そして夜に還る伴侶の存在など、年寄り達の古臭い迷信だとファウストは思っていた。
何にも代えがたい極上の香りを放つ唯一のひと。一度でもその血を口に含めばもう他の血で満足することはできず、楽園に見放された吸血鬼でさえも天に昇る心地になるという。
そんなものいるものかと微塵も信じていなかった存在は、ずっと目の前にいたのだ。
「やべ」
包丁で切っちまった、と情けない笑みを浮かべたネロの指先にぷちりと浮かぶ赤い球体に目が釘付けになる。僅かな出血に反して一気に充満した鉄の香りは絶望的な甘さでファウストの嗅覚を抉り、そのまま強固なはずだった理性の壁に容易く風穴を開ける。
「あ、あ……」
「……ファウスト?」
――欲しい。
この人間の血が。
欲しい。欲しい、欲しい欲しい欲しい!
「ファウスト?どうした、あんた目が――」
「来るな!!」
ファウストは目の前で呆然としているネロを思い切り突き飛ばした。
形を得た欲望が凄まじい速度でファウストの身体中を駆け回る。マグマのようにドクドクと血が沸騰する。脳髄が焼かれる。脈打って破裂しそうな頭にぎちぎちと爪をたてた。熱か血か、視界がどんどん真っ赤に染まってゆく。夜を生きる獣の本能がファウストの理性を容赦なく食い潰してゆく。忌み嫌っていた吸血行為への欲がむくむくと育って抑えられない。目立たなかったはずの犬歯が肉を切り裂く形に肥大化する。
何にも代えがたい極上の香り。それはすなわち、吸血鬼の本能を引きずり出すものでもあった。
本能とは遠く離れたところで慎ましく生きてきたファウストにとって、理性を根底から揺るがされる出来事など生まれて初めてのことだった。心も身体も、魂までもがぐちゃぐちゃに掻き乱され、自分が自分でなくなってゆく。吸血鬼として生きる自分のことがあまり好きではなくて、無味乾燥に生きてきたところにネロと出会って、彼の優しさに触れて。ネロを好きになった自分を、ようやく吸血鬼という枷を外して好きになれたのに。ネロがこんな自分のことを好きだと言ってくれたのに。ネロと過ごした自分がかき消されてゆく恐怖に、ファウストの視界がじわりと滲む。
焦燥のあまりファウストは自身をコントロールする余裕などなく、華奢な身体に似合わない力で突き飛ばされたネロは背後の壁にダン、と強く背を打ち付け、ずるずると床に蹲った。吸血鬼は人間よりも遥かに力が強い。
「っ、ぐ……」
「あ……」
痛みで苦悶の表情を浮かべるネロの姿に取り戻した僅かな理性は、自らネロを傷つけたファウストを罵倒するばかりだ。ほら見たことか、僕はネロを傷付けることしかできやしない。
どさりと全身の骨が抜けたように尻をついた。激しい自己嫌悪が夥しい数の杭となり、ファウストの心を内側からめった刺しにしている。
「……いや、だ……」
「ファウスト……?」
「いやだ、帰れ。もう二度と僕の前に現れるな」
早く視界から消えてほしい、などあまりにも悲しいことを必死に願わなければならないことに、ファウストは声をあげて泣き出したくなった。
真実、ファウストはぼろぼろと涙を零している。その両の目は血を透かしたよりも深く、ルビーをはめたように深紅に染まっている。
「ファウスト、」
「やめろ。名を呼ぶな、やめてくれ……」
「どうして」
聞きたくない、とネロの声を拒むようにファウストは必死にかぶりを振る。今のファウストにとって、ネロの声すら理性を崩壊させる劇薬になりかねなかった。
「……俺のこと、きらいになった?」
違う。
喉まで出かかった声を発することができずに上げた視線の先、ネロは見たこともないくらいに悲しそうな顔をしていた。ネロにそんな顔をさせている自分が、ファウストは嫌いになった。今すぐ抱き締めてごめんねと謝ることができない自分が、ファウストは嫌いになった。
「ファウスト……」
「……すき、だから。だめだ……」
「どうしてだめなの」
吸血鬼に血を吸われた人間は二度と陽の下を歩くことができなくなる。昼を奪われ、夜に囚われるのだ。だから、吸血鬼に襲われた人間の遺体は日の出と共に灰になる。
「きみを、僕に、夜に縛り付けたくない」
そんなのは嫌だ。ネロは自由でいてほしい。
その優しい髪色ときっと同じの、澄んだ美しい青空の下を歩いてほしい。
そのあたたかな瞳の色ときっと同じの、明るい陽だまりの下で生きてほしい。
夕方にならないと起き出さないファウストのために食事を用意して、その日の昼間の世界を教えてくれた。自分が眠っていても寂しくないように、とファウストに星や星座の物語を教えてくれた。教えてもらった星座を探して、初めて星空を指でなぞるのはわくわくした。眠るネロを傍に感じれば黄金色の目覚めを待ちきれず、迎えられるはずのない夜明けを心待ちにした。
昼を生きることができず、陽だまりを知らないファウストにとって、ネロこそが陽だまりだった。
願わくば共に生きたいとさえ思ったけれど、そんな夢物語は所詮夢物語だと打ちのめされる。
「僕が生きるために、きみの自由を……すべてを、奪わせないで」
ファウストがネロの血を吸ってしまえば、伴侶たるネロの血しか吸えなくなる。ファウストが生きるために、ネロの太陽も、自由も、全てを奪うことになる。
許されないことだ、とファウストは思う。
こんなに好きなのに、どうして優しくできないんだろう。どうして人間に生まれなかったのだろう。存在を信じたことすらなかった神を、ファウストは初めて心の底から恨んだ。
「……いいよ」
陰鬱とした空気が支配していた部屋に、場違いなほど穏やかなネロの声がほつりと落ちる。
何を、とファウストが見つめた先。身を起こしてぺたりと床に座ったネロはとろりと黄金色の瞳を優しく蕩けさせ、ファウストにふわりと笑みを返す。
「噛んでいいよ」
「何、言って」
「俺、あんたと一緒になりたかったよ。永遠に近しい夜を独りで生きてくなんて、そんな寂しいことないだろ」
まだ打ち付けた背が痛むのだろう。よっこいせと座ったままずりずり這い寄ってくるネロに、ずりずりとファウストは床に尻をつけたまま後退りをした。やがてこつん、とファウストの背が壁にぶつかると、いよいよファウストは絶望を顔にありありと浮かばせた。襲い来る本能よりも、今は目の前でシャツのボタンを外していくネロの方がファウストは恐ろしく感じた。
「あんたがいないなら、俺は夜明けなんて一生いらない。太陽の下でひとりぼっちで焼かれるのは嫌だよ」
寛げられたシャツの下、晒された首は健康的に太く、それでいて北国生まれらしいなめらかな白さが月明りに照らされてぼんやりと艶めかしくひかる。その奥にうっすらと透けて見える血管。噛んで、とネロが乞う。
「ぁ……」
「ほら、ファウスト。がぶっといけって」
「い、やだ、やめろ。離せ、ばか、」
「ばかでいいよ」
「いやだ、いやだ……ネロ、おねがい……」
幼子のように泣きじゃくるファウストの身体をネロはそっと抱き締める。
吸血鬼は人間よりも遥かに力が強い。ならばまた先ほどのように突き飛ばしてしまえばよいものを、ネロの残酷で優しい束縛からファウストは逃れることができなかった。
心の底では、自分はただ長寿の人間なのかもしれないと一抹の希望を抱いてファウストは生きてきた。
けれど現実はやはり現実でしかない。結局自分はただの血に狂った化け物なのだ。ネロを噛んでしまえば、それを認めることになる。極上の血はもう目の前に差し出されている。あれほど忌み嫌った吸血行為をしたくてたまらない。僕はなんてはしたない生き物なのだろう。悲しくて、悔しくて、それでもネロの優しさに縋るしかない自分が、やっぱり嫌いになった。
「ほら」
ぐ、とネロの大きな手がファウストの後頭部を押さえつける。なけなしの理性で離して、と開きかけた口がネロの首筋に当たると、もう何もかもがだめだった。
柔らかな肉の感触と、その内側からダイレクトに脳を揺さぶる恍惚の香りがファウストの最後の理性を打ち砕く。
「あんたのためじゃない。俺がそうしてほしいんだよ」
次にファウストが感じたのは、柔らかな肉を破る感触と、口に溢れる噎せ返る程の甘さと塩辛さ。
この罪を、死ぬまで忘れまいと思った。