けてもらう理由になるだろうか。
寝るにはまだ早い時間だったが、寝室へ招くことにした。
プロジェクターで壁へ映画を投影して、それをベッドから並んで転がって眺める。リビングのカウチでも良かったが、ベッドならそのまま眠ってしまえばいい。この部屋での映画は、色や形が絶えず変化する照明扱いだ。だから映画も絵面が面白過ぎず、退屈過ぎず、明る過ぎず、賑やかすぎず、かといって、怖くも悲しくもないものと注文は厳しい。
さて今日のところはどうするかといえば、選んだのは海洋ドキュメンタリーだ。煉獄と話すことが主目的だから、ストーリーを追う必要もないため、音声はうんと絞っている。
宇髄が貸したTシャツと短パンを着た煉獄は、ヘッドボードに背を預けて座る。そして目の前の壁いっぱいに現れた海の映像に「おお」と小さな声を上げた。
「いつもこんなふうに?」
「すぐに寝たくない時だけね」
ベッドにはいるけれどまだ眠るつもりはなく、流している映画を観るには音が小さすぎる。それらが意味する状況とは何なのかを尋ねたかったのか、煉獄は真隣に座った宇髄を振り仰いだ。
「煉獄と色々話したいなぁって思って。向かい合って話すと面接みたいでしょ?」
「確かに、違わない」
暗い部屋の中で海の色が満ちている。その光に照らし出されている煉獄の表情は、店で食事をしていた時よりも自然に砕けてきたようだ。距離感のせいかもしれないし、室内の薄暗さのせいかもしれない。宇髄は煉獄の背を軽く抱いて自分へ寄り掛からせる。
「煉獄、あったかいな。ちょうどいい感じ」
「寒いのか?」
寄りかかる身体が少し緊張を帯びている気もするが、抜け出そうと身動ぎする様子はない。
「今日雨で湿度が高いでしょ。俺は湿気が苦手ですぐにエアコンを入れるんだけど、肌寒いのもあんまり得意じゃないんだ」
「じゃあ宇髄は夏の方が得意なんだな」
おれと同じだと笑う煉獄に、わざと顔を顰めて見せる。
「暑いのも寒いのもキライ。ちょうどいいのがいいよ」
「なら、一年の半分は宇髄の好きな季節だ」
ポジティブだなぁと感心すると、煉獄が少しソワソワした様子で宇髄を見上げた。
「例えば夏生まれは暑さに強いなんて話も聞くが、宇髄はもしかして春か秋の生まれなのか?」
「十月三十一日」
「晩秋か。ハロウィンの日なんだな。覚えやすくていい」
そんなの覚えなくていいよ、と宇髄が言えば、煉獄は物言いたげにまた宇髄を見上げてくる。
「それより、煉獄のこと教えてよ」
「おれは宇髄のことをもっと知りたい」
「じゃあ、順番に教えっこしようか」
その提案に頷いた煉獄は、唇を開きかけてから、躊躇ったように再び噤んでしまう。伝えたいことがあったのか、それとも宇髄へ尋ねたいことだったのか。煉獄の表情は相変わらず恋の眼差しだ。宇髄についてたくさん知りたいのに、知りたくないことがあることにも気付いてしまったような揺らぎ。ずっとこんな視線に晒されていたら酔ってしまいそうだ。
恋人はいるのかと尋ねると、首を振った。いたことはあるかと尋ね直したら、それには頷いてみせる。
「煉獄の恋人は、どんな人だった?」
予想外の質問だったらしく、不意に視線が泳ぐ。そして、ずっと前のことだからと言って俯いた。
「ずっと前ならいいじゃん。教えて、いつ頃?」
「——高二」
思ったより前でもないなと思ったが、訊いた分だけは答えそうな雰囲気だ。
「同級生? 女の子? それとも、」
「同級生の女子で、部活の先輩の妹だった」
それだけ一気に言い切ってから一息ついた煉獄は、壁を泳ぐ鯨の群れにしばし見入っている。
「あまり気分のいい話じゃないから、あまりひとに話したことがないんだ」
「誰にもしたことがない煉獄の秘密の話なら、すっごく聞いてみたい」
困惑した顔が宇髄へ向けられる。これは初めて見る表情だなと宇髄は少し嬉しいような気分になった。
煉獄がいた高校の剣道部は全国大会常連校のひとつだった。
先輩たちは強いだけではなく、厳しくも礼儀正しく、後輩たちへの面倒見も良かった。煉獄たちは彼らの背中を見て学び、後輩へその伝統を継いだ。
その中で煉獄を特に可愛がってくれる先輩がいた。そしてその妹は兄ととても仲が良く、試合も良く見に来ていた。そのうちに妹は煉獄を意識するようになり、煉獄が彼女から告白を受けたのは高二になったばかりの春だった。
しかしその年は、前年に団体戦で全国大会の緒戦敗退という雪辱を晴らすために、部員一丸となって練習に励んでいた。彼女の先輩は三年で、その年が最後の挑戦になる。試合にも足を運んでくれる彼女から理解されているはずだと思い込んでいたのは煉獄の驕りだったと気付いたのは、全国大会出場を決めた地方予選の日だった。それが彼女が観戦に来た最後になった。帰り道で彼女は煉獄に全国出場おめでとうと言った同じ唇で、煉獄に「とても寂しかった」と告げたのだ。
別れるという言葉は使わなかったかもしれない。だが、そこから先の話もせず、何の約束も交わさずにその日を終えた。煉獄がこれまでのことを謝ったからこそ、終わりは決定づけられたのだろう。互いにその後連絡を取ることはなかった。
この後すぐに合宿があり、地方へ遠征し、先輩たちの最後の大会を全力でバックアップできるよう、団体戦メンバーでもあった煉獄は練習に全ての時間を費やした。彼女とは終わってしまったのだという寂寥感は時々募ったが、なすべき目標が目の前にあればそれに没頭できた。その夏はあっという間に過ぎ去った記憶しかない。
二年も終わりに近づいた冬、彼女に関する噂を耳にした。数日欠席しているのは妊娠しているせいらしい、という内容だった。酷い噂だと胸が悪くなったが、煉獄はその話を聞かなかったことにして無視していた。
だが、部室へ赴いた煉獄は、卒業間近であった先輩から突然殴られた。彼女の兄としての暴挙だった。妹は何も語らないが、妊娠させたのはお前だろうと煉獄は数人の部員の前で名指しされたのだ。
「おれじゃありません」
耳にした噂のうち、どこまでが真実なのかさえ分からない。その時の煉獄にとってはそうとしか言い様はなかった。本当に心当たりのないことだったのだ。だが、煉獄の返答がさらに先輩の逆鱗に触れたらしかった。
「卑怯者」
殴られるよりもその一言の方がはるかに重い衝撃だった。煉獄にとっても兄のような先輩との時間も、彼女との素朴な日々も、何もかもが瓦解してゆくような心持ちになった。彼女とは何度かキスをしたことはあったが、体は清いままだった。手を繋ぐことも恥ずかしがり、それでも嬉しいと微笑む彼女を可愛らしい人だと思っていた。煉獄と別れた後に何があったのか、煉獄も全く知らない。
先輩と煉獄の諍いについての噂も早々に巡った。煉獄は既に次期部長の指名を受けていたこともあって、顧問や担任から事実関係の説明をさせられたりもしたが、先輩の卒業とほぼ同時にその件について誰も触れなくなった。
彼女は別の学校へ転校した。相手は校外で出会った年上の男であることが彼女自身の口から語られたらしい。そう先輩から伝えられた上で謝罪され、煉獄はその謝罪を受け入れた。
当事者である彼女もその兄である先輩も校内からいなくなった後。騒動については煉獄に全く非がない誤解であると剣道部内ではきちんと明らかにされた。その上で、三年になった煉獄は新たな剣道部部長として真摯に務めた。
だが、最初の噂はゴシップとして無関係な生徒たちには気に入られたようで、一部には事実とは異なるままで認識されたままだった。最初に蔓延した噂が強烈だっただけに、その後の訂正など追いつきはしなかった。
黙っていればやがて噂として耳にすることはなかったが、時々自分のことを卑怯者だという印象を持っている人間がいるのだろうなと煉獄は感じていた。
「噂は実体がないから、対話も対決もさせてはくれないんだと身に染みた」
一対一で向き合って剣を交わす試合が煉獄にとっては日常だったが、世間様は全く姿を現さない。ただ影を落として煉獄から味方を少しずつ遠ざけて行くのだ。
結局、噂にはまるで太刀打ちできなかった。事実とは違うと反論できる場もないまま、そんな話は誰もしていないという素振りで、噂は人づてに蔓延って行った。
彼女や先輩にとって事実は愉快な話じゃない。それを掘り返してまで自分の潔白を証明しようとは思わないが、先輩からの謝罪を受け入れても、それ以前に培っていた絆は元通りにはならなかった。
「そりゃヘビーな話だな」
宇髄は同情的だが、煉獄自身にとっては既に終わった話だ。どれほど考えても元には戻らないと、とうに気持ちに区切りをつけている。
「でも初めて話してすっきりした気がする。『おれじゃない』って言葉は事実だけど、信じようという気にならない言い方だなと今なら思う。先輩から卑怯者という言葉を引き出してしまったのは、おれ自身だな」
ここで誰も悪くないというのは自分を含めての言い訳のようにも感じられる。かといって誰のせいにしても、他の誰も救われない。考えない方がずっといい。煉獄がそう言うと宇髄はしばらく壁に映し出される海を見遣った。
「煉獄にとっては、彼女のことよりも先輩に誤解されたことの方がきつかったのかもな」
「あぁ、そうかもしれない」
「煉獄は先輩のことが好きだったんだね」
宇髄の呟きに煉獄は少し戸惑う。少なくとも宇髄に対するような恋心を抱いた覚えは全くなかったからだ。
「もし自分に兄がいたら、こんな兄だったら嬉しいと思っていた時期はあるが……」
「うん。そういうこと。だから離れちゃったことが余計に哀しいんだよ」
煉獄にとっては同じ道を行く戦友でもあった兄貴分だ。確かに他の先輩とはまた違う。けれど自分の感情を深追いしなかったから、自分がそんなにも哀しんでいたことにも気付けていなかった。
「そうか。おれはかなしかったのか」
「好きにも色々な種類があるもんな。兄弟みたいに思ってたなら、先輩との関係はこのまま変わらずずっと続いてて欲しいって思ってたんだろうし。誤解が起こっても乗り越えられるって信じてたんじゃないかな」
「あぁ、そうだ……、それだ、」
宇髄の言葉が煉獄の深いところに触れた気がした。誤解されたことも殴られたことも問題じゃない。それらを乗り越えられず、逸れてしまったことがとてつもなく哀しかったのだ。謝罪されて、それを受け入れたら、もしかしたらこれまで通りにまた関係を再構築できるのではないかと期待する自分もいた。だが。
「——でも、もういいんだ。それはおれの勝手な期待で、先輩には先輩の心情がある」
そもそも、高校生と大学生では時間の使い方も変わってくる。大きな事件はなくとも、ずっと同じようにとはいかなかったかもしれない。
「煉獄は無意識にそういう、お兄さんみたいな存在を欲してるのかな」
「えっ」
「俺に対しても随分懐いてくれるから」
「——それは」
色々な種類がある好きのうち、先輩に対するものとは全く別物だ。
でももし兄のように慕っているのだと言ったら、そんな関係を許してくれるのだろうかと期待する。ちょうどこの話をした流れなら、煉獄に対する同情心で許してくれるのでも嬉しい。けれど、それさえも長く続くという保証などないと思い知っていることは、今話した通りだ。
ならばいっそ、恋なのだと言ってしまった方がマシなんじゃないかと過ぎる。
この気持ちをどうすればよいのか。最初から持て余しているのだ。
こんなに恋心に振り回されたことはないし、これを上手く扱えるような駆け引きもわからない。だったら、気持ちをぶつけて、壊れたら諦める方が自分は得意かもしれないなと思い至る。とてもネガティブな行動動機だが、そこから端を発する行動はポジティブに見えるだろう。その方が自分らしいかもしれない。
そう煉獄は覚悟を決めた。振られても朝までは一緒にいられる。今度は顔を覚えていられるといいなと思いながら、宇髄の横顔を見上げた。すると宇髄の瞳も煉獄を映す。
「宇髄には最初から一目惚れだった」
煉獄の告白には驚いたようだが、宇髄は少し眉を上げただけだ。
「宇髄とは恋人になりたいという『好き』なんだ。——おれと付き合ってくれないか」
「そっか。じゃあ、そうしようか」
今度驚くのは煉獄の方だった。なんの抵抗もなくするりと受け入れられるのは何か誤解されているんじゃないかと疑った。
「宇髄、今、なんて?」
「付き合おうってことでしょ? 付き合おうよ。……ん?、だめなの?」
「いや、そうじゃない」
だよね、煉獄から言ってくれたんだしと宇髄は言って、鯨の群れが泳ぐのを眺めている。海の青に照らし出される横顔は本当に綺麗だ。
「でも宇髄はおれのことを好きなわけではないだろう。そんなにすぐに決めていいのか」
「うーん……。仲良くなれないと思ってたら家には呼んでないかな」
それにさ、と言いながら、宇髄は身体ごと少し煉獄の方へと向き直った。
「煉獄のことは良い子だなって思ってるよ。財布のこともちょっと運命的でロマンチックだしね。もっと知りたいって気持ちで付き合うのは変なことじゃない……と、俺は思ってるけど。もっと熱烈じゃないとだめ?」
煉獄は言葉が選べないまま首を横に振り続けた。
「だめじゃない。——なんか、びっくりして、」
「びっくりは、俺もしたよ」
宇髄は笑う。自分よりも全然余裕があるなと煉獄は思って、力が抜けた。両手へ顔を伏せて、ゆっくりと息を吐く。少し落ち着こうと思ったら、そのまま宇髄に肩を抱き寄せられて、ぎくりとする。
「緊張しないで。大丈夫。何もしないから」
何かされるかもしれないと身構えた訳ではなかった。むしろ強引に何かされる方が言い訳を考える間も無くてありがたいし、嬉しいのにと思うくらいだ。けれどそんなことを考えている自分が恥ずかしい。無性に居た堪れなくて顔が上げられない。
多分宇髄は少し誤解をしているのだろう。緊張を解こうとするように肩をトントンと叩き続けていてくれた。その優しさが自分に向けられていることが泣きたくなるほど嬉しい。
次に会うための理由を考える必要はもうないのだ。