100回目はあなたの口の中ひっ、ぐ。
とん、とん。
ひくん、と跳ねるファウストの背中を一定のリズムで叩いてやりながら、ネロはどうしたものかなとぼんやり思考を巡らせた。
思いがけずに上物のワインが手に入ったのだ、とファウストが珍しく興奮を乗せて少し上気した顔で駆け込んできて、確かにいい酒だなと少し腕を奮って肴をこしらえた。
いい酒はいい時間と、いい気分を作る。子供たちの話、猫の話、とりとめのない話。弾む会話は心も弾ませ、二人して忘却の彼方にある幼少期を思い出したようにきらきらと笑い声をあげた。笑いすぎて噎せた姿にまた笑い、互いのグラスが空になることすら許さずに酒を注ぎ合う。気付けばテーブルの上にはつるりと綺麗に完食された皿が数枚と、数本の空瓶が並んでいた。
それなりの年月を生きた魔法使い同士、今更二日酔いで翌日起き上がれなくなるようなヘマを犯すほどヤワではないけれど、そろそろいい時間だろう。名残惜しいがそろそろお開きにしようかとネロが椅子から腰を上げた時だった。
ひぐ、と空気の潰れるような音がして、立ち上がった拍子に何か踏んだだろうかと足元を見やっても何も無い。そうしているうちにまたひぐ、ひっ、ひっく。とっぷりと暮れた深夜の静寂に繰り返し響く音が目の前に座るひとの口から零れていることに気が付いて、最初は大丈夫かと苦笑を浮かべつつ心配をしたのだ。
「大丈夫?落ち着いて、深呼吸しな」
「ん……ひっ、く」
それなりの量を流し込んだアルコールの影響か、酔いで綻んだ気持ちからこみ上げた笑いのせいか。しゃっくりが止まらなくなったファウストの元に歩み寄り、背中をさすってやる。深呼吸をしたり胸を叩いたりとあれこれ試しているが、どうも上手く止まらない。
気を許したネロの手前とはいえ、ひっくひっくと少し間抜けな音を何度も零すことに羞恥は募るようで、徐々に耳や目尻が赤く染まってゆく。
「ネ、……ひっく」
「……」
「ひっく。……止まらな……ひ、っぐ」
「……ふはっ」
次第にネロはファウストが可愛く見えてきてしまった。いつも真っ直ぐな背中を跳ねさせて、澱みなく流れるはずだった言葉はひく、ひく、とぶつ切りに途切れてしまって。常の凛々しく聡明な姿からは想像も出来ない、少々角の削れた東の先生の姿に胸の内側をかりかりと甘くくすぐられても許してほしい。笑うな、と目尻を吊り上げても次の瞬間にはひっく、と可愛らしい高い音が漏れる。
かわいいなぁ、とネロは顔をふにゃふにゃに緩ませた。別に意地悪をしようだとか、怖がらせるつもりはこれっぽっちもない。ただの酔っ払いの戯れだ。
ほんとうに、ほんの戯れのつもりだったのだ。
「しゃっくりって、100回続けると死んじゃうんだって」
そして冒頭。
100回、と顔色を赤から青にザッと染め直したファウストは今何回目だ、どうしよう止まらない、鼻を摘んで何か飲めばいいのか、とこの世の終わりのような顔でおろおろしだすし、ネロもネロでアルコールのもやがかかった頭では「いや、迷信だけど」と咄嗟に言葉が出なかった。
酔っ払ったファウストは素直さが増す。そのことが災いしたのだろう、すっかりネロの言葉を信じきってしまったファウストは「厄災じゃなくてしゃっくりで石になるなんて」と美しい紫色をたっぷりとうるませると、終いにはひっくひっくとしゃっくりなのか本当に泣いているのか分からない状態で、正面に立つネロの胸に顔を埋めてしまった。
魔法で止めれば?と心の中の魔法使いが訝しげに問いかけるてくるものの、そもそもしゃっくりが出る身体的メカニズムを理解していないので手の打ちようがない。
そうこうしているうちに順調に回数を重ねてきたファウストのしゃっくりは、遂に大台の90回を超えている。背中を叩いたり驚かせたり、息を止めて水を飲んだり。聞き知ったあらゆる手を尽くしても止まらないしゃっくりの図太さは宿主の生きる力の強さそのもののようで、いっそ感激すら覚えながらネロはひく、ひく、しゃくり上げる背中をとん、とん、叩いている。
「……ネロ、」
「ん?」
「今……ひっく。何回目……?」
「今ので97回」
「うぅ……」
きゅ、とシャツを握る手。テーブル越しに見ていた時は女みたいに華奢だとばかり感じていたけれど、間近で見るとしっかりと骨ばった男の手をしている。ぐいぐい顔を押し付けられる胸元がファウストの呼気で湿り気を帯びてきて、緩めたシャツの隙間から時折当たるぬるい吐息にぞわりと皮膚下の神経がさざめく。
「……」
背中を叩くどさくさに紛れてもう片手で引き寄せるように抱き締めても、ファウストは嫌がる素振りを見せない。ネロの身体に身を任せるように密着してくる。
……これは、許されていると思っていいのだろうか。
押さえつけてきた下心がネロの中でむくりと起き上がる。
晩酌の場所がネロの部屋になってから、――いや、ほんとうはもっと前から触れたいと思い続けてきたひとが今まさに腕の中にいる。抱き締めた身体は驚くほどしっくりと馴染んで、とっくに酔いの抜けた頭でもああ離したくないな、と思うほどに手離し難い。
「……なあ、ファウスト」
顔を少しだけ上げたファウストの目が「なに?」と問いかけてくる。しゃっくりが出てしまうから、可能な限り口を開きたくないのだろう。上目遣いで見つめてくる潤んだ紫色の輝きが綺麗で、朝露に濡れた上等な北のルージュベリーみたいだ。
「しゃっくりを止める方法、もうひとつあるんだけど」
ひっく。98回目。
絶望を浮かべていたファウストの表情がぱっと明るくなる。噛み締めていた唇が解放され、さっと血の色が宿る。紅く、紅く。ああ、これは西のルージュベリーを食べた後みたい。
ファウストの唇だから、きっとただ甘いだけじゃない。出会ったばかりに交わした言葉の応酬に似た刺すような酸味、人嫌いで不愛想さの滲む苦み。それらを通り越した奥に隠されているであろう、とろけるような甘さ。それに、ずっと焦がれていた。
「どうする?」
ひっく。99回目。
返される言葉は分かり切っているのに聞くずるさ。自分から仕掛けることには足踏みしてしまうから、求められて、応えたのだという筋書きを敷く。
やって、と確かな意思が発せられる。
「やって、ネロ」
背中に回していた手を後頭部へ流し、いささか乱暴かもしれない性急さでグイと顔を上向かせる。
次に背中が跳ねる前に、ぱくりと呼吸ごと口を塞いだ。