発火装置晩酌の場所が中庭からネロの部屋に。
テーブルに向き合って座ることから、ベッドに並んで座るように。
回数を重ねるごとに距離は近付き、互いの体温も匂いもじわりと肌に届く距離を許してもなお、隣に座る友人の男は決心がつかないらしくなかなか手を出してこない。
手を僅かに浮かせてこちらに伸ばすかと思えば、ぱたりと諦めたように再びシーツの海に戻る。じりじりと近付きながら、数センチ進んだところでぎゅうとシーツを握り締め、まるでそこにしがみつくように留まる。
ベッドについた二人の手の間、中途半端に開いた拳ひとつ分の距離。ネロの気後れが滲むこの空間をチラリと視線だけで伺って、密かに息をついた。
よく分からないが魚らしき生き物も、毒々しい色をした野菜らしき植物にも。鋭く研がれた刃物にも、熱く煮えた鍋にも、炎をあげるフライパンにすら恐れることなく涼しい顔で手を伸ばすネロは、そのくせファウストの手を同じように掴むことができないでいる。刃物よりずっとやわらかく、コンロに灯るとろ火よりも冷たいファウストの手は、ネロの手の感触を知らないで今日まできた。
「ネロ」
「ん?」
「僕に触れたくはないの」
「え」
単刀直入な問いかけにぴしりと固まったネロの顔がじわじわと赤面する。ファウストとて色恋沙汰に明るいわけではない。寧ろ疎い方だと自認しているが、自分に向けられる視線が他の者に向けられる視線よりもとくべつ甘やかなものであれば話は別だ。ネロの視線を具現化させたのなら、蜂蜜のとろりと溶け合ったシュガーが周囲をくるくると取り巻いているだろう。その視線をつかまえると、ネロはいつも両の瞳を溶け落ちそうに緩めて、くすぐったそうに、嬉しそうに微笑む。
「……触りたい、けど」
「けど?僕の手を握るのは、熱く煮えた鍋や炎をあげるフライパンを掴むことよりも難しい?」
「難しい」
「どうして」
「どうして、って」
「僕のこと好きでしょう」
「好き……」
「なら、なんで」
とり続けてきた態度とは打って変わり、存外素直に欲を白状したネロは問いを重ねられて居心地悪そうに視線を揺らがせる。
尋ねることこそがネロを傷付けることもあると思う。それでも今回、ネロははっきりと「触りたい」「好き」と口にした。あれこれ理由の壁を重ねて足踏み状態でいるのならば、その壁を一枚ずつ壊すしかない。そうでもしなければ、この恋心を秘めた奥手な友人はいつまで経っても友人の枠から出ようとしない。決して自分では満たすことのできない欲求を抱えたまま、満たされない空虚さを無理やり飲み込んで、なんでもないような顔で笑う。それが出来てしまうし、今日までしてきたのだ。ネロ・ターナーという男は。
それは本意ではない。笑うのなら、心の伴った笑みを向けられたい。
「……笑わねぇ?」
「可愛いとは思うよ」
先生はそうだった、聞くんじゃなかったとさめざめとされた後悔は、しかしネロの告解を妨げるものにはならなかったらしい。空色のやわらかな髪の隙間から覗く耳を食べごろの姫りんごみたいに真っ赤にさせて、困り切った表情でネロがファウストを見る。
「こ、」
「うん」
「……こうやって好きなやつに近付くだけでも肌がちくちくして、胸がばくばくして、火照ったみたいに熱くてぼんやりするの隠してるってのに……」
「のに?」
「…………さわったりしたら、それこそ火傷じゃ済まねぇもん……」
「……ふふ、どうなっちゃうの」
「溶けちゃう……」
あと今俺手汗でびしょびしょだからヤダ、とその両手で顔を覆ってしまったネロは、ぱたりとそのままベッドに倒れてしまった。ここ数百年で一番恥ずかしい、今すぐ穴を掘って埋まりに行きたい、いたたまれない、とうーうーうめき声をあげながら背中を向ける年上の魔法使いの、なんとまぁ可愛らしいこと。
二百も年上で、より俗世に近いところで生きてきたであろうネロ。色恋沙汰に関してもずっと上手だとばかり思っていたが、どうやら想像を違えて初心らしい。
――あるいは、僕に対しては、とか。
「魔法で手をフライパンにしようか?」
「それはヤダ」
「じゃあ、ほら」
手袋を外した手を差し出した。外気に触れてひやりと冷たさをまとったこの手は、きっと数秒後には溶けるようなぬくもりに包まれる。
「おいで。溶けちゃったら、直してあげる」
ゆるゆると手を離して顔を露わにしたネロは、拗ねたように唇を真一文字に引き結んでいた。ファウストの視線を捕まえた二対の金色が蜂蜜を煮溶かしたようにじわりと濃くなる。熱っぽく紅潮した目尻をきりりと吊り上げて不機嫌そうに見せているが、これは照れ隠しだ。
おっかなびっくり伸ばされた手がたっぷりと躊躇いながら、差し出した剥き出しの手のかたちを確かめるように触れ、体温を馴染ませるようにゆっくりと重なる。手汗でぬるついて滑り落ちてしまいそうだったから、逃がさないように指一本ずつをきゅうと絡めた。
「……火が出そう……」
もう片方の腕で再び顔を隠してしまったネロは、態度と裏腹に手を離すつもりはなさそうだ。じんわりと伝わる自分以外の体温にようやく好きなひとが触れてくれたことを実感して、やっと掴んだこの幸福を叶うならばもう少し、できればネロがもう一度こちらを見てくれるまでは味わっていたい。
その火はネロを苦しめるものではないと分かっているから、ファウストは満足げに笑みを浮かべた。