麦畑から流星群大いなる厄災を退けたのち、ネロがファウストの隠れ家を初めて訪れた時には既に二桁の年月が経過していた。一軒目の店を頃合いだと畳み、次の出店場所を探す合間をぬって扉を叩いたネロを、いつかと変わらぬ笑みで「どうぞ、いらっしゃい」と迎え入れた家主は相変わらず似合わぬ呪い屋をしているらしい。
久々の逢瀬で張り切ったネロ渾身のご馳走を前にしたファウストは、作りすぎだよとなじることなく噛み締めるように一品一品を口に運んだ。咀嚼のたびに動く頬は出会った当初よりも血色よく、少しふくよかになっている。言葉にせずとも美味しいと訴えてくる紫色はふわりとふやけ、色濃かった隈もつるりとその姿を潜めている。
元々綺麗なひとだったけれど、ますます綺麗になったと思う。ぼんやりと見惚れているうち、ご馳走さまと美しい所作でファウストが掌を合わせた。そのタイミングを見計らったようににゃあにゃあとおやつを求める鳴き声が聞こえてくると、クスクスとどちらからともなく笑い合った。
『ふふ、腕利きのシェフは相変わらず大人気だ』
『茶でも淹れてくるよ、ついでにあいつらの相手してくる』
『そうしてやって。彼等も、久しぶりにきみに会えて嬉しいんだよ』
そう眦も声色も穏やかに緩めたファウストに見送られ、暫くぶりの再会に白黒二匹の友からひっつきくっつきされ。
漸く満足した二匹と共にファウストの元へと戻ったネロは今、少し冷めてしまったティーセットをのせた盆を手に立ち尽くしている。
「……」
開け放たれた窓から入り込む風は土や緑の香りを運んで青々しい。透明なガラスを抜けて陽光が降り注ぐ明るい空間のなかで、寝息さえも聞こえないほどに穏やかに眠るひと。
厄災の傷が消失したいま、初めて目にするファウストの寝姿だった。
その前には、ネロが席を外す前から何ひとつ片付けられていない一式が静かにテーブルに佇んでいる。空になったスープ皿、乾きかけたソースが鈍く艶めく大皿。銀のカトラリーに反射した光が、ファウストの頬や髪をちらちらと細やかに照らしている。
「(……許されてる)」
茶淹れたよ、とか、ソース乾くと洗うの面倒だから水に浸けておいてくれればいいのに、とか、色々と思うところを通り越して咄嗟に思ったのはそれだった。
魔法使いであっても、眠りは最も無防備な姿だ。その状態を晒すことも、その状態でいるファウストに近付くことも、ネロは許されている。無条件に信用され、甘えられている。
そう自覚した途端に、生まれてこのかた数百年もどこに持っていたんだと混乱するくらいの色彩豊かな感情がぶわぶわと身体中からあふれ出して止まらなくなった。
喜怒哀楽もなにもかもが無秩序に入り混じり、極彩色のかたまりと化して胸が張り裂けそうなほどに膨らむ。膨らんで膨らんで、やがて胸の中で宇宙が誕生するみたいに、ぱん、ととてつもない衝撃で破裂して。
――そうしてまっしろになった胸に残ったのは、切ないくらいの愛おしさだった。
手に持った盆を放り投げる勢いでテーブルに置き、そのままファウストの横に駆け寄る。たった数歩の距離でも足が縺れそうになった。
「……せんせ、」
いつか冷たい石になる心臓がきゅうきゅうと締め付けられて、恋しさのあまり悲鳴をあげる。
ひくり。目尻と口元が震える。目の奥が熱い。じんじんと鼻の奥まで進むと、そのまま後頭部までじんわりと貫くような熱をはらむ。意識ははっきりと目の前のひとを捉えているのに、熱くてどこか朦朧とする。
じわりと視界が滲んで、堪えきれなかった雫が一筋、目尻から零れて頬を伝う。
燃えるように熱い一筋だった。
「……起きて、せんせ」
頬を伝い、顎の一番とがったところへ。透明でまるく溜まった感情が顎先からぽとりとネロの手に落ちる。跳ね返って飛び散ったそれは、優しく差し込む光をまとって刹那の星になった。
「ファウスト……なぁ、ファウスト」
「…………ん、……」
「起きてよ、ファウストってば……」
寝かせてあげたい気持ちを押しのけて、子供が親にぐずるようにゆさゆさと揺さぶる。こうして親を起こした記憶はネロの中のどこにもないけれど、ただ目の前のひとに起きて、その瞳に自分を映してほしい気持ちは同じなのだろうと今のネロは理解できる。
ぐ、と重力に逆らおうとファウストの瞼に力がこもる。ゆるりと現への扉をこじ開けた瞳はまだとろんとふやけていて、けれど奥底に宿る光はしっかりとネロを見つめている。ファウスト、と掠れかけた声で呼びかけたネロに応えるように、起き抜けで少し乾いた口がネロの名のかたちに動いた。
「……おなかいっぱいで、ぽかぽかして……ねちゃった」
「……そっか」
「……泣いたの」
「うん」
「なぐさめてあげようか……?」
ふるふると首を横に振るネロの顔にそっと手を伸ばす。湿り気と、伝った涙の跡が残る目尻を撫ぜる指先はこどもたちや小さな動物を慈しむ時と同じぬくもりを乗せて、指紋のおうとつすらネロをやわらかに甘やかす。
「寂しいとかじゃないから、へいき」
「そう……泣いていいよ、いくらでも。全ての涙がわるいものではないよ」
「そう思う?」
「涙は心の発露だから」
猫の喉をくすぐるように目元を撫でられて、そこから伝わる温度に目の奥がまたぶわりと滲む。
互いを想い合うことを許し合いながら、互いに別の場所で生きることを選んだ。
ネロは再び自分の店を東の国に持ち、ファウストは精霊達の待つ嵐の谷へ。
ともすれば人肌で火傷をしてしまう者同士、二人の間には心地よく肌を冷ます風が通ることのできる余白が存在していた。
寂しいと思ったことはない。余白は溝ではなく伸びしろだ。いつか手を伸ばすことが出来る日が訪れれば縮まり、その日が来なくとも遠ざかることはない。
吹き抜ける風はいつだって、二人の繊細な心を慰めるように優しかったのに。
それがどうだろう。火傷をしそうなほどに近い距離で、甘やかに触れられて、情を隠しもしない優しい眼差しを向けられて。余白なんかとっくに通り越したゼロ距離で心が揺さぶられて、止まらない。
「……じゃあ、俺が泣くの、ちゃんと見てて」
「よく見せて。ネロの心を揺さぶったのは僕だと、己惚れされて」
目尻から再び零れた心が、流星のように頬を流れ落ちる。
燃え尽きて消えてしまうまえに、どうかあなたもこの心に焼かれてくれと願った。