僕の贖罪7代将軍である徳川家継を最初に見たのは、江戸城だった。
綱吉公ご存命の折に家宣公が江戸城に連れてきたご息子で、江戸城の庭で楽しそうに蹴鞠をしていた。
…その時に、会ったこともないはずなのに何故か既視感を覚えた。
けれど近づいて話すこともなく別れ、久しく紀伊と甲府で離れていたため、再会したのは家継が将軍となった日だった。
長い口上を舌っ足らずな口で、それでも詰まることなくまっすぐ前を向いて言い上げた幼子に遠い昔の記憶が蘇った。
髪はあの頃のような燃えるような赤ではないが鞍馬で出会った頃の兄より少し幼くも、確かに面影を残す顔。
最初は空似とも思ったが、その雰囲気が…僕の中に微かに残る記憶がたしかに源義経その人だと理解していた。
けれど、親戚とはいえどこの国の将軍と藩主になりたての庶子の若造。なかなか会うこともなく数年が過ぎた。
3度目は、病床の将軍に謁見したとき。
優秀だった兄が死に、将軍家継公は危篤。
紀伊から出る将軍は自分になるだろうという確信があった。
だからこそ、自分は今度こそ逃げずに向き合わなければいけないと思った。
病床にはいり、人形のように白く生気を感じさせない姿に息を呑む。
礼に則り家継公にご挨拶を、と言わなくてはいけないとわかっていたのに、頭を上げ家継の苦しげな顔を見た瞬間に自分の口は呼び慣れた言葉を紡いだ。
「…おにいさま」
久しく呼んでいなかった呼び方に、兄と呼ばれた相手…今回は半分どころかほとんど繋がっていないと言えるほど薄くなった血の繋がりを持つ親戚である家継は驚いたように目を見開いた。
ぱちぱち、と数度瞬きして、くるくると目線を揺らしてから数拍あけて、ようやくその輪郭に思いいたるところがあったのか自分を兄と読んだ相手に視線を向けた。
「…能成…?」
先程までの幼さと打って変わった顔つきに驚いたが、兄が自分をきちんと覚えていてくれたことに安堵して、それから未だ消えぬ自分の罪を目の前にして吉宗は…能成はただ謝ることしかできなかった。
「………ごめん、なさい」
あのとき。嫉妬にかられて、自分の無力さから目を背けて自分の価値を見失い、自分を信じてくれた、一番大切だった兄を裏切りその背に刃を向け斬った。
大好きだった。好きで、好きで、どうしようもなく大好きで、一緒にいたくて褒めてほしくて、…僕が一番だって、そう言ってほしかった。
どんなにお友達がいても、血の繋がった兄弟は僕だけで、僕の名前を呼んでくれるのが嬉しくて。
…それなのに、あいつが…
頼朝お兄様が、現れた。
お兄様は頼朝お兄様ばかりで、僕の方なんか振り向いてくれなくて。いつか忘れられてしまうんじゃないか、なんて勝手な想像で怖くなった。
一番そばでお兄様のことを大好きで大切に思っている僕に気づいてくれない。お兄様を大切にしてくれないのに、ずっと一緒にいた僕よりもいきなり現れた頼朝お兄様を信じてどんどん僕の知らないお兄様になっていく。
…耐えられなかった。
お兄様が、憎んでくださると思ったから裏切った。
頼朝お兄様にお兄様が傍若無人で血の繋がりや兄弟など意にも介さぬ男だと偽りを進言し、最後のつながりを断ち切って逃げ落ちた先、最後まで僕を信じて能成が来たならもう安心だ、なんていうお兄様を後ろから斬りつけた。
愛してもらえないのは痛いほどにわかっていた。
わかってしまった。
それでも、お兄様の一番でいたかった。
一番愛する弟になれないなら、
一番憎い弟になりたかった。
それが、僕の弱さ。
僕の罪だった。
あのとき向き合えなかったのは僕の弱さで、裏切ったのは僕の醜さ。それでも最後まで、と願ったのは僕の狡さだった。
ごめんなさい、ごめんなさい、とそれしか言葉を知らぬ絡繰りのように泣いて謝り続ける吉宗の頭に小さな手を滑らせ、もはや腕一本すら動かすことはままならないというのにそれでも優しく撫でる。
「お前が謝る必要はないよ。
…何を、間違えちゃったのかなぁ。
ぼくはさ、兄ちゃんの為なら、どんなことだってできたんだ。兄ちゃんに追討されてるときも、悲しくて、苦しくて、辛かったけど…それでも、嫌いになれなかった。ずっと大好きだったんだ。」
人払いは済ませてあるので、ここには二人しかいない。
すっかり義経の頃に戻った家継は、吉宗の頭を撫で続けながらあの頃を思い出していた。
「もう一度会えたら、謝ろうと、思ってたんだ。
頼朝兄ちゃんにも、範頼兄ちゃんにも…
能成、お前にも。」
そう言って起き上がろうとするが、元々の体の弱さと病状の進行からもはや自力で起き上がることもできず吉宗が背を支える。
そんな姿を遠い昔の健康であちこちを飛び回っていた兄の姿と重ね、それから自分が斬りつけ倒れた姿が重なって心が重く沈む。
「あなたが、謝ることなどないんです…
僕が…」
「…兄ちゃんなのに…能成のことちゃんと見てやれなかっただろ?
斬られたって、痛くなかった。
本気で斬りつけなかったから。
言われてから、わかったんだ。
ずっと一人だったから…兄ちゃんに褒めて欲しかった、頭を撫でてほしかった。
兄ちゃんにあえて嬉しくて、欲張っちゃったんだ…
…たった一人の弟のことすら、ちゃんと見れてなかった。そんなやつ、嫌われて当然なんだよな…」
「ちがう!違うんです!
…僕は…僕には、お兄様しかいなくて…
だけど、お兄様が僕のことを大切にしてくださってること、わかってたのに…
僕の心の狭さが、僕の弱さが…
こわかったんです。お兄様が、僕から離れて言ってしまうのが。僕をおいていってしまうのが。」
「…そっか。
そんなに、自分を責めないでよ。
海尊くんが言ってた。人は弱いから、人を信じられる。自分の価値がわからないから強くいられるんだって。
今日は、ほんとは次の将軍になる吉宗にごめん、って伝えたかったんだ。
ぼくは、もうすぐ死ぬ。うん。
…そんな顔するなよ。
こういうの、わかっちゃうんだ。
…将軍として、なんにもできなかった。
兄ちゃんみたいに、兄ちゃんができなかったぶんまで日本を幸せな国に…いい国にしたかったのに………白石と詮房に任せっきりで、それもぼくが死んだら無駄になっちゃう。
信康くんのことも、もうとやかく言えないね。
だからさ、次の将軍になる吉宗は、とっても大変になると思う。お金ないし、税金も取れないし、紀伊から来て勝手も儀礼もわからないだろうし。でも、それでいいんだよ。
吉宗がやりたいようにやっちゃって。
今までのやり方じゃうまく行かなかったけど、吉宗なら…朝庭で長く生きていろんなことを学んだ能成なら、きっとうまくやっていける。
だから…
ぼくの幕府を、よろしくね」
それが、最後だった。
吉宗が謁見した数日後に、家継は風邪をこじらせ死んでしまった。
ゆるされるなんて、思ってもいなかった。
…僕のせいだと、責めてほしかった。
それなのに、昔のように名前を呼んで、何も褒められることなんてひとつもしていないのに頭を撫でて、自分の後を託すなんて。
きっと、お兄様には僕の浅ましい心がわかってしまったんだろう。
将軍になるべきではなかったのかもしれない。自分より相応しい人はたくさんいる。
けれど、頑張ってみようと思った。
お兄様が大好きだったおにぎりを沢山の人が食べれるようにお米に関する改革をたくさんやったし…少し税率は上げたケド…それでも目安箱で色んな人の意見をきいてみた。あの頃の僕や頼朝お兄様みたいに一人の話だけ聞いて間違った道に進まないように、みんなが幸せないい国をつくれるように。
美人な奥さんをたくさん解雇してB専だなんて言われたけど、正直顔なんてどうでもよかったし…あのゴリラ…お義姉様を考えたらみんな美人だった。
跡継ぎを考えたときは、すごく悩んだ。
長男は体が弱く障害を持っていて、じっくり考えて時間をあけて、忠光と意次の支えがなくては生きていけない子だった。…けれど、人に好かれ人を惹きつける魅力を持っていた。
次男は…なんとなく範頼お兄様に似ていた。
自信家で武芸芸事と何事もそつなくこなすけれど口だけ、というところもありどこかたよりない。
多くの家臣は次男を推して次の将軍は、と口を揃えて進言してきたけれど、僕にはそれが正しいこととは思えなかったし、家光公が定めた長幼の序を崩したときにそれ以降起こってしまう後継者争いが想像できて、兄弟で憎み合い闘う哀しさを知っている自分にはその道は選べなかった。
幸いにも家重の嫡男である家治は優秀で、…義経に血筋を教えた行家その人だったこともあり、幕府のその先を考えても悪い方向には行かないだろうと安心して任せることができた。
「…余の後、家督及び将軍職は嫡子である家重に継がせよ。」
そうして9代家重が将軍職につき、吉宗は大御所として支えた。
選ばれなかった宗武は将軍就任のために家重の欠点を列挙してきたしそれは確かに正論でもあったが、そんなところも範頼お兄様に似ているなぁ、なんて思って3年ほど謹慎させた。
今も昔も家庭環境は複雑で、正しい家族のカタチは知らないし、愛し方も接し方もわからない。実の息子達に対してかなり冷めた感情だな、とは思ったが、それでも愛していた。
血の繋がった息子たちを、大切に思っていた。
藩主として、将軍として生きて、昔は分からなかった兄たちの考えが少しずつわかってきた。
もともと武士と貴族では尺度が違ったし理解できないことも多かったが、それでもかつての自分にとってわからないという恐怖は大きかった。
「………僕は本当の意味でようやくお兄様のことが、わかった気がします。」
死ぬ直前にわかるなんて、あまりにも遅すぎるけれど。
多くのことがあった人生だった。
庶子として死ぬところをなんの運命か当主になり、将軍になった。
能成としての人生を家継…義経と再び出会ったことで昇華させることができ、長い人生の中でずっとわからなかった生きる意味を見出すこともできた。
「僕の生きる意味は、今も昔もずっとお兄様だけれど。
お兄様が僕に託した幕府が、吉宗としての僕の生きる意味でした。」
手を取り合って、というわけにはいかなかったけれど。
かつてのお兄様たちが、幕府を通じて今の僕に繋がっている気がした。
かつたはくだらないと思っていたお兄様以外の人たちを心から愛することができたし、支えたいと、多くの民を護りたいと思った。
それが、きっと