本日もまた麗らかなりいやに静かだと思ってリビングを覗いてみれば、ソファに横になったまま手脚を投げ出して同居人が寝息をたてていた。
夢の世界に両脚を掴まれながらもかろうじて成し遂げた痕跡だろう。綺麗にカバーのかけられた文庫本はテーブルの淵ぎりぎりで踏ん張っていて、栞も斜めに飛び出している。
努めて音をたてないようにと猫のように近付いて覗き込んだファウストは、無防備極まりないネロの寝姿にほわりと眦を緩めた。
「ふふ、おへそ出てる」
風邪ひくよと囁いた声はやわらかく明るい部屋の空気に溶け、ネロの耳に入ることはなかった。ずり上がったネロの上着をちょいちょいと引いて直してやっても、呼吸に合わせておなかがゆるりゆるりと上下する以外は睫毛の一本すら身動ぎもしない。
窓から差し込むひかりでほんのりとあたたまったネロの髪をそっと撫でてから、ファウストはネロが夢の直前まで開いていた文庫本を手に取った。
ネロはよく本を読むひとだ。本の虫とまでは言わないけれど、生きていく隙間に、呼吸をするように、水を飲むように、ごく自然に活字を取り込む。小説から実用書、ハードカバー、時々外国語で書かれたものまで。
本を読んでいる時のネロはひとつの映画のように静かに完成されていた。すらすらと活字を滑らかに辿る視線の動き、ページを捲るタクト。小難しい内容で集中している時は金色の目が少しだけ熱を帯びて濃く見える。小説のドラマティックな場面では呼吸を忘れたように息をつめ、困難を乗り越えたのであろう場面ではふ、と穏やかに深く息を吐く。目線を外している時は内容を頭の中で整理していて、腹落ちすると再び美しい金色が黒い文字を追いかける。最後の一頁をめくり終えると静かに本を閉じ、残り香を追うように少しだけ目を閉じて余韻を噛み締めている。
ファウストは、ネロが読書をする姿を観察するのが好きだった。声を掛けたり、構ってほしいなと甘えたい気持ちはあるけれど、ネロの動きを観察して、こっそり後で同じ本を読んで、あぁこの辺りはネロが苦戦していた所かな、なんて気持ちを探ることを密かに楽しんでいる。そうしてファウストが本を読んでいると「同じの読んでる」と構ってほしそうにネロがくっついてくることももちろん折り込み済みだ。可愛くて仕方がなくて、ネロが寄ってくる気配を感じるとファウストは毎回唇をむずつかせていた。
ページをおり曲げないようにパラパラと捲って流し読む。タイトルもあらすじもカバーに隠された表紙で見ていないけれど、並ぶ文字からして少し古い小説だろう。本を読むという行為は心身共にそれなりの力を使う行為であり、募った疲労に心地よく身を任せる姿を見掛けることも、もうファウストの日常の一部になって久しい。
すぅ、すぅ、と健やかに繰り返されるネロの寝息。
かち、かち、と正しく秒針を刻む壁掛け時計。
静かだ。
静かで、それだけ。
どこぞの小説のようなドラマティックさはないけれど、静寂を穏やかに享受できる日々こそがこの上なく愛おしい。
ふと窓の外を見上げれば、ソファにくちゃりと広がるネロの髪と同じ色をした広大な空を、地上から見ればゆったりとした速度で飛行機が横切ってゆく。本格的な冷えにはまだ至らぬ冬の子供を乗せた風が窓から入り込み、やわらかくカーテンを揺らした。
あの飛行機が見えなくなったら、おやつの時間だよと起こそう。
手元の文庫本を閉じて、紅茶は何があったかなと戸棚の奥へと思考のベクトルを向ける。
綺麗に磨かれた窓に映るファウストの表情は、二人の家に流れる時間のように穏やかだった。
何もない、うららかな休日のこと。