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    tako__s

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    ばじふゆ♀

    タイトル通り。
    はじめてのちゅーするばじふゆちゃんの話。

    松野千冬のファーストキスの話松野千冬は場地圭介を溺愛している。
    千冬のことを知る全ての人間が千冬は場地が好きだということを知っているだろう。おそらくそれは松野千冬が松野千冬であるというくらいに当たり前で、常識と言っても過言ではない。それほどに千冬が場地に向ける好意は分かりやすくて、真っ直ぐだった。

    千冬は場地しか見えていない。助けられたあの瞬間から喧嘩の腕だけではなく場地圭介という人間に惹かれていた。最初は人として、時を重ねるごとに男としても好意を寄せるようになった。
    この感情はこの人にしか抱かないのだろうと思ったし、この胸の騒つきが恋だということは直ぐに気付いた。でも、自分が漫画やドラマから学んだ恋はもっとキラキラしていて、軽くて、やわらかくて、可愛らしいものだ。それに比べて、この日に日に増していく自分の気持ちは重過ぎる。これは告げていいものではないことに気付いた千冬は自分の初恋は尊敬と憧れの後ろにそっと隠しておこうと心に決めた。

    だから場地の告白を受けた時にとても驚いた。元々大きい猫目を更に見開いて、冷凍庫に詰め込まれたアイスクリームのようにぴしりと凍りついた。結ばれるだなんて微塵も思っていなかった千冬にとっては今起こっていることは夢の中の出来事だと思ったくらいだ。恋愛も愛情もある相手からの言葉に千冬は「えっと」とか「でも」と言葉を溢して大きく動揺した。自分と場地が釣り合うだなんて思っていなかった。嬉しさと驚きの中に混ざる不安を場地は即座に見抜き、そして一蹴した。
    「千冬はさァ、オレのこと嫌い?」
    その言葉に、返す言葉は決まっている。
    「ンなわけないじゃないですか!大好きですよ!」
    間を空けず言い切る千冬に場地は八重歯を見せてニッと笑った。大人びている場地が時折見せる、年相応の笑顔が千冬は好きだった。
    「じゃーいいじゃん。オレも千冬のこと大好き」
    笑顔を見ただけで胸の中がぐらりと揺れているというのに、続け様にそう言われて千冬はその場に倒れそうになった。意識を保つのに必死で、その後なにを話したかは覚えていない。

    付き合いを始め、日を重ねていく内に千冬は自分が場地の特別だということを知り、自分ばかりが場地のことを好きなのではないと気付いた。昔から場地をよく知る人間からもそれを聞かされたし、何より場地の態度がそれを物語っている。

    荒々しく人を殴っていた手が自分に触れる時にだけとびきり優しくなるし、他の人には見せない表情を、ふとした瞬間に自分にだけ向けてくれる。硬派な場地の口からは少女漫画のような甘い言葉は出ないけれど、そんなものがなくても自分は好かれている、大切にされていると千冬は気付いている。気付いてはいる、のだけど。



    「なーんで、キスしてくれないんだろ」
    ペケJしかいない部屋でそんなことを呟いてしまうくらいに私は悩んでいる。だって付き合って二ヶ月が経とうとしているのに、場地さんってば全然手を出してくれない。
    厳密に言えば手は繋いだ。まるで店先に置かれたガラス細工に触るみたいな手付きで場地さんが指先を握ってくれたのは、周りに誰もいない帰り道のことだ。
    それはあまりにも突然で、私は空気をぶち壊す素っ頓狂な声を出して勢いよく顔を上げてしまった。私が顔を上げる前に場地さんは横を向いてしまっていたから表情は見えなかったけど、髪を結んでいたせいで隠す場所のない耳は真っ赤に染まっていた。
    はじめてを連想させる不慣れな接触と反応が嬉しくて、私は場地さんの耳と同じ色で顔を染めた。無言のまま指先にそっと力を入れて握り返すと、一瞬手の力が緩んだ。私の行動に驚いたのかもしれない。
    一拍の間を空けて、今度は手のひらがぴたりと重なった。そのまま指の隙間を埋めるみたいにゆっくりと場地さんの指が入り込んで、深く繋がる。ぎゅっと握られた瞬間、あまりの恥ずかしさで私の体温は一気に上がった。それは場地さんも同じだったらしく、手のひらからは私と同じくらいの熱を感じる。
    (…あっつい)
    ちらりと視線を上げると、場地さんも私の方を見ていた。指先に力が入ったのを感じて、私は息も瞬きも忘れて、場地さんから目が離せなくなってしまう。
    「…千冬、」
    緊張で少し掠れた声で名前を呼ばれて、私は息を飲んだ。もしかしたらこのまま、と思い目を伏せかけたとき、前から小学生の子が聞こえてきた。場地さんと私は同じタイミングで手を離して、不自然に顔を反対に向けた。皮膚が破れそうなくらいの胸の騒つきを知らない男の子たちは夕方からやっているアニメの話をしながら風のように私たちの横を通り過ぎていった。

    あれを逃したのが痛かったのかもしれない。
    あの時と同じように人のいない道であれば軽く手を繋いでくれることはあったけど、場地さんは決して手以外の部分に触れようとしてくれない。無論、キスだってまだ。
    場地さんが手を繋いでくれたあの日から私はいつキスをされてもいいように準備万端なのに。前使っていた二本で百円のメンソレータムのリップクリームは使い終わる前に薄いピンク色のリップクリームに変えたし、最後の授業が終わる五分前にはレモンの飴を舐めてるし、キスシーンがある漫画を何度も読んで予習だって完璧だ。

    二人きりの時間だって、ないわけじゃない。
    手を繋いでからも場地さんはうちによく遊びに来てくれているし、その逆もある。確かにドアを挟んで母親がいることは多いけど、ちゅってするだけならバレないし、それに隠れてキスするのはポピュラーだって少女漫画も言っていた。

    それでもしてくれないのは何故だろう。
    場地さんは硬派な男だから、もしかしたら中学を卒業するまでそういうことは禁止している、とか?だとしたら私から迫るのはルール違反なのだろうか。っていうか、女から迫るってどうなんだ?むしろ結婚までそういうことは禁止、だったらどうしよう。
    「…キス、したいなぁ」
    ごろりと寝返りを打ってシーツに埋めた独り言を慰めるように、ペケJが私の頭にするりと寄り添う。よしよしと丸い頭を撫でたところで、枕元に置いた携帯が短い音を鳴らした。
    「場地さん!」
    画面を見なくても分かるのは、場地さんだけは他の人と音が違うからだ。メールを知らせる音に慌てて携帯を開くと今から行ってもいいかと書かれたメールが届いていた。もちろんですと送って、私はベッドから飛び起きる。驚くように鳴いたペケJに謝ってから乱れたスカートと前髪を急いで直す。五階から二階への移動は場地さんの長い脚だと直ぐなのだ。左右で長さが違う靴下に気付いて、直していたところでチャイムは鳴った。
    「はーい!」
    小窓を見ることもなくドアを開けると私と同じく制服のままの場地さんがいた。学校にいる時よりも広く開いた胸元でシルバーのアクセサリーが冷たそうに揺れている。
    「場地さん、いらっしゃい」
    「おー、急にワリィ」
    「全然、大丈夫ですよ。ペケも場地さんと遊びたいって言ってました」
    そう言いながら振り向けば空気が読めるペケJは私の部屋から顔を出して、場地さんに向かって可愛くひと鳴きした。
    「マジ?うれしー」
    顔いっぱいに笑顔を浮かべると場地さんは靴を脱いで、躊躇いなく私の部屋に向かう。台所を横切る時、場地さんがぴたりと足を止めた。
    「あ、これ一緒に食おーぜ」
    そう言って渡されたコンビニの袋にはコーラとポテトチップスが入っていた。相棒が好きなコンソメ鬼パンチ。家にあったものなのか、わざわざ買って来てくれたものなのかは分からないが袋越しに触れたコーラは氷がいらないくらいにひんやりとしていた。
    「ありがとうございます」
    「んー」
    部屋に入るや否や、場地さんは入口に一番近い棚の上から玩具をひとつ手に取った。高い位置で揺らしながら部屋の真ん中まで移動して、ゆっくり床に腰を落とす。興奮するペケJを眺めながら私も場地さんの隣にいき、静かに座る。
    私とは違う玩具の動かし方にペケJは夢中だった。それを見る場地さんもまたとても嬉しそうで、その微笑ましさに私はくすりと笑いそうになる。
    「場地さん、コーラ飲みます?」
    「おー」
    私の問いかけに、場地さんはこちらを見ないまま軽い返事をする。ペケJと遊んでいる時や本を読んでいるときは大体こんな感じなので気にしない。
    「じゃあコップ取ってきますね」
    「なんで?一緒に飲めばよくね?」
    そう返されたのもペケJに目を向けたままだった。あまりにもさらりとした言い方に、動揺してしまう私の方がおかしいんじゃないかと思ってしまう。
    「え、えっと…」
    「コップ洗うのも面倒だろ」
    それはまあ、確かにそうかもしれないけど。
    ドキドキと胸を鳴らす私とは裏腹に場地さんは相変わらずの調子で玩具を動かしている。深く考えてるのは私だけだと気付かされて、また恥ずかしくなる。
    一緒に飲んだら間接キスになっちゃいますけど。
    なんて言えたらまた違うかもしれないけど、そんなことを言えるわけもなく、私はそっとコーラのキャップを外した。
    「…先、飲みますか?」
    声が上擦らないように気を付けながらそう聞くと場地さんはいつも通りの声で「先に飲めよ」と言う。ずるい、なんて思いながら私はまだ誰も口をつけていない飲み口にそっと唇を寄せた。
    緊張で乾いた口内にコーラを一口流し込む。しゅわりと弾けた炭酸が狭ばった喉には少し痛い。眉を寄せてごくりと飲み干すと独特の甘さが口内を染めていく。今キスしたらとびっきり甘いんだろうななんて思ってしまって、頬が熱くなる。
    「千冬、オレも飲みたい」
    そう言われて、震える手で場地さんにコーラを渡した。さっきまで玩具を振っていた大きな手がペットボトルと受け取って、飲み口に薄く開いた唇が触れる。
    「っ……」
    傾けられたペットボトルから私が飲んだのよりも多い量のコーラが場地さんの口に送られる。私にはない大きな喉仏が動いて、コーラは躊躇なく喉元を通っていった。はぁ、と冷たい息を吐いた唇は甘い炭酸で濡れてとても柔らかそうに見える。
    まだ間接キス。たかが間接キスなのに、こんなに心臓がうるさいなんて。したい、したいと言ってるけど実際にキスしたら、私死んじゃうんじゃないか?
    「千冬ぅ」
    「は、はい!」
    「飲む?」
    「え、あ、は…い」
    キャップの方を掴んだ場地さんがペットボトルを私に向けた。さっきまで場地さんが口をつけていたペットボトル。本当は胸がいっぱいで、とてもコーラが入る隙なんてない。でも場地さんに言われると断れない。手元にきたところで飲める自信はないけど、とにかく受け取らなければと手を差し出す。場地さんがキャップから手を離した時、確かにペットボトルは私の手の中にあったのだけど、最初よりも周りに水滴が増えていたせいで私は手を滑らせてペットボトルを落としてしまう。
    「「あ」」
    部屋に響く二人の声と、炭酸が泡立つ音。横たわったペットボトルの中は上の部分を白く色を変えて私達に危険を知らせている。やってしまった。
    「すみません…」
    ころりと逃げようとするペットボトルを四つん這いで追って、捕まえる。真っ直ぐに立てたペットボトルの中身はまだ落ち着いていない。
    「暫く待ち、ですかね」
    言いながら顔の向きを変えると、思いの外近くに場地さんがいて驚いた。ペットボトルの中身を覗きに来たのだろうか。少し顔を動かせば頬がぺたりとくっついてしまうくらいの近さに私は思わず息を止めてしまう。
    「…千冬」
    あの時と同じ声で名前を呼ばれる。息苦しさと緊張でどんどん熱が顔に集まっていくのが分かる。
    (や、ばい…)
    色を変えている頬に両手が添えられる。指先が輪郭に沿うように丸まって、ゆっくり上を向かされる。その手付きがあまりにも優しくて私はきゅうと胸が締め付けられてしまう。場地さん、こんな風に人に触れるんだ。
    首を傾げるみたいに場地さんの顔の角度が変わる。途中まで細く開いていた瞳がそっと伏せられたのを見て私も慌ててぎゅっと目を閉じる。
    指先が髪の毛を掠める感触、手のひらの熱、唇に触れる吐息。視界以外を強制的に敏感にする真っ暗な世界は私には刺激が強過ぎる。痛いくらいに心臓が動いて、恥ずかしいくらいに体が熱い。
    鼻の先に、おそらく場地さんの鼻の先がこつんとぶつかった。
    あと数センチ。
    まだ知らぬ唇への甘い感触への期待で場地さんの制服のズボンを握りしめた、その時だった。
    「千冬ーただいまー」
    ドアの向こうから母親の声が聞こえた。その声に驚いて目を開くと、もうぼやけるくらいの近さに場地さんがいて、更に驚いてしまう。
    「っ…」
    場地さんの琥珀色の瞳に、目を丸くさせた間抜け顔の私が映る。私の瞳にはどんな場地さんが映っているのだろう。近過ぎて表情も分からない。
    「ねー、ケースケくんいるー?」
    こちらに向かってくる声に、私達はあの時と同じように同じタイミングで顔を逸らした。勢いよく、不自然に顔が離れたタイミングで部屋のドアが開く。ぎりぎりセーフ。
    「あ、いた」
    買い物袋を持ったまま母親は私の顔を見た。
    「お、おかえり」
    「あんたいるなら返事しなさいよ」
    「え…っと……こ、コーラ飲んでたから…」
    床に放置したペットボトルに目を向けると中身はだいぶ落ち着いたらしい。カラメル色の中を小さな気泡がいくつか上に向かって泳いでいる。まだ心臓がうるさい私とは大きな差だ。
    「あ、ケースケくん」
    次に母親に呼ばれた場地さんはネジ巻き式の玩具みたいな動きで顔の向きを変える。はい、なんてらしくない返事をする声もやっぱりぎこちない。悪さを見つかった小さな子供みたいだ。私達の動揺なんて一ミリも知らない母親は愛想のいい笑顔を浮かべながら言う。
    「お母さんこれからこっちに来るから、夕飯一緒に食べましょう」
    「あ、まじ、っすか」
    「うん。さっき下であって、なんかお肉いっぱい貰ったから食べよーって」
    「はぁ…」
    「だから今日はうちで焼肉ね。千冬、あんたさっさと着替えて手伝いなさい」
    前半は語尾にハートがつく言い方なのに、後半は早口で捲し立てるように言うと母親はドアから手を離した。静かな音を立ててドアが閉まり、狭い部屋には重たい空気が漂う。
    「………オレ、着替えてくるワ」
    最初に口を開いたのは場地さんだった。場地さんの格好は私と同じ制服姿。換気扇を回しても、窓を開けても匂いが充満する焼肉には相応しくない格好だ。
    「あ…は、い……」
    立ち上がって、ドアに向かう場地さんの服を掴むことは出来なかった。隠れてキスするのだって乙ではないかなんて大口を叩いたくせに、ドア一枚隔てた先に母親がいる中で場地さんを求める勇気は私にはなかったのだ。
    しょんぼりと肩を落としたまま玄関まで見送りをした私の頭を場地さんは優しく撫でてくれた。
    「またあとでな」
    そう笑う場地さんの顔色はいつも通りに戻ってる。頭の上に乗る手のひらもいつも通り、私よりも少し冷たい温度。自分ばかりが引き摺っていると思われたくなくて、私は必死に同じ顔を作ってはいと笑ってドアを閉めた。

    それから三十分程して、場地さんはお母さんと一緒に戻ってきた。場地さんのお母さんの両手には袋がぶら下がっていたけど、その中身はお肉ではなかった。ビールとカクテル、それからワイン。明日は休みだと言う場地さんのお母さんはうちで宴会を行うつもりらしい。母親は「あらら」なんて困ったような声を出していたけど、顔は緩み切っていて嬉しそうだった。
    お肉は部屋着に着替えた場地さんの片手にあった。持ち手の部分が伸びた袋はきっとそれなりに重いのだろう。
    「場地さん、お肉貰います」
    そう言って差し出した手を場地さんはぺしりと軽く叩き落とした。そのまま台所に向かってしまい、手持ち無沙汰の私は黙って後ろをついていく。こういう些細な優しさを外でも出しているのかと思うと少し心配になってしまう。

    焼肉を始めて一時間もしない内に酔っ払いが二人出来上がっていた。場地さんのお母さんが持ってきてくれたお肉はとても四人で食べ切れる量ではなくて、まだ冷静さを保っていた母親がタッパー型の保存容器に入れて冷蔵庫にしまってくれた。ホットプレートの上に残されているのは不人気だったピーマンが一切れと、表面が乾き始めた焼きそばが少し。
    飲み物をビールからワインに変えたタイミングで、酔っ払いはホットプレートの中身に手を付けなくなってしまった。今はと言うとブロック型のチーズとナッツの詰め合わせをちまちまと食べている。ナッツを三回に一回の頻度で溢しているのが気になるけど、本人達が楽しそうだからもうなんでもいい。
    「千冬ぅ、あんたも飲むぅ?」
    残った焼きそばを皿に移している私の肩を場地さんのお母さんが強引に抱いた。手元がぐらりと揺れて危うく焼きそばを落としそうになる。場地さんのうちの柔軟剤の上から強いお酒の匂いが上塗りされて、全然知らない匂いにドキドキしてしまう。
    「おい、千冬は未成年だろーが」
    今度は場地さんが反対側から私の肩を抱いて引き戻す。面白がる場地さんのお母さんと、それを嫌がる場地さんに同じ力の強さで右へ左へ体を揺らされて頭がくらくらする。
    「えー、千冬ばっかりずるいー」
    おまけに母親までそんな駄々を捏ねだすから私はもうお手上げである。でもやっぱり酔っ払い同士の方が気が合うらしく場地さんのお母さんは私の肩から手を離して、母親の元へ行った。
    「じゃー、松野さん一緒にのもー」
    肩を抱いて二人仲良く注ぎ合いをしている隙に私は急いでお皿を空にして、ホットプレートを水盤の横に避難させた。このまま続けてたら、いつか怪我人が出る。
    「オレもなんかする?」
    酔っ払いから逃げてきた場地さんは内緒話をするくらいの小ささでそう聞いてくれた。まだ口の中に焼きそばが入ったままの私は首を横に振って返事をする。テーブルの上は皿とコップがあるだけで、食材の類はもうない。口の中のものをごくりと飲み込んで、私はもう一度首を振った。
    「大丈夫です、皿とかは明日洗えばいいんで」
    「じゃあ、オレんち避難すっか」
    「え、いいんですか?」
    「おー。ここにいたらまた巻き込まれるかもしんねーしな」
    顔を見合わせて共犯者の顔をした私達はこっそり台所を後にした。玄関に着いても二人分の笑い声は続いている。そっとドアを閉めて、念のため外から鍵を掛けておく。酔っ払っていても場地さんのお母さんなら心配はないだろうけど、まあ一応。
    「ったく、あーはなりたくねぇよな」
    一歩前を歩く場地さんがげんなりとした声で言った。そうですね、と返しながら私は気付いてしまう。母親達のあの調子では暫く帰ってくることはないだろう。もしかしたら今晩はこのまま帰ってこないかもしれない。
    (今がチャンス、かもしれない)
    夕方の出来事を思い出す。
    あの時の場地さんは確かに私を求めてくれていた。もう少し母親の帰りが遅かったら、きっとキスしてくれていたはず。場地さんも私と同じ気持ちに違いない。
    でも今の私はTシャツにハーフパンツというみっともない格好だし、その服だって焼肉くさいし、レモンの飴だって舐めてないし、夕方つけたリップクリームのピンクは跡形もなく消えてしまっている。
    はじめてのキスがこんなシチュエーションでいいのだろうか。こんな状況でキスする少女漫画なんて一度も見たことない。
    ぐるぐると考えている内に、四階まで来てしまった。あとひとつ階段を上がりきれば場地さんの家だ。どうしよう、どうしようと俯く私の目の前に大きな手のひらが現れた。上を向けばリレーのバトンを受ける時みたいな格好で場地さんが足を止めていた。
    「……ん」
    ぶっきらぼうにそう言うのは照れているからということは直ぐに分かった。だって、場地さんの耳、ちょっと赤くなってる。普段大人びている場地さんの、きっと私しか知らない一面に胸がきゅっと締め付けられる。
    ねえ、場地さん。場地だけなら一段飛ばしも楽々で、もっと早く上に着いてる筈なのに、まだ四階にいるのは私のペースに合わせてくれてるからだって、私全部知ってるんです。
    差し出された指先だけをやんわりと握ると私と同じ力で握り返される。ゆるく繋がった指先からじわじわ熱が押し寄せて、胸の奥がゆっくり温められていく。満ちていく幸せの感情で緩む唇は気を抜けば好きだと呟いてしまいそうで、私はきゅっと噛み締める。
    でも、ダメだった。
    「千冬」
    階段の終わりまで残り僅かなところで場地さんは足を止めた。階段に背中をつけるみたいに端に避けて、手を前に引く。少し乱暴なエスコートで私は場地さんよりも先に最後の段に足をつけた。
    「鍵出すから待ってろ」
    繋いだ手はそのままにして空いた手がポケットに差し込まれる。でもどうやら鍵を入れていたのは反対側だったらしく、手は直ぐに引き抜かれて、クロスするようにもう片方のポケットを漁り出した。苛立つような手の動きに気付いているのに、手を離すかと聞いてあげられない私はなんてワガママな女だろう。
    ようやく見つけた鍵を取り出して顔を上げたとき、真正面から視線がぶつかった。いつもは見上げてる場地さんの瞳が同じ高さにあって、その瞳があまりにも綺麗で、私はきっと吸い込まれてしまったんだと思う。
    唇を重ねたのは、無意識だった。
    一瞬触れるだけのキスに場地さんは大きく目を見開いた。そこでようやく自分が何をしたか気付いたが、後悔は微塵もない。それどころか今の私は嬉しさで胸がいっぱいなのだから、どうしようもない悪い子だ。
    「…場地さんのはじめて、貰っちゃいました」
    それでもやっぱり恥ずかしさはあって、つい要らないことを口にしてしまう。階段下に響かないように、隣の部屋の人に聞こえないように、内緒話をするみたいな小さな声はきっと場地さんにしか届いていないはずだ。
    「っ、え…」
    ぴくりとも動かなかった場地さんが急に私の手首を握った。大きな歩幅で階段を登り切って、ドアの前に立つ。さっきの私の声よりもよっぽど大きな音を立てて鍵を開けると、振り回すように私を玄関に押し込んだ。足元がぐらりと揺れる。そのままドアにぶつかると思って、反射でキツく目を閉じてしまう。
    「っ…」
    でも私が思っていた痛みはなくて、恐る恐る目を開くと暗闇の中で場地さんの顔がぼんやり見えた。名前を呼ぼうと唇を開いたところで間近で視線が絡んで、ゆっくりと唇が近付く。
    「ん……」
    隙間を埋めるみたいに唇が重なった。一度離れたと思えば今度は場地さんの薄ら開いた唇に食べられて、密着したまま顔の角度を変えられる。頬に添えられた手に顔を固定されて動けないままどんどんキスが深くなる。唇の感触を味わうみたいに吸われて、ちゅっと音が響く。誰もいないと分かっていても、恥ずかしくて目の奥が熱くなる。キスの途中に意地悪な中指にピアスを引っ掻いて遊ばれて、耳までおかしくなりそうだ。
    「ぁ、ぅ、…ん、んん…」
    うまく呼吸ができなくて、苦しい。抵抗するように胸を何度か叩くと、場地さんはゆっくり唇を離してくれた。息苦しさと気持ちよさで気が遠のいてしまいそうになる。キスって、こんなに気持ち良いんだ。
    「したら止まんねーと思ってたから、ガマンしてたのに」
    短い呼吸を繰り返す唇にまたキスが降る。今度は一瞬触れるだけの、軽いキス。それでもさっきの余韻のせいで私は小さく体を震わせてしまう。唇が触れるか触れないかの近さを保ったまま熱を孕んだ場地さんの目が真っ直ぐに私を見る。
    「お前が煽ったんだから、責任取れよ」
    命令に近い口調でそう言った場地さんは噛み付くみたいに私の口を塞いだ。最低限の呼吸だけが許されるようなキスの中で返事なんて出来なくて、私はどうにかイエスの返事をしようと背中に手を回してぎゅっとTシャツを掴んだ。
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