リビング・ウィルファウストは食事が出来ない。
魔法使いの最期は特別に人間と変わらなかった。
病に冒されるだけの人と違って、その魔力が尽きる事も死と捉えるなら人間よりももっと死へのリスクは高い。
ファウストは食道を病に侵されていた。
魔力を持ってしても日に日にファウストの身体を蝕む病は彼から生命力としての魔力をも失う。
少しでも病を和らげられる様にと最近は彼を愛する精霊が住まう嵐の谷で過ごしていた。
たまにフィガロが訪れてもかつての様にそれを拒む事もせずただ素直に治療を受け入れている。
死期を悟れる程には魔力の強いファウストはそれを十分にわかっていたのだろう。
フィガロを拒まない理由がそこにはあった。
そして治療と言ってもファウストに施せる治療はもう実は無いに等しい。
食道に浸潤する病による慢性的な痛みと、たまに突発的起こる激しい痛み、飲み込めない唾液が貯まると吐き気をもよおした。
「ネロ」
1日のその殆どをベッドの上で座る様にして過ごすファウストの隣にはネロがいた。
ファウストのベッドの横に置かれた簡素な作りの木の椅子に浅く前のめりになって腰掛けている。
名前を呼ばれたネロは俯いていた頭を上げる。
「なに、先生。どっか痛む?」
ファウストの方に顔をむけて覗き込む様に首を傾ける。
ネロはファウストがこの谷で過ごす様になってから同じ東の国の魔法使いのよしみもあってそばに付き添っていた。
賢者の魔法使いとして過ごした日々が二人の距離を程よく近づけ、それはいつしか境目が曖昧な関係となっていた。
「ネロ、落ち着いて聞いてくれる?」
名前を呼ばれて顔を向けたネロを横目に、真っ直ぐ前を見たまま穏やかな口調でファウストはつぶやいた。
天気がいい、落ち着いた気候の午後の時間だった。
「僕は・・・もうじき死ぬ」
おはよう、こんにちは、そんな何気ない挨拶の様に紡がれる、死の言葉。
薄々わかっていたことであった。けれども改めて本人から口にされると動揺と共に居た堪れなさがネロを襲う。
「・・・ファウスト・・・なんで、死ぬとか言うなよ・・」
「だめだよ、ネロ。そう言われたら僕は君に否定されている様に思ってしまう。辛いね。でもお願い、受け止めて。」
「・・・・・ッ」
「僕は、君と出会えて本当によかった。感謝している。僕を僕として接してくれる君の関わり方には本当に救われたよ。」
「ファウスト、もうやめよう」
「・・・泣かないで、ネロ」
震える声でネロが呟く。その明けの明星が輝く朝焼け色の瞳からは今にも雫が溢れそうになっている。
優しく諭す様にファウストは続ける。
「最高の食事と酒、他愛のない話と子供たちの話。そしてお互いについても、そう、話せる様になったね」
「・・・もう、ファウスト、俺・・・」
「僕は一度ならず二度死んだ身だ・・悔いはない。どんなに英雄だと崇められても、それに見合う皆が想像する劇的な死じゃなくて、こうも普通な要因で旅立つんだ。人間も魔法使いも同じだ。」
かつて人間と袂を分かった過去をファウストは思い出しているのだろう。
「僕はやっぱり英雄なんかじゃない。嬉しいよ、僕はただの中央生まれのファウスト・ラウィーニアなんだ。病に倒れたことでそれを感じてしまうなんてなんて皮肉なんだろうね。でも君と過ごす中でも同じことを感じれた。もう誰とも、僕が僕として在れる、同じ目線で生活をするなんて出来ないと思っていたから・・・本当に感謝している。悔いはない。」
「そんなの俺だってそうだよ!!!!」
思わず声を荒げる。それはネロ自身も全く同じことだったからだ。
一人をずっと好んでいた自分が、また誰かと一緒にいてもいいと思えた相手。
欲しい言葉をくれる人、厳しい言葉をくれる人、そして決して自分を見捨てない人。
自分だけなじゃい、今ファウストを失って悲しまない奴はいない。
若干の沈黙。
窓の外では二人の空気を心配する様に木々がざわめく。
口を開いたのはファウストだった。
「でも、ただ一つだけ、悔いはないって言うのは、嘘」
「なに・・・?」
「・・・君の料理が食べられなくなったのはだけは悔しいよ・・・食べたいと思うのに、食べられなくて、喉を通らなくて、吐いてしまうのが申し訳ないと思ってる。いつも僕のために作ってきてくれたのに、本当に申し訳ない」
「ファウスト、何言ってんだよ・・・そんなことなんとも思う訳ねぇだろ?・・・分かってるだろ、俺が好きで作ってるんだよ・・」
食べられないことを知っている。そんな奴に食事を持っていくなんて酷いことだ。
犯された病のせいで、症状をコントロールする薬や魔法のせいで、食事の匂いだけでもファウストが気分を悪くすることをネロは知っていた。だから、断った。最初は。
でもファウストが、少しでも、見た目だけでも、とネロに料理を作って欲しいと望んだのだ。
ネロが好きで作っていると言うのは、ネロのせめてもの気遣いだった。
「知ってるよネロ。ただ僕のために、もう料理を作ることができない事実を君に与えることになってしまった事を悔しいと思っているんだ。魔法で食道を通り越して僕の胃に君の作った料理を入れる事だってきっと出来る。でも僕も君をそれを提案することはなかったね。魔法を使わない君の料理へのポリシーを知っていたから。
口の中で味わうことはできる、でもそうすると喉を通らない君の料理を吐き出さないといけなくなる。君はそれでいいと言ってくれた。でも、僕は嫌だった。君の思いを吐き出すなんてできない。」
作られた料理を眺めるだけでもそれは幸せなことだった。でもきっとネロはそれを口に含んで咀嚼されファウストの一部になるその瞬間が好きなのだ。
「僕のために食事を作る幸せと食べてもらう幸せを満たせなくなったことだけは、悔いるよ。」
「あんたが、それだけ俺を理解してくれてることでもう十分だから、なあ。もう苦しむな・・」
ベッドサイドに寄り添うネロは自身の膝の上でぎゅうと拳を握る。
それを一瞥してファウストは再び口を開いた。
「…ねえ、ネロ。僕のお願いを聞いてくれる?」
重苦しく切々とした空気が流れる。
ネロは黙って言葉を紡ごうとしているファウストを見つめている。
一呼吸しファウストは言葉を続けた。
「僕に、君の魔力をくれる?」
魔法使いにとってそれはあまりにも重大で死活問題だ。でもネロは即答する。
「俺の魔力なんか全部やるよ!それでファウストが助かるなら全部、全部!!俺が代わりに石になるから!!!」
眼窩の奥から溢れる雫はネロの頬を伝って落ちる。
「そうじゃないよネロ。僕は怖いんだ。苦しんで死ぬのが怖い。かつて沢山の仲間や慕ってくれる人たちを殺しておいてなんて往生際が悪いんだって思うけど、怖いんだ・・・」
「前に厄災との戦いで死にかけた時も、処刑台にたって火に炙られた時も、怖くはなかったのに。今、死が怖い。」
「ファウスト・・・・」
自身の本音を苦しそうに告白するファウスト。
なにも悪くないはずなのにやっぱり今でも過去を引きずりその死の間際までそれは彼を苦しめている。
なぜ彼がこんなにも苦しまないといけないのかとネロは憤りを感じた。
「だからお願いだネロ。君の魔力で僕の苦しみを和らげて欲しいんだ。自分がこの後どうなっていくのか理解している。何人も同じ病で倒れた人間や魔法使いを見た。体だけじゃない、心も苦しい。不安と恐怖が襲ってくるんだ。だからこそ怖い。
でもその行為は君から魔力を奪うことになる・・・・だから無理は言わないよ。」
「・・・・ファウスト、俺にしかそれ、言ってないんだろ?」
「どうだろうね・・・・」
ファウストの手がかすかに動く。その手がぎゅうと固く握られ震えるネロの拳に重なった。
その重なりからじんわりと熱が帯びて広がる。
暖かい。人の肌の暖かさ。生きている、とネロは思った。
「うん、出来るよ、先生。生徒としての、最後の試験。やるよ。」
「よく出来た生徒で僕も嬉しいよ・・いい子だ」
ネロの方に顔を向けてファウストは弱々しく微笑んだ。
握られたネロの拳はいつの間にか解かれ重ねられたファウストの手を握っている。
その熱を逃さない様に、感じる様に、しっかりと、しっかりと握られていた。
(怖いよな、苦しいよな、あんた、ほんとに強いよ・・・・もっと楽に、どうして最期くらい楽にしてくれねえんだよ・・・・神様ってやつは・・)
▽
冬が来て、ファウストの誕生日が来る数日前に、彼は石になった。
苦しむことはなく、眠る様に、その姿を石に変えて。
希望通りネロの魔力が彼に安らかな生を全うさせた。
残された薄紫色に光るその石はかつての彼の様に美しく強く芯から輝きを放っている。
そのマナ石を見つめながらネロは、人肌の熱がなくなっても本人の本来の姿形が残る人間を羨ましく思った。
見慣れた石のはずだった。でもそれがこんなに苦しくて悲しくて呼吸ができなくなるんじゃというほど辛いなんてネロはこの時初めて知ったのだった。
かつての相棒を殺そうとした自分からしたら考えられない。
そこまでにファウストが自分の一部となり生活に溶け込んでいたんだと知る。
ネロは石となったファウストを彼の過ごした家のベッドにそっと置いた。
そうすると彼がそこに居るかの様に感じられた。
ファウストの最後の試験には続きがあった。
『僕が石になった後、その石は砕いて、壊して、誰の目にも触れない様に弔って欲しい』
『残していった魔法使いたちに僕の死が悲しみを与えない様に風化させて欲しい』
そう言い残した。
ネロは石を見つめながら思う。
誰がそんなことが出来るのか。皆が、誰しもが慕うファウストの事を、たとえ石が消えたとしても誰が忘れるものか。
みんな生きてる限りきっとファウストの事を忘れないだろう。
だって彼はもう既に一国の一部として、見た事も無い人にさえ存在を認識されているのだから。
だったらせめて・・・。
この石が目に触れない様に。
誰の目にも自分の目にも触れない様に。
永劫の封印を施そう。自分の残ったすべての魔力で。
自分だけがずっとこの石を守れる様に。
ネロはファウストのマナ石を手に取りゆっくりと口付けた。
そしてそれを再びベッドに置くとゆっくりと部屋を後にする。
家のドアを閉め、周りの精霊たちに魔法を使う事の許しを請うた。
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ー魔法使いは約束しない。もしその約束を破れば魔力を失うー
『ネロ、僕が石になった後は、石を砕いて壊して。誰の目にも触れない様に。僕の死がみんなを悲しませない様に…
約束して欲しい』
ネロはファウストと約束をしていた。
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「・・アドノディス・オムニス・・!」
ネロは封印の呪文を唱える。
施した封印を解く鍵を己のマナ石と定めて。
今この瞬間、約束が破られた。彼との約束は守られず、そして魔力を失って魔法使いではなくなったネロは永遠に石にはならない。
(さよなら、ファウスト・・・俺、ちゃんといい子にできただろ・・・)
未来永劫、ずっと、永遠に、ファウストのマナ石は彼がネロと共に過ごしたこの家に、彼を愛する精霊達が見守る嵐の谷に封印された。
解説
約束を破ると魔力を失うだけで魔法使いのままかもしれない(=石になる)ともおもったけど、人間と同じなるのでは?、そうしたら死ぬ時は石にはならないかもしれないという感じです。
追記
最新メインストを踏まえて、ネロが石を食べるのか問題が発生してしまったが、果たして…。