「わかってたんだろ?」
「…はて、なんのことやら…」
「はぐらかすなよ?
なぁ、柳沢。上様が愛してんのは………
いや、やっぱいいわ」
言ったら負けな気がした。
だから、いつも通りになんでもないわ、と軽口にしようとする。
普段から口が軽いと言われる牧野だが、その振る舞いとて計算し尽くされたもの。
上様のそばにいるにあたってこのほうが都合が良かったからこそのもので、本来の牧野ではない。
…本当の意味でそれを知っているのはそう振る舞う牧野のみ、だが。
「牧野殿こそ、わかっておいででない」
「へぇ…お前に何がわかんの?」
自分を諭すような柳沢の言葉に、普段の牧野としての顔が歪む。
よほど虫の居所が悪かったのか、平素はへらへらとおちゃらけて空気のように掴み所のない男であるはずが、柳沢をみている筈の貌はストンと表情が抜けたようで、その瞳には何も映されていなかった。
上様に…綱吉にすべてを捧げてきた。
自分自身幼い頃から仕え多くのことを教え、当主となった綱吉を支えた。
啓林館時代はもちろん将軍となってからも。
妻も、娘も、綱吉の為ならと。
最も近い臣として綱吉を支え、その弱さを支えていた。
綱吉を導き、支え、助ける。そのためなら、どんなことだってできた。
…なのに、それをあっさりと奪われた。
最も近い臣は自分であった。そのはずだった。
年月は勝っている。武芸も家柄も、臣下として望まれるものは全て勝っているはずだ。
なのに。
なのに。
いとも簡単に、その美しい顔…綱吉曰くイケメンな貌で綱吉の関心を引き自分の居た場所を奪っていった。
側用人の立場、綱吉の最も近く信頼する臣下の立場、そして寵愛される側近としての立場。
子をなすことの出来ない綱吉に臣下として接するようにと言い含めたのは自分で、先に離れたのも自分だった。
それでも、自分から離れていくことなどないと…隣に立ち手を引いて導くのはいつまでも自分なのだと自惚れていた。
…なにがわかる、ってんだろーね。
俺にもわかんないのにさ。
こんなことで素に戻るなんて自分もまだまだだな、と変なところで冷静に思考が働いているのがわかり、自分の言葉に考え込む柳沢を見て、あー真面目だなー、などと場違いなことを考える。
「わかりません。
それは、牧野殿と上様の事。故に私にわかるようなことなどは。
ですが、それでも貴方が思っていることが誤りであると「…だから、さぁ。
うるさいんだよ、お前。何?
すべて持ってる人間にはさぞ憐れに見えるだろーね。」
つい、語気が強くなる。
誤り?
上様に愛されてるお前が、何言ってんの?
柳沢は綱吉に相応しい相手であると、長年の付き合いで理解している。寧ろ、綱吉が懇意にしたのが柳沢以外の人間であったなら自分はきっと相手を八つ裂きにしてでも消しただろう。
それでもゆるせないのは愛されない側の僻みであるとわかっていながら、そんな現実から目を背けたくて…それを突きつけてくるこの男に、どうしょうもなく腹が立った。
「…牧野」
そんな自分を止めたのは、他でもない主君だった。
やっぱり、あんたは柳沢をまもんだね。
「あは。
そう怖い顔しないでよ、上様。
いやぁ、上様のお気に入りをどうにかするつもりはないよ?ただ………こいつがすっごく的はずれなこと言ってたから、ちょーっとイラッとしただけ。」
「牧野」
「はいはい、ごめんって。柳沢もー。
…でもさ、確証のないことを本人に向けて言うの、やめなー?」
「…申し訳ありませぬ」
「うん、すぐに謝れるの、いいねー。
そ~言う若くて純粋でかわいいとこが上様も気に入ったんだろーね」
歳を食っていて素直になれず、捻くれて変に卑屈な自分ではなく、と言外に言ったつもりだったがやはり伝わったらしく複雑そうな顔をしていて心のなかでどちらともなく嘲笑う。
やはり自分は捻くれてるなぁなんて思った。
…こんな自分は相応しくない。
まぁ、最初から自分は駄目だったわけだけど。
話しだしたのは自分だというのに、それに触れたくないのもまた自分で自分の浅ましさだけが浮かび上がる。
「牧野…余は…」
「ね、上様」
すらりと刀を抜く。
ここは殿中。いつかの浅野のように斬りかからずとも抜くだけで罪となる。
それがわかっているからこそ、鞘から抜いた刀身を綱吉に向ける。
罰されたいと。自分の終わりは綱吉によるものがいいと思っていた。
「やめよ」
「…それがあんたの命令なら」
けれど、どこまで行っても自分は臣でしかないのだ。
我儘を言って、馬鹿なことをしたとて主君の命には背けない。
望む命は与えられない。
心中もいいと思ったんだけどなぁ。
無理心中?はは、うける。
抜き身の刀を静かに鞘に戻す。武芸を極めた牧野は、その一連の動きでさえ美しいと思わせるものだった。
「牧野殿、どういうおつもりで…」
「さぁ?どーいうつもりなんだろーね。
俺にも、もうわかんねーよ。」
手に入らない星を手に入れたつもりになって、少し目を離したうちに星は手からすり抜けてしまった。…最初から自分の手の中に星などなかったのだと星を掴んだ男を…星に選ばれ星をおとした男を見て嫌でも気付かされてしまった。
綱吉も柳沢も、牧野にとっては幼い頃から見てきた愛し子なのだ。だからこそ、どうしたらいいのかわからなかった。
大切で大好きな二人の幸せを願いたいのに、自分の今までが崩れることが恐ろしく二人だけの世界ができることが許せずに素直に祝福することすらできず。
「あーあ、どうしてこうなっちまったんだろーな。
…ね、上様。俺を解放してよ。」
先に手放したのは自分で、自分と綱吉を繋いでいたはずの細い糸を切ったのも自分。縋られているとわかりながら突き放したのも自分。本当は、すべてわかっているのだ。
それなのに、柳沢が結び直した糸を大事にしているくせにもう切れてバラバラに解けてしまったはずの俺の糸を繋ぎ止めて離してくれない。
最後は綱吉に終わらせてほしい。
命は無理だとしても、あんたに突き放されれば終われるとわかっているから。
…縋りついていたのは自分なのに、その浅ましさから目を背けて願いを乞う。
あー、やっぱこういうとこが駄目なのかね。
重い男って自覚はしてんだけどねー。
「嫌じゃ」
「…なんで?」
もーいーじゃん。俺、頑張ったよ?
らしくもなくヘラヘラして相手の気を緩めてさ。すっごく長い時間上様の利になるように働いてきたつもりよ?
「余はゆるさぬ」
…そーいうふうに言うから、勘違いしそうになんでしょ。勝手に期待して、変な希望を持っちゃう。そうなって困るのは、どっちなんだろーね。
「牧野殿!
上様は…上様にはあなたが必要なのだと、わかっておいでなのにどうしてそのようなことを仰るのですか!」
…だからさ、確信のないこと言うな、ってさっき言ったじゃん。
わかるわけないじゃん。
だって、上様が必要としてるのはお前だけなんだもん。確かに、俺は長いこと支えてきたからいなくなると…って思うかもだけどさ、いなくなったってお前、なんとかやってくだろ?しかも、俺より上手く。
俺、必要ないじゃん。
「…まきの」
「ね、上様」
縋るような、懇願するような目を向けられても、あんたが選ぶのは柳沢なんだってわかってるからさ。
どこまで行っても刀しかない俺は、文治政治をしてる上様のことをわかってあげらんない。
…もっと早く、縋りついてくれればよかったのに。まぁ、きっとそうなっても俺はその手を掴むことはできなかったんだろうけど。
だから
…俺なんか、はやく見捨てて幸せになりなよ。
「わからぬのはどちらじゃ、このあほうめ…
…勝手にせい」
「はーい」
最後の絞り出すような許しの言葉に割と大切にされてたのね、なんて調子に乗りそうになってしまう。
ごめんね、こんな家臣で。
でも…
俺は、あんたに仕えられて本当に幸せだったんだよ?
ま、言わないけどね。
だって、それこそ俺のキャラじゃないじゃん。
上様から離れ柳沢の横を通り過ぎる。
「柳沢。
上様を、よろしくな」
「………しかと、承りました。」
まだなにか言いたそうに、不服だ、と顔全体に示しているがそれでも了承の言葉を紡いだ。
うん、表情に全部出しちゃうのは治していこーね。結局十何年言い続けても治らなかったわけだけど。
「じゃあ…
あとはお若い方々でごゆっくり♡」
「………」
「はいはい、ごめんごめん〜」
その日、牧野成貞は江戸城から姿を消した。
とはいえ、死んだわけではない。
ただ、所領に戻り隠居生活になっただけだ。
だが、
「わんわん大事に、アワレンジャー!
今日も一日、江戸の平和を守るのだ」
「わん!」
いつもと変わらない綱吉の口上に続く柳沢の明るい声に、頭を抱えたくなる。
「………あのさ、上様」
「上様ではない、レッドじゃ」
「俺、隠居したんだけど?」
かつて自分も着用していた白い服に身を包む上司と同僚たちは、何を言っているんだこいつ?と言わんばかりの目で見てくるが…待ってくれ、情報がつかめない。
「…隠居したのは牧野であって、イエローではない」
どんな屁理屈だ、それは。
急な脱力感にツッコミを入れることもできない。元々ツッコむの苦手だし。
後ろで成り行きを伺っている信篤さんや隆光さんも、頼りにはならない。
普段そういうのの担当である柳沢は、綱吉が絡むと全肯定botになる。
…イエスマンも程々に、とは思うんだけどね…まぁ、お前はそういうやつだよな…うん、
「は、は…
…ねぇ、レッド。
俺を必要としてくれてるって、自惚れちゃうよ?」
将軍と側用人ではなく、レッドとイエロー。
立場を理由に拒む柳沢ではないが、側にいるのに相応しくないからと隠居を言い出したのだ。
選ばれず、必要とされないのなら俺に価値などないとわかったから、離れると決めた。
届かぬからと諦めていたのに、どうしてかそちらから手を伸ばされた。
…必要としてくれんなら、すべてを使ってでも応えるしかないじゃん。
「…本当に、ポンコツじゃ。
自惚れも何も、必要としておるから側に置いて、必要としておるからこうしてここにいるのじゃ。
そちが余を嫌い勝手に離れていこうとも、余はそちを手放す気はない。」
「俺が、あんたを?…冗談でしょ?
嫌うわけ、嫌えるわけ、ないじゃん。」
嫌えるのなら、こんなに拗れていなかった。
あぁ、わかっていなかったのはどうやら俺だったらしい。
漸く諦めきれると思ったのに、我が主人は未だ離してはくれないようだ。