EX-ストレイキャット。一人称は設定のままです。①と②のファウスト視点。これだけでも読めますが一応続き物になっています。
ある夏の休日。進学を控えている僕は学校でいつもの様に勉強をしていた。
志望校の偏差値には問題なく届いており、教師からもお墨付きはもらっていたものの、より確実なものとするために復習を繰り返していた。
一息入れようと休憩がてら読みたかった本を片手に図書館を訪れた僕は見慣れない女の子を目にした。
図書館といったら同じ文芸部の子や本好きな人が中心に利用していて、何度かみたことあるなという顔ぶれが並ぶ。
しかし、その子は全く初めて目にする子だった。
かっちりとしながらもスラリとした引き締まった美しい体つきでいかにもスポーツをしていますと言った風貌だった。
淡い空色の髪は半乾きで拭き取れなかった雫が髪の毛の先から滴っている。
それを拭うためと思われるタオルを肩に掛けてその端っこを両手で握りながらその子はキョロキョロと周辺を伺いながら図書館に入って来た。
まるで知らない土地に捨てられた子猫の様に背を丸めて。
しばらくその迷い猫の様子を伺っていたが図書館を利用する人もまばらな休日も災いして誰も助ける様子もない。
仕方ない、そう思って僕はこの迷い猫に手を差し伸べるべく近寄る。
するとかすかに人工的な水の匂いがした。
夏のプールの授業の後の湿った中に感じるあの独特なカルキの匂い。
ああ、この子から、そのプールの匂いがするんだと気づいた。
眩くてこのしなやかな女の子は夏の炎天下の中を自由に美しく泳ぐのだろうと想像した。
陽の光が当たらないこの空間で過ごす自分には無縁の、明るくて目映い眩暈がするほどの健康的な美しさ。
自分が持たざるその美しさを思うと胸の奥がぎゅっとなるのがわかった。
そしてその感情を押し留めるように右手を胸の前で握りしめて、もう片方の手を伸ばしてその美しい空色の迷い猫に声をかけた。
迷い猫はネロという名前だそうだ。
活発で堂々としていそうな容姿とは裏腹に、慣れない場所でどうしていいかわからくて悩ましくしている様子を申し訳ないと思いつつ、可愛らしく思ってしまった。
素直な気持ちだったから自然と出てしまった言葉だった。
「かわいい」
その響きは彼女、ネロには随分と稀有な形容詞だった様で以降も何度も「それは自分に対して使っていい言葉じゃない」だの「それは先生の様な女の子に対して言うもの」だの、呆れるくらい何回も話をしてきた。
先生というのは僕、ファウストのことで、ネロの付けた渾名だった。
図書館で私語を注意したら「普通は友達でも生徒同士でそんな注意なんでできない。まるで先生みたい」と言われた所から始まった。
(そんなのともだちじゃないじゃない)と思ったけど言わないでおいた。
同じ生徒同士なのに「先生」だなんて渾名をつけてしまうこの子は意外とお茶目で実は思ったより面白い子なのかもしれないと思った。
そしてそれがまたしなやかで美しい肢体を持つ彼女からは程遠くて「かわいい」と思ってしまう。
僕の元に通い詰めて来たこの空色の迷い猫は、次第に僕の家の外にやって来ていつの間にか住み着いてしまった通い猫の様になっていた。
それから程なく図書館では話す事が難しく感じる様になって来た。
それはお互いに慣れて来て話しが続く様になって来たからだった。
たわいも無い日常のあれこれ、授業のこと、お互いのクラスメイトのこと、部活のこと、家のこと。
そういう「友達」同士で話をする様な内容だったけどそれがいつの間にか楽しみになっていた様に思う。
「友達」なんてほとんどいない僕には不思議な時間だった。
ちょっとだけ、いや、本音をいうとこの通い猫にだいぶ情が移っていたのだろう。
こんな日陰にいる様な引きこもりの僕の元に甲斐甲斐しくやってくるなんてなんて変わった猫なんだろう。
でも、このよく話す通い猫は僕のことは聞きたがるのに自分のことはあまり話さない。
だからもっと話をしたいな、と欲が出てしまったんだ。
ネロがくる様になってしばらくして僕は場所を変えることを提案した。
丁度噴水の陰が人影もなく邪魔にもならない場所だった。
中庭にありながらも人気がまばらなこの噴水の陰なら長く話をしても問題ないだろう。
もう少しこの夏の通い猫と時間を過ごしたい。そういつの間にか考える様になっていた。
でも僕に気を許している様で本心を見せないネロ。
なんとなく、僕に興味があるんだろうなっていうのは何やら一人で考えて慌てている様子を見たらわかってしまった。
一体、どう思っているのかな。
僕も初めて君を見た時、美しくもかわいらしい君が輝く光と水の中で泳ぐ様を想像して惚けたというのに。
凛とした体裁を保ちながらそんなことを考えていた。
そうしたら、突然あの夏のカルキの匂いが胸いっぱいに広がって驚いた。
一瞬視界が暗くなってまたすぐに開けて、すぐ横で噴水の水がキラキラと光を反射している。
夏が僕を抱きしめている。
もう残暑が厳しくて、そうこうしない内に秋が巡ってくるだろう。
この夏の匂いは今だけの特別なものだと思うと切なくて儚かった。
だから離したくなくてそっとその夏を捕まえる様に腕を回す。
すぅとそのカルキの匂いを吸い込んで白のシャツに顔を埋めて答えた。
「好き」
そしたらネロは大層身動いた。
視点の定まらない瞳は大海原と空の青、そしてそこから輝く太陽の様な金色。
なんて美しいんだろう。
僕はその輝かしい青と金色のグラデーションの瞳を見つめて思う。
ああ、この美しく輝かしい夏と混ざりあえたらどんなに幸せだろうか。
僕の様な引きこもりで薄暗い女でも、輝かしい夏の青空の様な髪の色と、東の夜空で輝く明けの明星のような瞳の君と近づけたらどんな心地がするのだろうか。
物事への貪欲さ、探究心。知りたい。憚られる様な感情が僕の心を掻き立てる。
「夏をもっと経験したいと、思っているんだ」
過ぎゆく手放したく無い季節で形容することでしか君を求められない。
僕はもっと君が知りたいんだ、ネロ。
僕は夏に恋をした。