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    tako__s

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    tako__s

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    とあることがきっかけで千冬との結婚を決めた場地。
    でもふたりの関係は恋人ではなく、友人。
    おまけに片や無自覚、片や拗らせている片思い。
    もどかしいふたりがくっついてハッピーに結ばれるばじふゆです。

    ※色々捏造してます。
     広い心で読んでやってください。

    0日婚するばじふゆの話 もっと早くこうすればよかった。
     照れくさそうに笑う顔を見て、そう思った。

     震度4の地震が都内を襲ったのは先月の話だ。危惧されていた余震はなく、今は何事もなかったかのように平和な日々をおくっている。しかし、地震があった日の都内はそれはもうひどいものだった。
     発生時刻は夕方。帰宅ラッシュの時刻だった。電車は全線運休。そのためバスやタクシーに長蛇の列ができ、スーパーやコンビニからは日用品と食べ物が消えた。
     でも日本の物流は優秀で、店からものがなくなったのはその日だけで済んだ。不安が消えず、ものを買い占める人間は確かにいたようだけど、夕方のスーパーには値引きシールが貼られた惣菜や弁当がいくつか残っていた。
     一人暮らしの一虎は飯の心配をしなくて済むと安堵していた。その言葉を鼻で笑うと、お前もだろ、と目を細めて言われたが、そうだとは言えなかった。あの日を境に、オレはコンビニ弁当と疎遠になったからだ。
     地震発生時、オレは職場にいた。診察時間後だったため、客はいなかった。隣県で行われている会議に出席し、病院から離れた医院長から電話がきたのは地震発生から十五分ほど経った頃。預かっている動物達を落ち着かせたら、直ぐに帰宅をするようにと言われた。その意見に全員が賛同した。
    「場地くんも連絡とってきたら?」
     家族の安否確認をし終えた人間にそう声をかけられたので更衣室へ向かった。カバンに入れていたスマホを取り、軽くタップをする。明るくなった画面に五件の通知が表示された。個人のメッセージが一件とグループメッセージが四件。内容を確認すると、メッセージの発信源は全て千冬だった。だろうな、と思っていたから驚きはしない。メッセージがきていなかったらオレから送るつもりだった。
     通知がきたグループはオレとおふくろ、千冬と千冬の母ちゃんのものだ。個人宛も、グループ宛も、メッセージの内容はどちらとも安否を確認するものだった。個人宛のメッセージに、大丈夫、と返信した直後、グループメッセージより個人宛のメッセージの方が時間がはやいことに気付いた。
     そのときだ。
     千冬と結婚しようと決めたのは。
     少子化問題があるなかで、国が正式に同性婚を認めたのは労働人口を減らさないようにするためらしい。聞いたこともない分野の専門家曰く、パートナーがいることで自殺率が大きく減るそうだ。尤もらしい言葉を並べ、小難しいデータを見せながらそう言っていたが、オレにはよく分からない。
     だけど仕事終わりに千冬のアパートに飯を食いに行ったとき、明るくてあたたかい部屋とお疲れさまという声に出迎えられて心が和んだことは何度もあったし、その度に漠然と、でも確実に、いいな、と思ったことも確かだ。少なくともあの理論はオレには当て嵌まっている。
     安否確認のメッセージを見たとき、そのときの温もりを思い出した。
     思い立ったが吉日。送ったメッセージはまだ既読になっていないのに、仕事終わりに寄ってもいいかと連続でメッセージを送った。既読がついたのはその直後。千冬は理由を聞くこともなく承諾の返事をくれた。それを確認して、グループメッセージへ、大丈夫、とだけ送った。
     おふくろと千冬の母ちゃんも無事で、その日はふたりで一晩を過ごしたらしい。ひとりぼっちはいくつになっても不安なのだ。
     
    「結婚しねぇ?」
     場所は玄関。靴を脱いで、立ったまま。プロポーズはロマンチックのカケラもないものだった。受けた千冬も口を半分開けたままの間抜けな顔だったし、服装もスウェットの上にエプロン。おまけに手には菜箸を握っていた。
     その姿を見ずとも飯の用意をしてくれていたのだとすぐに分かった。エアコンで暖められた部屋は食欲をそそる香りで満ちている。
     後ろでニュースキャスターの声が聞こえる。どの局も、取り上げるのは地震のことばかりだ。きっと、店からものがなくなったことも流れている。普段頼りにしているコンビニ、スーパーが使えないから、飯のためにここに来たのだと思っていたのだろう。
    「え……け、え?」
     分かりやすく千冬が動揺する。でもその顔に嫌悪感は見えない。ホッと胸を撫で下ろして、不安だったことに気付いた。同時に、緊張していることにも。
    「今日さ、地震あっただろ?」
    「は、はい」
    「周りが家族の安否確認するってなったときに、千冬の顔が浮かんだんだ」
     千冬が大きく目を開く。その反応に、どうしてか表情がゆるんだ。
     もちろん、おふくろのことが気にならなかったわけじゃない。でも、おふくろと同じくらいに千冬のことも心配だった。もしも何かあったらと考えて、微かに手が震えた。メッセージがきて、無事だと分かったとき心底安心した。メッセージの送信時刻に気付いて、きっと千冬もオレと同じなんだと思った。
     オレと千冬の関係は、家族となにが違うのだろう。
     オレか千冬に特定の相手がいたら、こうはならなかったかもしれない。でもオレも千冬もここ数年は女っ気がない。オレは獣医という夢を叶えることに必死で、千冬もペットショップを開業するのに全力を注いでいたから、色恋にうつつを抜かす時間はなかった。
     オレはいい。自分がしたいことをしてきたのだから。でも、千冬のペットショップ開業はそうじゃない。ガキの頃にオレがぽろっと溢した夢の話を千冬が拾って、大人になるまで大事にしてくれたから、こうなってしまったのだ。
     高校と大学では彼女がいたと聞いている。決してモテない訳じゃない(むしろ大学時代は引手数多ってやつだった)千冬に恋人がいない原因の半分は、きっとオレだ。こんなことを言えば千冬はムッとするかもしれない。自分が好きでしているんだ、とか、オレのせいじゃない、とか言う千冬の顔は安易に想像ができる。
     責任、とは少し違う。千冬の人生に影響を与えた自覚はあるし、申し訳ないとも思う。でも一緒になろうと思った一番の理由は、想像がつかなかったからだ。千冬が隣にいない未来が、一体どんなものなのか。もしもいなくなったら、なんて。考えるのも嫌だ。
     ついでに白状する。他の人間の隣で神に一生を誓う千冬の姿を見たくなかった。
     一度だけ、その姿を想像したことがある。
     したくてしたのではない。偶然テレビで結婚情報誌のCMが流れて、それに出ていた俳優を見たエマが、千冬に似てる、なんて言うから。頭に浮かんでしまったのだ。
     エマ曰く、その男は戦隊モノでブレイクした旬の俳優らしい。歳は確かに同じくらいに見えるが、全然似てなかった。それなのに、名前も知らない女優の隣にいるその男がだんだん千冬に見えてきた。エマがしつこく「似てるよ、よく見て、もっと見て」と繰り返し言っていたせいかもしれない。
     花びらが舞う青空の下。純白の衣装を身に纏い、穏やかに微笑みを向かい合わせる二人。誰がどう見ても幸せの象徴ともいえるその絵が、オレには受け入れられなかった。風邪の引き始めみたいに背中の辺りがゾワっとして、すぐ頭の中から強制削除した。
     こんなことを言ったら、昔からの仲間には子供の独占欲の延長だとか、そんなもので千冬のことを振り回すなと怒られるだろう。そうかもしれないと自分でも思う。それでも、手離したくなかった。どうしても手離さなくてはいけないのなら、オレの頭から千冬の存在をキレイに消して欲しい。跡形も残さないくらいに、さっぱりと。
     こんな自分勝手な感情を悟られてはいけない。そう思って、オレは尤もらしい理由を並べた。オレ達もいい歳だから、三年婚姻関係が続くと国からもらえる給付金の申請は今年で終わってしまうから、アパートの更新が近いから。オレの言葉は重ねれば重ねるほどしどろもどろになったけど、千冬はやわらかく笑って、分かりました、と言ってくれた。いつも通りの顔、いつも通りの声にオレは見えないところで拳を強く握った。ガッツポーズの代わりだ。
     こうして、オレと千冬の結婚生活は幕を開けた。
     といっても生活は今までと大きく変わらなかった。これまでも仕事帰りに千冬のアパートに寄ることはザラにあって、洋服や歯ブラシ、食器や箸だけではなく布団だってオレ専用のものが置いてある。主たる生活場所が変わっただけと言ってもいい。
     寝るだけなら困らないワンルームの部屋を引き払い、千冬のアパートに移ることを決めた。更新が近かったのは嘘じゃない。千冬の部屋は1LDKでオレがひとり転がり込んでもなんとかなる間取りだ。部屋をどう使うかはまだ決めていない。
     アパートから持てるだけの荷物を持って職場に行き、帰りは千冬のアパートへ。荷物を置いて自分のアパートに戻る日が多かったが、疲れてどうしようもない日は泊まって、千冬のアパートから職場に行くこともあった。行ってらっしゃいと見送られることも、一緒に部屋を出ることもした。朝飯を作ってもらって、ついでだからと弁当を持たせてくれた日もあった。その全てがうれしかった。
     そんなことを続けて二週間ほどで大半の荷物は移動ができた。運んだ荷物はオレのものだけではない。オレの部屋にあった千冬の私物でボストンバッグがパンパンになったこともあった。リビングに広げたそれらを見て、千冬は「それ探してたんです」と喜んだ。運送料として千冬がストックしていたちょっといいアイスをもらったけど、全部は食いきれなくて、結局半分は千冬の腹の中に入った。
     使えそうな家具は一人暮らしを始めるという仲間に渡し、古くなったものは処分した。部屋の引き渡し当日は千冬も掃除の手伝いにきてくれて、空になった部屋にしんみりしていた。
    「なんでお前がそんな顔してんだよ」
     さみしそうな横顔にそう言うと千冬は困ったように眉を下げた。やけに大人びた顔をするから、驚いた胸がドキッと鳴る。
    「だって、ここには色んな思い出があるじゃないっすか。今でこそオレの部屋に来てくれてますけど、場地さんの方が一人暮らし始めんの早かったから、最初はオレがここに遊びに来てましたし」
     千冬の口からぽろぽろと思い出が溢れる。よく覚えてるな、と思ったけど千冬の言う出来事は全部オレの頭の中にも鮮明に刻み込まれていた。まるでアルバムを見ているかのような気分になる。管理会社が来るまで、そんな話を聞き続けていたらオレまで湿っぽくなってしまった。
    「責任とれよ」
    「え、なんすか、急に」
    「オメーのせいで、離れんのちょっと寂しくなっちまったじゃねーか」
     肩をぶつけながら理不尽にそう言うと、千冬は一瞬きょとんとして、すぐに学生の頃のように、シシッ、と声を上げて笑った。年齢よりも幼く見えるその顔に似合う笑い方。
    「そんなこと、言わないでください」
     千冬がくるりと体の向きを変える。正面から見つめ合った青色の瞳がやわらかく細まる。
    「場地さんには、新しい家が待ってるでしょ」
     子供に言い聞かせるようにそう言われた、瞬間。オレの中で何かが弾けた。胸の中が騒つく。それなのに、日向ぼっこをしているみたいにあたたかい。未知の感覚に支配されかけたとき、管理会社の人間が来た。風船にゆっくり針を差し込んだように気持ちが萎む。誰かが入ると、この感情は消えてしまうらしい。
     部屋の確認に、千冬が呼ばれた。オレの部屋なのに。千冬も千冬でなんの抵抗もなく部屋の中に入り、案内を始める。その背中を、横顔を眺めながらさっき感じたものがなんなのかを考える。新しい家、という響きが心地よく頭の隅に残っている。

    「で?」
    「あ?」
    「新婚の惚気なんて、興味ないんだけど」
     悪気なくそう言うとマイキーはスプーンを咥えた。チョコパフェの上部にあった丸いアイスクリームはもう跡形もない。さっきテーブルに届いたばかりなのに。マイキーにはこんな華奢なものじゃなくて、カレー用のスプーンで食わせた方が効率がいいと思う。
    「別に惚気じゃねぇだろ」
    「自覚ねーんだ、ウケる」
     久しぶりに休みが取れたと連絡があったのは二日前。マイキーからの連絡はいつも急だ。なのに、不思議なことにタイミングが合う。今回もちょうど休みが重なったため、ファミレスに飯を食いにきた。
    「つか、他になんかねぇのかよ」
     結婚のことは報告済みだ。籍を入れたその日のうちにメッセージを送った。そのなかには、千冬が相手であることも書いてある。
     突然の結婚。しかも、相手は千冬だ。質問責めに遭うことを覚悟したのに、メッセージを送った連中は特に驚く様子もなく、おめでとう、と祝福の言葉が返ってくるだけだった。マイキーだけじゃない。ドラケンからも三ツ谷からも一虎からも、返ってきたのは似たような内容だ。正直、拍子抜けした。
    「んー、強いて言うなら」
    「おう」
    「遅かったな」
    「……はぁ!?」
     このタイミングでオレか注文したステーキが届く。思ったよりも低い声が出たせいで、店員がびくっと肩をふるわせた。すすすステーキです、なんて声まで吃ってしまったので申し訳ない気持ちになり頭を下げたのに逆に謝られた。
    「遅かった、ってなんだよ」
     店員がいなくなり、気を使うものがなくなるとオレはすぐにマイキーを詰めた。マイキーはパフェの真ん中に敷き詰められたコーンフレークを掘っている。チョコレートシロップをたっぷり吸い込んだそれは見るからに甘そうで歯が疼く。
    「そのまんまの意味。もっと早く結婚すると思ってたからさ」
    「……オレが?」
     思わず首を傾げる。その言葉はタケミチにこそ向けるべきだと思うが。恋人との付き合いは長く、結婚の意思もかたいというのに自分の立場を気にして未だにプロポーズができないと嘆いていた仲間の顔を思い出す。
    「場地が、っていうか、場地と千冬が?」
    「……意味わかんねぇ」
     聞けば聞くほど謎は深まる一方だ。頭を使ったせいで余計に空腹が増す。音と匂いに誘われて、我慢できずにステーキに手をつけた。昔はドラケンと何皿食えるか、なんて競っていたけど、今は美味いものを腹八分食えれば満足できるようになだた。それを体に教え込んだのも間違いなく千冬と、千冬の料理だ。
    「結婚以前に、オレら付き合ってすらねーよ」
     添えられていたにんじんをフォークで刺す。マイキーに食うか?と聞くと首を横に振られた。
    「でも場地の隣には千冬で、千冬の隣には場地が決まりだったじゃん。同性婚ができるようになったって聞いたとき、オレは真っ先にお前らの顔が浮かんだけど」
     オレの真似をするように、マイキーがスプーンでバナナを突き刺す。いる?と聞かれたので同じように首を横に振って断る。
    「それ、他のやつにも言われた」
    「はは、だろーな。オフクロさんには?」
    「お前らと似たような反応だったよ。もっと色々言われるかと思ったけど、幸せになれよ、って」
    「涼子さんらしいじゃん。そいや、結婚式とかやんねーの?」
    「やんねーよ。時間も金もかかるだろ」
    「まあ、そうだろうけど」
    「それに、」
     オレと千冬の結婚は、そういうやつじゃない。そうと言おうとしたのに、その言葉は喉の真ん中でつかえた。まるで外に出すのを拒んでるみたいだ。声を出せずにいると、マイキーがくるりとスプーンを回した。ステーキソースの香ばしさにずしりとした甘い匂いが混ざる。
    「何考えてんのか分かんねーけど、結婚するってことは、そういうことだろ」
     そういうこと。その言葉の意味が分からず顔を顰める。オレの反応を見て、マイキーは冷ややかに目を細めた。やれやれ、という効果音が似合う顔を左右に小さく振る。
    「場地って、昔から本当に鈍いよな」
     マイキーが口を開いたのと同時に、ポコポコと間抜けな音が響いた。スマホの通知だ。オレのものじゃない。音に反応して、テーブルに置かれているマイキーのスマホに目を向ける。真一郎くんとイザナくん、マイキーとエマの四人が狭い画面のなかでぎゅうぎゅうになって笑っている家族写真の上にバナーが表示されている。
     通知は電話ではなくメッセージのようだ。手に取ったスマホを暫く見つめて、マイキーは、げっ、と声を出した。
    「なに、どうした」
    「次のレースの打ち合わせあんのすっかり忘れてた」
    「は?大丈夫なのかよ」
    「あんま大丈夫じゃねーかも」
     口ではそう言いながらもマイキーの顔に焦りはない。画面の上で親指が何度か動いたかと思えば、スマホはすぐにテーブルに置かれた。空いた手でグラスを持ち上げて、残ったパフェを一気にたいらげる。
    「つーわけで、行ってくる」
     口の端にチョコレートがついているのが見えて、ついてる、と言いながら指で示す。指摘を受けて、テーブルに備え付けられている紙ナプキンではなく手の甲で拭うところがマイキーらしい。
    「あんまココくん達に迷惑かけんなよ」
    「アイツらも慣れてんだろ。自分で言うのもなんだけど、常習犯だし」
     悪びれなく笑う顔に、だろうな、と返す。打ち合わせの失念なんて一大事のはずなのに、その連絡が電話ではなくメッセージなのは、そういうことだ。最終確認に間に合えばいいくらいに思っているのだろう。
    「今度飲み行こうぜ。ふたりの祝いも兼ねてさ」
    「次はちゃんと休みの日にしろよ?あと、もう少し早めに連絡してこい」
    「わかったわかった」
     軽い返事。本当に分かっているのかと溜息を吐く。
    「千冬によろしく」
     そう言いながら立ち上がるマイキーの手には伝票が握られていた。慌てて金を出そうとしたが、お祝い、と言われれば財布に触れていた手を離さざるを得なかった。
    「ありがとな」
    「いいって」
     軽い身のこなしでマイキーが通路に出る。オレはステーキに手をつけたばかりで、まだ三分の二は残っている。どれだけ大急ぎで食ってもマイキーと一緒に店を出るのは無理だろう。早食いは体に良くないとも言われたし、ゆっくり食事をとらせてもらおう。そう思い、フォークを握り直したとき、マイキーがくるりと振り返った。
    「あの千冬が、どうでもいいやつと結婚すると思う?」
     昔からの笑顔を向けられて、手が止まる。
    「場地のことを一番理解してるのは千冬だし、千冬のことを一番分かってるのは場地だと思うよ」
    「……なんだよ、急に」
    「でもさ、言わなくても伝わることって、案外少ないもんだぜ」
     その言葉を残して、マイキーはレジに向かう。もうこちらに振り向くことはなかった。小さな背丈を感じさせない頼もしい背中を無言で見送る。次にマイキーの顔を見るのは、飲み会の席ではなくテレビの画面越しだろう。もしかしたら海外からの中継かもしれない。昔からの付き合いだから当たり前のように会っているけど、アイツは有名人なのだ。
     柄にもなく一頻りしんみりしてから、マイキーの言葉を頭の中で繰り返す。ひとりきりのテーブル。静かに肉を食いながら、ゆっくり意味を考える。
     気になるところは多々あったけど、一番は「どうでもいいやつ」の部分だ。千冬がオレのことをどうでもいいやつなんて思っている訳がない。そんなことはマイキーだって知っているはずだ。昔から千冬がオレに懐いていることも、大人になった今でもそれは変わっていないことも。それなのに、あの言い方。なにか深い意味があるのだろうか。
    「……一番、ね」
     特別味のある響きが擽ったくて、照れくさい。
     千冬は昔からの恋愛ものの漫画やドラマが好きだ。大人になった今も、愛読してる漫画の発売日には本屋に行くし、熱を入れている連続ドラマはリアルタイムで見れるにも関わらずきっちり番組予約をするくらい。その手の映画だって何度も観に行った。恋愛映画には微塵も興味ないオレは感情移入をした挙句ボロボロと涙を流している千冬の横顔ばかり観ていた。千冬がこうなるのは大人になってからではない。中三の頃に二度映画を観に行ったが、あのときも長いエンディングが終わり、周りが明るくなっても千冬は泣き続けていた。それを知っていたから、高校生になって最初の春に観に行った三度目の映画からはオレもハンカチを用意するようになった。千冬は自分のことに案外ズボラで、忘れ物をすることが多かったから。それに慣れてしまったせいで先月観に行った映画でも千冬は潤んだ瞳でオレを見ながら、ハンカチ、と呟いたのだ。オレはハンカチじゃないと笑いながら涙を拭ってやった回数はもう片手じゃ足りない。
     そんな千冬が恋愛や結婚を軽視しているとは思えない。だからこそ、断られる可能性は大いにあった。不安だった。結婚を申し込んだ下手くそなプレゼンで、オレはアイツに、いい歳だから、なんて言ったけど、日本の平均初婚年齢は昔よりも上がっていて、二十六の年齢は不安要素にはならない。オレが知ってるくらいだから、千冬だって分かっているはずだ。最近千冬がハマってるドラマだって仕事に熱を入れるが故に婚期を逃した三十代のOLが上司と秘密でオフィスラブするものだって言っていた。
     それなら、どうして千冬は結婚の申し入れを承諾したのだろう。
     知らないフリをしているけど、客や取引先の人間から好意をもたれているのは知っている。仕事が休みの日に顔を出したとき、ぐいぐいと言い寄られているのを見たことがある。
     店も軌道に乗り始めて、以前に比べて自分の時間が確保できるようになったとも言っていた。でも、結婚したいとかそういう類の話は出ていない。子供が欲しいという理由なら話は変わってくるけど、それなら余計にオレからのプロポーズを受けるのはおかしい。
     オレだから、受けてくれた。
     そう思ってもいいのだろうか。
     自惚れた考えを抹消させようと、コップに残っていた水を一気に煽る。氷が溶けた水は生ぬるく頭を冷やす役目を果たさない。
     どうしてオレは千冬に結婚を申し込んだのか。
     もしも誰かにそう問われたときに、オレが返す言葉と同じ理由だったら、どれだけいいだろう。



    「あの人、ほんっとにバカなんだよ」
     オレの言葉にタケミっちは目を丸くさせた。無理もない。場地さんのことをそんな風に言ってるんだから。酔っ払っているのを引いたとしても、場地さんとオレのことを知っている人間は全員が驚くだろう。
    「喧嘩でもした?」
     即座に首を振る。場地さんと喧嘩をしたことなんて、今まで一度もない。
    「そういうやつじゃないんだけど」
    「うん」
     タケミっちの相槌はなんだか安心する。余裕があるというか、なんでも受け止めてくれそうというか。だからオレはいつもタケミっちに溢してしまう。
    「場地さんと、結婚した、って言ったじゃん」
    「もう一ヶ月経ったっけ?あっという間だよなー」
     もう何度目か分からないおめでとうを受けて、頬が熱くなる。この手の言葉を聞くといつもこうなる。
    「いや、でもオレらの結婚は……なんていうか、タケミっちとヒナちゃんのとは違う、っていうか」
     歯切れ悪く話すと、タケミっちはきょとんとした顔で言った。
    「でも、千冬はずっと場地くんのこと好きだったんだろ?なら、喜ばないと」
     平日の夜でも渋谷の夜は賑やかだ。大衆居酒屋も空席が少なく、タケミっちの声は隣の席の笑い声に潰される。
    「……うん」
     それよりももっと小さくて弱々しいオレの声なんて、せんべいくらいにぺしゃんこだ。

     長年片思いをしていた相手から、告白ではなくプロポーズをされた人間の気持ちを述べよ。
     国語のテストで出たら、なんだそれと眉を寄せるに違いない。それが現実に起こったオレは、気持ちを述べる、なんてもちろんできなくて、ぽかんと口を開けたまま言葉の意味を考えた。
     場地さんのプロポーズは本当に唐突だった。大きな地震があって、無事を確認できたのは良かったけど、スーパーやコンビニからものが消えたと聞いて場地さん食うものあるかな、なんて心配していたときに連絡がきて。ああ、食うもんがないんだって思い込んだ。安心して下さい、松野食堂は昨日食材を仕入れたばかりです、なんて胸を張って料理を作っていた、その途中の出来事だった。
     ただただ、自分の耳を疑った。結婚、なんて。まさかそんな。正式に同性婚は認められたけど、問題はそこじゃない。オレと場地さんは結婚が話題にあがるような関係ではない。付き合いは長いけど、ただのダチだ。恋人との距離は、少なく見積もっても東京から沖縄くらいあるだろう。
     でも、オレは場地さんが好きだった。それに気付いたのは高校生の頃。場地さんに初めての彼女ができたときだ。笑顔をつくって、口からは祝福の言葉がこれでもかと言うほど出たのに、部屋で一人になると胸が痛くて、苦しくて、ペケを抱いて泣きながら無理矢理眠った。
     あれから、十年。場地さんの恋愛歴は派手ではない。でも本気の恋をしているようにも見えなかった。いい人そうだから付き合ったらどうかと周りに言われて、それなら、と付き合ってみては結局別れるというフワフワしたものだ。オレはと言えば場地さんのことを諦めたり、やっぱり諦められなかったりを繰り返していた。付き合った子達を好きになろう、大切にしようと思った。思ったけど、全ての気持ちを向けることはできなかった。オレの心の一部はいつだって場地さんを思っていた。
     もう、恋をするのは無理だと思った。恋は味わうだけでいい。外食でしか口にできない難しい名前の料理と同じだ。
     夢だったペットショップの開業は壁ばかりで、自分のために使う時間はなかった。そんなことしてる暇ないんです、と口に出せば本当に興味が薄れるような気がして、その言葉をお守りにしてきた。それなのに。
     どうしていいか分からなかった。嬉しいよりも戸惑いの方が大きくて。もう少しで諦め切れるのにと悔しくなった。でも場地さんの安否確認を誰よりも先にしたことに気付かされて、この人から離れるなんて一生無理なんだと思った。
    「……あの人さ、オレになんて言ったと思う?」
     背中を丸めて、熱くなった頬をテーブルにくっつける。なに、というタケミっちの声よりもグラスを置く音が大きく聞こえる。
    「二十六って、四捨五入すると五十になって、もう一回四捨五入したら百歳になるんだから、そろそろそういうことも意識しなきゃだろ、って」
    「えっ何それ」
     意味分かんない、と真面目な声が聞こえた。予想通りの反応に笑ってしまう。
    「でも……そんなことない、って言えなくてさ」
     学生時代のテスト勉強のときみたいに、正すことはいくらでもできた。計算が無茶苦茶なことを指摘することも、いくつになってもアンタを求める人が一定数いることを説くことだって。
     だけど、一生懸命に話す場地さんを見ていたらそんな言葉は全部消えた。今頃は宇宙の彼方で塵になっているだろう。勘違いだって分かってる。だけど、あの瞬間は本当に口説かれているみたいに思えたのだ。意味不明な言葉すらも愛おしくて、気付けば、はい、と言っていた。
    「千冬?大丈夫か?吐く?」
     タケミっちがぎこちなく背中をさする。その温もりに目の奥がじわりと潤む。大丈夫、と返した声はふるえていなかっただろうか。
     綺麗事、だけじゃないんだ。本当は、心の隅で思っていた。こんなチャンスは二度とない。場地さんが抱えている、いらない危機感を否定せず、このまま結婚してしまえば、場地さんがオレ以外の人間と幸せになる姿を見なくて済む。あのとき、そんな薄汚れた気持ちは確かにあったのだ。
    「ほんっとに、バカだよなぁ」
     場地さんも、オレも。
     誰にも届かない独り言は、周りの楽しい声に弾かれて、虚しく机に染み込んでいく。



     結婚生活。
     その響きに期待はなかった。今までも千冬のアパートに寝泊まりすることは多かったから、大して変わらないと思ったのだ。
    「場地さん、おはようございます」
    「んー、はよ」
     でも違った。朝起きておはよう、夜にはおかえりと言える相手がいる。それだけで人間らしい生活をしている気持ちになる。今までも職場の人間や近所の人に挨拶をすることはあったけど、それとは違う感覚。毎日の挨拶をする相手が千冬だからなのかもしれない。
     役割は決めていないけど、飯は千冬が作ってくれることがほとんどだ。千冬の勤務はシフト制で、オレよりも遅く帰ってくることもあるというのに。そういうときは前日の夜、もしくは朝飯と同じタイミングで作っておいてくれる。だからオレが台所に立つのは洗い物のときくらいだ。甘やかされてる、と実感する。
    「あ、そういえば洗剤……」
    「皿洗うやつだろ?一応買っといたけど、今使ってんのと同じのでよかった?」
    「マジですか!?ありがてぇ……もー場地さんには頭上がりません!」
    「で、同じのでよかったのかよ」
    「はい!大丈夫です!」
     その代わり、にもならないけど消耗品の確認と補充はオレがしている。あとは掃除と、たまに洗濯。もちろん換気扇を毎日洗うとか、シンクを鏡みたいにピカピカにするとか、洗濯物によって洗剤を使い分けるとか、そんなハイレベルなことはしていない。というかできない。オレができるのなんて、せいぜい一人暮らしで困らない家事程度だ。それでも千冬は大袈裟に褒めるから、うっかり自惚れそうになる。危ない。今ドキ、亭主関白ってやつは流行らないどころか愛想を尽かされるって、テレビでやっていた。
    「今日はふたりとも早番なんで、一緒に飯食えますね」
     お湯で溶かしたコーンスープが入ったマグカップを両手で持った千冬が嬉しそうに言う。そうだな、と返す目の前で千冬はスプーンで黄色の塊を掬って口に運ぶ。オレのスープにはダマなんてなかったのに。千冬のことだから自分の分は適当にしたのだろう。まだスープのストックはある。明日から千冬の分はオレが作ろうと決めた。
    「場地くん今日はご機嫌だね」
     院長からの言葉にびくっと肩が跳ねた。そんなにあからさまだったのかと恥ずかしくなる。冷静を装って、そうですかね、と言ったのに、新婚っていいね、と返ってきていよいよ頬が熱くなった。
     帰り道、上を見れば部屋には既に電気が点いていた。早足で階段を駆け上り(オレ達の部屋は二階だ)、ドアを開けると空気はまだ冷たかった。千冬も帰ってきたばかりなのだろう。中途半端な部屋着姿の千冬がひょこっと顔を覗かせる。
    「あっ、おかえりなさい」
    「ただいま」
     完全に引越しを終えて二ヶ月が経つとこの言葉が当たり前になった。おかえりとただいまが逆のことはあるけど、挨拶を欠かしたことはない。
    「すみません、夕飯これからで」
    「いいよ。オレもなんか手伝う?」
    「えー、いいんですか?なら、場地さんには野菜炒めでもらおうかな」
     今日の夕飯は焼きそばだ。千冬が作る焼きそばは具材が多い。食材の買い出しに行く前日に作るから、余っている半端なものを全部入れてしまうのが理由らしいけど、ご馳走っぽくてオレは好きだ。オレが野菜を炒めている横で千冬は味噌汁を作っていた。えのきと玉ねぎの味噌汁。ほんのり甘くて、体が温まる最高の一杯。
    「千冬ぅ、オレの卵入れてほしい」
    「場地さんってば、いけないこと覚えちゃいましたね」
     千冬はニヤリと笑うと冷蔵庫に向かい、すぐに戻ってきた。手のなかにはMSサイズの卵がふたつ。
    「うまいよな、卵入った味噌汁」
    「うまいですよね。これだけでも十分なおかずになりますし。インスタントの味噌汁に卵入れて、あと米があれば普通に腹満たされますし」
     流行りの歌を口遊みながら千冬が卵を割る。透明な白身が一気に色付く様に食欲を誘われて、腹がぎゅるりと鳴る。もしかしたら、千冬も料理をしない日があったのかもしれない。
    「無理、してねぇ?」
    「え?」
    「毎日飯用意してくれんじゃん。千冬の飯好きだから嬉しいけど、疲れてるときは無理にしなくていいんだからな」
     調子づいてフライパンを返すと、野菜と一緒に炒めているしめじがフライパンから逃げ出した。ちくしょうと思いながらコンロの上に落ちたそれを拾い、しれっとフライパンに戻す。千冬が小さな声で笑った。
    「ありがとうございます」
     てっきりしめじのことで笑われたのかと思ったが、どうやら違うらしい。やわらかな笑顔は揶揄うようなものではない。目を離せなくて見つめていると、静かに顔を逸らされた。最後に見えた頬は微かに赤い。
    「お腹空きましたね、急がないと」
     早口で千冬が言う。恥ずかしさを誤魔化すようなそれに胸が鳴る。かわいいと思った。
     千冬はかわいい。顔というよりも(いや、顔もかわいいと思うけど)やることなすこと全部が癒されるのだ。心があたたまる感じは動物の動画を見ているときのものに似ているけど、一致はしない。千冬に抱くのは他のものや他の人間に抱いたことのない感情だ。これに名前をつけるとしたら、何になるのだろう。
    「場地さん、卵いい感じに半熟になりました!」
     嬉しそうに跳ねた声がまた胸を擽る。焼きそばを作り終えて手持ち無沙汰になったオレはそっと千冬の背後に周り、後ろから鍋を覗き込んだ。広がった白身がひとつに纏まって、黄身は表面だけ色を変えている。確かにうまそうだ。思わずもう一歩前に出ると、コンロの火を消した千冬がくるりと振り向いた。近さに驚いて体が後ろに傾いたのが見えて、反射で腕を掴んだ。
    「っ……」
     こっちに引き寄せたのも、鍋から遠ざけようとしただけだ。こんな抱き締めるような形になるとは予想していなかった。
    「ワリ、びっくりした、よな」
     喉がぎこちなくふるえる。腕を離すタイミングが分からなくて千冬の体温はまだ腕の中にある。
    「いえ、大丈夫です……オレこそ、すみません」
     千冬がぽそぽそと喋る。味噌汁と焼きそばのにおいに混ざって千冬の匂いがすぐ近くに感じる。血液量が一気に増えたみたいに心臓が忙しなく動く。
     心音が千冬に聞こえないか不安になって、ようやく腕を離す。千冬は顔を俯かせたままオレから離れた。飯にしましょうという声と、急ぐ足音。オレもふらりとその場を離れて食器棚に近付く。棚から色違いのコップを取り出す。ガラスがやたら冷たく感じて、自分の体温が上がっていることに気付いた。



     月に二回、店頭には出ず裏で事務処理に集中する日がある。パソコンと向き合っていると、控えめなノックが響いた。どうぞ、という声掛けでドアを開けたのは珍しい客だった。
    「店に来るなんて珍しいじゃん。なんかあった?」
     パソコンの画面を切って、立ち上がる。申し訳なさそうに笑う相棒の手には近くのケーキ屋の箱。
    「いや、たまたま近くまで来たから、寄っちゃった。オレ今日休みなんだ」
     そう言いながら渡された箱の中にはシュークリームが三つ入っていた。タケミっちとオレと一虎くんの分だ。生憎、一虎くんは休憩に入ったばかりなのでひとつは冷蔵庫行きだ。
     インスタントのコーヒーを淹れて、テーブルに戻るとタケミっちはスマホを眺めていた。幸せそうな笑顔にこちらまでニヤける。
    「誰?ヒナちゃん?」
    「へへ、分かる?今日はヒナも早く終わるから、飯食いに行くんだ」
     そう言われてタケミっちの服装がいつもよりキレイめなことに気付く。オレと飲みに行くときはよく分からない英文のTシャツなのに。
    「幸せそうでいいな」
    「新婚のお前が言うなよ」
     返答に悩んでいるうたあにタケミっちがコーヒーを口にする。熱い、と小さな訴えが聞こえた。しあわせ、という言葉を思い浮かべながら飲んだコーヒーはミルクを入れていないのになめらかに感じる。
    「そういや場地くんは元気?オレ暫く会ってねぇや」
    「ん。元気だよ。今度遊びにこいよ」
     おう、と軽い返事をしながらタケミっちはシュークリームに齧り付いた。爆発するようにクリームが出て、タケミっちの手を汚す。甘い香りが部屋中に広がる。ここのシュークリームはやわらかい生地の中にカスタードとホイップクリームが半分ずつ、たっぷり入っているのだ。ケーキ屋ができたばかりの頃、場地さんが買ってきてくれたから覚えている。こうなることを予想して、準備していたティッシュを箱ごと差し出す。タケミっちはへこへこと頭を下げるとまとめて三枚ティッシュを抜いて手と口を拭いた。初めてこのシュークリームを食ったとき、オレもこんな感じでわたわたしていた。そのときは場地さんがこうしてティッシュを出してくれて、口を拭いてくれたんだっけ。
     懐かしい記憶を思い出すと、端に避けていた悩みが強引に前に現れた。
    「……聞いてくれよ、相棒ぉ」
     急に情けなくなった声にタケミっちは目を丸くする。
    「え、なに。どうした?」
     口の中が甘くて仕方ないのだろう。オレを心配しながらタケミっちはコーヒーを一口飲む。
    「最近、場地さんがおかしいんだよ」
    「おかしいって、どこが?」
    「距離がスゲェ近ェの」
    「……前からそうじゃない?」
     真顔で聞かれて、そうだったかと考える。確かに場地さんは仲の良い人とは平気で肩を組むし、そのまま街を歩くこともある。でも、オレが言いたいのはそうじゃない。
    「なんか、前とは違うんだよ……飯作ってると真後ろに立ってるし、寒いからかわかんねぇけど、腹の前に手回してくることもあるし、テレビ見てるときだってどこかしらくっついてるし……前はここまで近くなかった」
     懸命に訴えるオレを、タケミっちは冷ややかな目で見る。
    「うわ、新婚って感じ」
     ぶわっと体温が上がった。
    「茶化すな!オレは真剣に悩んでんの!」
     控えめに声を張ってもタケミっちの顔は変わらなかった。そんなこと、と言いたそうな呆れ顔。
    「千冬って、結構鈍感だよな」
    「は?オレ?」
    「うん。結婚してるんだから、そういうコミュニケーションだってあってもおかしくないだろ?」
    「だから、オレと場地さんの結婚はそういうのじゃ……」
     はあ、と盛大に溜息を吐かれた。食べかけのシュークリームを口に運びながらタケミっちが言う。
    「千冬はさ、オレや一虎くんと結婚する?」
     どういう質問だ。即座に首を横に振る。
    「しない」
    「なんで?」
    「タケミっちにはヒナちゃんがいるじゃん」
    「じゃあ一虎くんとは?」
    「一虎くんは、無理だろ。なんか、いろいろ。フツウにダチだし」
    「うん。オレもそう思う」
    「は?」
    「どれだけ仲良くでも、どれだけ一緒に過ごした時間が長くても、結婚ってなったら悩むし、考えるだろ」
    「そりゃ、まあ」
    「場地くんは、確かに勉強苦手だったけど、何も考えない人じゃないだろ」
     真面目な口調で言われて、たじろぐ。タケミっちの言う通り、場地さんは考えなしで行動する人じゃない。勉強は得意とは言えないし、昔は勢いに任せて喧嘩したりすることもあった。でも血の気の多さは年齢を重ねるごとに薄くなったし、人の気持ちをちゃんと考えられる人だ。
    「オレさ、場地くんと暫く会ってないって言ったじゃん?」
    「え、ああ。タケミっち忙しいもんな」
     そう言うとタケミっちは困ったように眉を下げて笑った。静かで、大人びた笑い方に自分の年齢を思い出す。
    「千冬だって、暇じゃないだろ」
     質問の意図が分からない。まあ、と曖昧に返しながら、昔からの仲間に最後に会ったのはいつだっただろうと考える。月単位で数えなければいけないくらいに日が空いていることに気付いた。
    「場地くんも千冬も、自分の時間がとれないくらいに忙しかった」
    「……おう」
    「なのに、当たり前みたいに頻繁に会ってた。それがどういうことなのか、考えてもいいんじゃない?」
     迷い人に正しい道を示す案内人のような、母親が子供にリボン結びを教えるような、そんな言い方だった。
     固まってしまったオレを気遣うようにタケミっちは、てかさ、と無理矢理話題を変えた。その内容が最近ヒナちゃんに注意されたことベスト5というなんとも微笑ましいものだったので場の空気がゆっくり和らぐ。
    「それでさ、オレ食器用洗剤と洗濯用洗剤間違えて買ってきちゃって」
    「はは、そりゃ困るな」
    「どんだけ搾り出しても一滴も出なくて、何も洗えないから夜にヒナとスーパー行ったんだけど、パンがめっちゃ安くなっててさーこれもあれもってカゴに入れてたら、そんなに食べれないでしょ、ってまた怒られて」
    「でも夜のスーパーって面白いよな。安くなってるし、色々見るの分かる」
     場地さんと夜のスーパーに行ったことはない。今度誘ってみてもいいだろうか。タケミっちと同じ反応をするか、それとも色んなものに目移りするオレをヒナちゃんのように叱るか。場地さんは、どっちだろう。
    (……いいのかな、期待、しても)
     心がむずつく。もしかしたら場地さんもオレのことを、なんて思って胸が膨らんでいるのだ。毎日顔を合わせている筈なのに、無性に場地さんに会いたくなる。場地さんへの恋心に気付いた時のことを思い出した。あのときも場地さんに会いたくて仕方なくて、早く朝になればいいのにと目が冴えて眠れなかった。
    「オレも今日は早く帰ろ」
    「おっ、そうしろそうしろ!早帰りは三文の徳っていうし」
    「それを言うなら早起きだろ」
     タケミっちが、そうだっけ、と恍け顔で首を傾げる。口元についたクリームが相俟って、つい笑い声が漏れた。
    「タケミっち」
    「ん?」
    「ありがとな」
     一拍間を空けて、どういたしまして、とタケミっちは笑った。礼の意味を分かっているのかは不明だけど、伝わってなくても別にかまわない。
     残りわずかになったシュークリームは、タケミっちとせーので一緒に完食した。

     優先順位の高い仕事から片付けて、明日に回せるものは全部持ち越した。定時ダッシュ、とまではいかないけど今までで帰り時間は一二を争うくらいに早い。これには一虎くんも驚いて、何かあるのか、と聞かれた。何もない、と言いつつも席を入れてからちょうど三ヶ月経つ日だということに気付いた。三ヶ月なんて社会人になればあっという間だし、記念日と名付けるには浅すぎる。そんな細かく記念日を設定したことは一度もない。ただの平日。そのはずなのに、カレンダーを見たオレの心はふわふわと浮いていた。
     早足で歩いた帰り道。最後の角を曲がった瞬間、らしくないことなんてするんじゃなかったと後悔した。
     目の前にいたのは買い物袋をぶら下げた場地さん。だけなら、よかった。その隣には小柄な女性が立っていた。オレが知らない横顔。エマちゃんでもヒナちゃんでもない女性に向かって場地さんは笑顔で手を振っていた。まるで恋人とのデート終わりみたいな光景に足元がぐらりと揺れた。さっきまで浮かれていた自分が惨めになる。
     場地さんが体の向きを変えた。部屋に向かうのだとすぐに分かって、オレは咄嗟に来た道を戻り、姿を隠した。大丈夫、多分バレていない。
     冷たい風に頬を叩かれて、現実を教えられる。危ない。自惚れそうになった。あくまでもオレは国からの補助金を受け取るためだけのパートナーだ。恋だの愛だのがあって生涯を誓い合う関係性じゃない。分かっていたはずなのに。立場をわきまえていたつもりなのに。
    「い、ってぇな」
     ズキズキと胸が痛む。覚えのある痛み。場地さんに恋人ができたと聞かされる度に感じていた痛みだ。何回も受けたはずなのに、この痛みは慣れない。強くなれない。
     勝手に浮かれて、勝手に傷付いてる。ああ、本当に。どうしようもないな、と口端がふるえる。



     いつもより早い。でも、帰宅の連絡がきた時間を考えると遅い帰宅だった。どこか寄り道でもしていたのだろうか。いつもは雪みたいに白い頬は寒さで赤くなり、表情も疲れ切っている。数十分前にご機嫌なネコのスタンプを送ってきた人間とはとても同じに見えない。心配するなと言う方が無理な状態だ。
    「千冬、なんかあった?」
     そう聞くと、千冬は顔を強張らせた。言葉はなくても、何かあったことは一目瞭然だ。目は口ほどに物を言う。昔千冬が教えてくれた言葉を思い出す。
    「なにも、ないです」
    「は?」
     思いもよらない返事に驚いて、大きい声が出た。どうしてそんな分かりきった嘘をつくんだろう。不思議だと思う以上に隠し事をされたみたいで、なんだかもやもやする。
    「……仕事で、なんかあった?」
     仕事のことだとしたら、まだ分かる。個人情報とか企業機密とか、社会人は外で口に出しては行けないワードが山ほどある。今まで千冬が家で溢した職場の愚痴はそれらを隠した、わたあめみたいにふんわりしたものだった。それでも、今まではしてくれたのに。
    「本当に、なんでもないんです」
     視線を外された。頑なに拒む姿勢に、イライラするよりもショックだった。急に千冬との間に壁ができたように感じて、ぐらり、足元が歪む。
     首からマフラーを抜きながら、千冬が寝室に足を向ける。着替えに行くだけだと頭では分かっているのに、引き留めなければいけないと思った。千冬が持っているマフラーはオレが誕生日に贈ったもので、千冬から離れていくそれが自分と重なったのだ。
    「っ、待って。なあ、どうしたんだよ」
    「なんでもないですって」
    「そんな分かりやすい嘘、オレにバレねぇと思ってんの?」
     手を掴んで無理矢理足を止めさせる。手の甲は氷のように冷たくて、早くオレの体温が移ればいいのにと思った。
    「……いいんですよ、そんな、オレに気使わなくて」
    「はあ?」
     オレを映した千冬の瞳が悲しそうにしぼむ。
    「助成金貰えるのって、三年継続したら、でしたっけ。安心してください、その期間が過ぎたら、ちゃんと籍抜くんで」
    「……何言ってんだよ」
     淡々と告げられる言葉は理解ができず脳が処理を拒む。らしくない、弱々しい声を聞いた千冬は悲痛の顔で笑った。明日世界が終わると聞かされたみたいな顔。
    「その間も、場地さんは好きにしていいですから」
    「おい、千冬」
    「オレのことなんて気にしないで、他に好きな人がいるならその人と、」
    「っ、千冬!」
     こいつは今自分がどんな顔をしてそんなこと言っているのか、分かってるのだろうか。見たくない、今にも泣きそうな千冬の顔を包むようにして頬に手を添える。上を向かせると、細めた瞳の縁から涙がひと粒落ちた。それを見たら、もう止まれなかった。
    「ん、っ」
     これ以上余計なことを言わないように口を塞いだ。手だけじゃなく唇まで冷え切っているのに少し呆れて、唇のやわらかさに驚いた。どうしてキスをするのかなんて、考えたことなかったけど、今分かった。理由は案外シンプルだ。離れて、もう一度唇を重ねて、確信する。気持ちいいからだ。
    「いねぇよ」
    「……え」
    「他のやつなんて」
     千冬がゆっくり瞬きをする。キスの距離のままだから、まつ毛があたりそうになる。肌には触れていないのに、なんだか擽ったい。
    「いらねーし」
     決して裕福ではないし、ないよりもあった方がいいとは思う。でも金が欲しくて千冬と結婚した訳じゃない。
    「千冬がいい」
     いや、少し違う。
    「千冬じゃなきゃイヤだ」
     正しくは、こっちだ。
     オレの言葉を受けて千冬は目を丸くして固まった。無言の時間を過ごすなか、小っ恥ずかしい発言をしたことに気付いてじわじわ顔が熱くなる。
    「……なんか言えや」
     千冬が動きを取り戻す。機械の電源を入れた直後の初期動作みたいなぎこちなさで視線が合う。
    「だ、って、分かんねぇ、すもん」
    「なにが?」
    「なんでオレと、……結婚、したのか」
     結婚、のところだけ声が小さい。不安にさせていたんだとようやく気付いた。
    「そんなん、決まってんだろ」
     なのに、ごめんよりも先に出たのは
    「好きだからだよ」
     そんな言葉。マイキーに知られたらまたバカにされるんだろうな、とぼんやり思う。
    「す、好きって、」
    「うん」
    「どんな好きっすか」
    「……はあ?」
    「だって、色々あるじゃないっすか!犬が好きとかカレーが好きとか、寝るのが好きとか、バイクが好きとか、サスペンスドラマが好きとか、場地さんは好きが多い、か、ら……」
     うるさいと思ったので口を塞いだ。千冬の声がオレの口の中に小さく響く。そのままごくんと飲んでやる。
    「こういう好きだよ」
     そう言った瞬間千冬の瞳が濡れた。不謹慎だけど、潤む青色の美しさに見惚れる。高い宝石より、光を透かすガラスより、千冬の瞳の色の方が澄んでいてキレイだ。宝石の名前なんてたいして知らないけど。
    「……指輪」
    「え?」
    「指輪、買いに行こ」
     今まで気にもしていなかったけど、結婚を形に残すのもいいかもしれないと思った。曖昧にしていたからこそ、余計に。
    「……はい」
     千冬の手がオレの背中に回る。緩く抱き締められて、胸の中で何かが弾けた。
    「うれしいです」
     糸が解けたような微笑みに、オレが欲しかったのはこれだったんだと気付いた。
    「で、お前は?」
    「え?」
    「オレのこと、好き?」
    「当たり前じゃないですか!」
    「それって、どんな好き?」
     さっき聞かれたことをまんま返してみる。恥ずかしがるかと思ったけど、予想に反して千冬は太陽みたいに笑いながら、オレの胸に顔を埋めた。
    「そんなの、決まってるじゃないですか」
     上目気味に見つめられる。あまりの可愛さに、勝手に手が動いた。千冬の背中に回して、抱き返す。ぐっと視線が近付く。千冬が背伸びをしたのだ。
    「結婚したいって、意味の好きです」
     幸せそうな声を出した唇が、ゆるんだ唇にそっと触れた。



    「でも、それならさっきの女の人は……?」
    「女ァ?」
    「はい。アパートの前で……」
    「……ああ」
    「楽しそうに笑ってたから、恋人なのかな、って」
    「ちげぇよ。道聞かれたから、教えただけ」
    「でも」
    「でも?」
    「手振ってました」
    「手ェ?」
    「はい。しかも、めっちゃ嬉しそうに笑いながら」
    「ああ。チビにだよ」
    「え?」
    「三歳……あれ、四歳だっけか?忘れたけど、子供がいたんだよ」
    「こども……」
    「そ。母親と手繋いでたから見えなかったんじゃね?」
    「……」
    「千冬?」
    「なんだぁ……もう、紛らわしいことしないでくださいよぉ……」
    「いや、お前が勘違いしたんだろ」
    「そうなんすけどー……」
    「あー、いや、オレがワリィか」
    「へ?」
    「千冬なら、言わなくても分かるって思ってたから。甘えてたんだ、って気付いた」
    「場地さん……」
    「今度からはさ、ちゃんと言うようにする」
    「……じゃあ」
    「ん?」
    「オレのこと、どれくらい好きですか?」
    「……ふは、そうだなぁ。千冬のことは……」
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