ロナ生誕祭2022電気もつけずに事務所のソファーへ倒れ込むように横たわった。退治の仕事を終えたばかりで衣装も汚れている。こんなところで横になっていないで早くシャワーを浴びて、明日に備えるのが正しい。そうわかっているのに、躰は鉛のように重たくて起き上がれなかった。
(…………足りない、)
頭の中でずっと怒鳴り声が聞こえる。立ち止まるな。何をしている。未熟者。実力不足な奴。努力が足りない。使えない奴。もっと走れ。もっともっと役に立て。もっともっともっと――、何もかもお前は足りていない。
(……わかってる)
足りないものが、あまりにも多すぎた。そんなことはいつだって自覚していた。むしろ自分は持っている物の方が少ないのだから。空っぽな胸はいつだって自分を睨むように見ていた。
その空虚を埋めなければいけない。それは世界から兄という立派な退治人を奪った自分の使命であり義務であり、そして目標だった。目標なら、夢ならば、ひたむきに突き進め。休むな。お前のエゴだろう。そうわかっている。けれども頭の声があまりにもうるさくて。
のろのろとコートの内ポケットから煙草を取り出した。潰れかけた箱から一本抜き取り、一緒にしまっていたライターで火を灯す。ゆらゆらと小さな炎が煙草の先端を燃やし、フィルターに口をつけ深く息を吸い込んだ。頭の芯をじんと痺れさせる煙が肺腑を満たしていく。そうすると少しだけ声が大人しくなる気がした。
(煙草……、買ったの昨日だったっけ。また買わないと、もうなくなっちまう)
減るペースが早くなっていることは自覚していた。このままだとヘビースモーカーになってしまいかねない。それとも既になっているのだろうか。
(……でも別に、どうせ独りだし。誰かに迷惑かけているわけじゃねぇし、いいか)
じゅわりと火が色濃く光る。赤く燃えるそれはどうしてか氷よりも冷たいものに見えた。触っても熱くないんじゃないだろうか、そんな錯覚を与えるくらいには。
暗い部屋の中を煙が静かに広がって、闇を濁らせていった。そうすれば些末な錯覚などどうでもよくなり、束の間でも張り詰めていたものが解けて、今だけは息ができる気がした。
(……馬鹿らしい、息がしにくいのなんて自業自得なのに)
未熟だから、足りないからこそ息苦しいのだ。それなのに立ち止まるなんて、愚かしい! ああ――、うるさい。煙を深く吸った。束の間の静寂が訪れ、冷たい火が燃える。
はじめて煙草を買ったのは、ほんの気まぐれだった。退治帰りに立ち寄ったコンビニで目に留まり、気が付いたら買っていた。買ったことがないけど、そういえばもう自分も買える年なのだな、と気が付いたら適当な銘柄を店員に告げていた。
レジ横にあるガムや飴を買うのと同じくらい気まぐれの行動の意味など自分でもわからない。ただ昔どこかで煙草を吸うと緊張が和らぐと聞いたことがあったのはたしかだ。今思えばそれがずっと頭の片隅に残っていたから、あのとき手に取ったのかもしれない。無意識に自分は、解放されたいと願ったのか。
(……解放? 俺は自分の目標に、自分のために、向かっているだけだろ)
それなのに足りない。走ってももがいても、足りない。煙をくゆらせ煙草は短くなっていく。こんなまやかしで空虚を誤魔化しても無意味なことはわかっている。だからこれを吸い終わったら、起き上がらないといけない。けれど少し、つかれ――。
ふっと、意識が浮上したときに感じたのは疲労ではなかった。やわらかなぬくもりとふわふわと食欲を誘う匂いが鼻腔をくすぐり、ロナルドは顔を上げた。いつの間にか事務所のデスクに突っ伏して眠っていたらしい。ノートパソコンには無意味な英字が打刻された痕跡が残っている。目を擦り伸びを一つすると肩からずるりと何かが滑り落ち、ロナルドはとっさに手を伸ばした。
いつも羽織っているジャージだ。最近は暑いからしまっていたはずだけれど、なぜここにあるのだろう。考えたのはほんの数秒のことで、すぐに答えは隣の居住部の扉から現れた。
「おや、お目覚めかね? 寝坊助ルド君」
ドレスシャツにエプロンをまとったドラルクが目を細めて笑っている。その肩の上にはジョンがいた。彼らの背後の居住部からはさっき以上にいい香りが漂い、ロナルドは鼻をひくつかせた。肉っぽい匂いと、甘い匂いもする。デザートも何か作っているのだろうか。
「ドラ公、今日の飯なに?」
「ふっふっふっ、何だと思う?」
妙にもったいぶるな、と思った。いつもは得意げに答え、畏怖して食べるがいい、なんて軽口を叩くものなのに。首を傾げながらも立ち上がれば「まぁ、ちょうどできたからおいでよ」とドラルクに手首を握られた。
「あ? なんだよ、この手」
「この城の城主たる私がわざわざエスコートしてあげようと言うのだよ」
「俺の事務所じゃボケ! エスコートなんかいるか!」
「まぁまぁ、いいからいいから」
「ヌーヌー」
殺して振り払うのは簡単なことだったけれど、ジョンも一緒になって宥めてきたものだから思わず拳を引っ込めた。招かれた居住部は電気が灯されておらず暗かった。ドラルクと使い魔のジョンにはよく見えるのかもしれないが、さっきまで蛍光灯に照らされた事務所にいたロナルドには何も見えない。手探りならぬ足探りでサンダルを脱いだ。電灯のスイッチへ手を伸ばそうとしたが、無視をされて引っ張って歩かれる。おい、と声を掛けても「いいからいいから」「ヌヌヌヌ、ヌヌヌヌ」と上機嫌な声にかき消される。
いったい何だと言うのか。訳がわからないのにそれでも殺さないのは、なんとなくドラルクがからかうつもりで手を引いているわけではないのがわかったからだ。それにヒヤリと冷たい体温はこの暑い最中には気持ちいい。きっと理由なんてそれだけ。そう、それだけのはずだ。
何にもぶつかることなく、ダイニングテーブルがあると思しき場所へ導かれた。エスコートする、そう宣言した通りドラルクの冷たい手が離れロナルドの椅子を引く音がした。視界は相変わらず暗いけれど、テーブルの上からは胃をダイレクトに刺激する美味しそうな匂いがしている。見えないのにすでに涎が湧き上がってきた。
「おい、いい加減電気――」
カチッと何かの音が聞こえるのと同時に、すぐ目の前で小さな炎が浮かび上がった。蝋燭の、灯りだ。正確にはライターの火から移された蝋燭がゆらゆらと揺れながら、大きなホールケーキの輪郭を浮かび上がらせていた。
「誕生日おめでとう! ロナルド君!」
「ヌンヌヌヌヌヌヌヌヌ! ヌヌヌヌヌン!」
ほとんど同時に一人と一匹から言われ、ロナルドはぽかんと口を開けた。誕生、日。そういえばたしかにそろそろだった。けれど言われるまですっかり忘れていた。独り立ちしてしまえば子どものときと違い、誕生日なんて単なる平日の一日でしかない。たまに予定が合えば半田やカメ谷が食事に誘ってくれることもあったけれど、それだって当日ではないことの方が多かった。まさかこんな風にドラルクたちからおめでとうを言われるなんて、夢にも思わなかった。
そのうえ蝋燭の炎は、祝いの言葉とロナルドの名前が流麗な字で綴られたチョコレートプレートまで照らしている。近くには唐揚げとオムライスが用意されているのも見えた。いっそ現実味がない目の前の光景にロナルドは言葉を失った。
じんわりと胸の中にあたたかいものが込み上げる。なんだこれ、何この気持ち。いっそ懐かしくもあるこれはいったい、何だったっけ。
「ほらロナルド君、火を消したまえ」
「ヌー」
「え、あ、ああ……」
促されてぼんやり返事をする。蝋燭の灯りはぼんやりとドラルクとジョンの顔も映し出していた。珍しく邪気のない表情をドラルクはしている。ジョンはいつも通り、いやいつも以上にかわいい。そんな二人が一緒になって「おめでとう」を自分に寄越している。
火を消すのがもったいないな、なんて一瞬思った。今この瞬間を切り取って保存できたらいいのに。らしくもなくそんなことを思った。けれど写真は違う気がした。それにそもそも自分のスマホではドラルクは写らない。……次の機種変更のときには、もっと高性能のものにしてもいいかもしれない。駄目だ、思考がまとまらない。ふわふわとしている。
だからとりあえずは、すうっと息を吸った。そのまま大きく息を吐き出せば蝋燭の炎は、じゅっと音を立てて消える。闇の中に薄い煙がたゆたう。煙って、こんなにもあたたかい名残の証だったっけ。まだ部屋は暗いのに、なんだか目の前がちかちかと眩しかった。
そう感じているうちにパッと電気が点けられ、本当の眩しさにロナルドは思わず目をすがめた。眩い視界の中でも、テーブルの上にご馳走としか呼び用がない料理とケーキたちが賑やかに並んでいるのが見えた。カチン、金属質な音に視線を向ければ、向かいの席でドラルクがライターの蓋を閉めていた。あれは昔、ロナルドが煙草を吸うのに使っていたものだ。そういえば最近見た記憶がないけれど、コイツが持っていたのか。
何だか魔法でも見たみたいな気分だ。おんなじライターの火だったのに、独りで煙をくゆらせていたときとはまるで違う冷たいものに見えた。けれどさっき灯された火はすごくあたたかかった。
ずっとずっと、忘れていた。自分は幼い頃はたしかに知っていたのに。けれど今、思い出させてもらえた。胸の奥が切なさにも似たものできゅうっと締め付けられた。
「さ、食べたまえ。本来ならケーキは食後だが、今日は先に食べても――」
「ドラ公、ジョン、」
呼んでおきながら未だ思考はまとまっていなかった。それでもただ黙って当たり前の顔で受け取ることなんてとてもできないから、したくないから、ロナルドは口を開いた。
「その…………、ありがと、な」
ヌー、穏やかでかわいい返事はすぐに返ってきた。けれどドラルクは赤い瞳を丸くして何も言わなかった。きっと一秒後には指をさしてからかわれるだろう。いつもこんな風に素直になんてなれないから、ここぞとばかりにドラルクはからかうに違いない。でも笑われたとしても今日はすぐには殴らないでおこうと思った。……あまりにもしつこくからかわれたら、やっぱり殺してしまうとは思うけど。
はたして吸血鬼は唇に三日月のような弧を描き――、そうして言った。
「――こちらこそありがとう」
え、とロナルドは思わず息を呑んだ。なぜお礼を言われたのかさっぱりわからなかったし、それ以上に、ドラルクのそんなやわらかな微笑みは、はじめて見て。心臓がドクリと音を立てた。
「さぁ、取り分けてやるから食事にしたまえよ。ジョンも限界だってさ」
「ヌー」
そう言われてしまえば疑問は言葉にはできず、ロナルドは曖昧に頷きながら目の前の取り皿をドラルクに差し出した。
「何から食べるかね?」
「え、あー……、じゃあケーキ」
「ヌンヌ!」
「ふふっ、今日は特別だからね」
笑う声はやはり穏やかで胸がそわそわした。その正体はまだわからないけれど、なんだか胸の中で小さくてあたたかい炎が灯されたようで悪い気持ちはしない。それこそバースデーケーキに灯された蝋燭みたいな、気持ちだった。
――生まれてきてくれてありがとう。