オメガバ快新 第2章の一部(オメガバの第2章の一部ですがこれ単体で読めます)
(ただ上げた後で気付いたんですがこのアップした部分にオメガバのオの字もないです、すみません。サンプルというより単に書いてる作品の中でこういう場面もあるよってことで……そのうちちゃんと連載します)
……時は少し遡る。
黒羽快斗が誰にも言えぬ裏稼業───怪盗キッドを引退したのは、高校3年の夏頃だ。
マジシャンであり怪盗キッド初代でもあった父は、マジックショーの際に不幸な事故で死亡した。マジックの失敗だったと思われていたその『事故』。
だが実際は『謎の組織』が事故を装い、父を殺していた。そいつらが『パンドラ』と呼ばれる特殊なビックジュエルを追い求め、その過程で父を殺害するに至ったことを知った黒羽は、『パンドラ』をそいつらの前で砕いてやると心に決めて、怪盗キッドを名乗り、派手に宝石を狙い始めた。
パンドラを見つけ出して砕き、組織にある種の復讐を果たしたのは確かだし、怪盗キッド二代目をやり始めたのだって己の意志だ。
しかし国際指名手配犯となってしまったことは、結果的に黒羽の心に薄昏い闇をもたらした。
───父が、生きていたのだ。
当時、その事実を隠し、家族である幼い息子をも欺いて『死』を装うことで、父・盗一は家族を組織の手から守り通そうとしたらしい。
彼は、名を変え顔も変えて、異国の地で宝石鑑定士として生きていた。今も裏ではいろいろやってはいるらしいが、詳しくは知らない。
母がその事実を知ったのは、盗一の葬儀後、一年経ってからだったという。
ふたりして盗一の生存を長いあいだ、幼い快斗に隠し通していたこと、仕方がなかったと言われればそれまでだ。
けれど───
もっと早くに打ち明けてくれてもよかったのでは? と思うのだ。
確かに当時、己の父が国際手配犯であったことは知らなかったし、さぞ打ち明けにくかったであろうことも理解はするが。
自分だっていつまでもぴーぴー泣いている幼い子供ではない。敵を欺くための秘密ぐらい守れる。
やりようは、他に、あっただろう? なぁ親父。
父の仕送りはいまこうして、黒羽の学費にもなっている。父はずっとそうやって黒羽と母の生活を影ながら支え続けてくれていたのだ。そのことに感謝はしている。
それでももう、幼い頃ただまっすぐに父を愛し、家族というものの暖かさと美しさを信じていた自分には戻れない。
……戻れないのだ。どうしても。
やさぐれ鬱屈した自分をもてあまし、マジック修行とは名ばかりの放浪の旅にでも出ようかとも思った黒羽だが、工藤新一が元の身体を取り戻して大学受験することを知った時、ある約束を思いだした。
お互い元の姿で逢える時がきたら逢おうぜ、なんて他愛のない、けれどあの頃の自分には明日を切り開く一筋の光にも似た、約束。
今となっては、全てが虚しく思えたが。
(東都大、ねぇ)
別に日本の最高学府には興味などなかったが───工藤との約束を無碍(むげ)にはしたくなくて、彼を訪ねたのは受験生たちがみな忙しくしている、秋頃だった。
何かを語ろうと思ったわけじゃない。顔だけ見て帰ろうかぐらいの気持ちだった。
もう、日本に戻らないかもしれないしな、ぐらいに思っていた。当時、世界の全てが色褪せてみえ、虚無感に苛まれ続けていた頃だった。
工藤はきちんと意味のある戦いを経て『江戸川コナン』を終わらせた。
それに比べて自分はどうだ。
───怪盗になる意味など、あったのだろうか。
父は結局、生きていたのだ。復讐をする意味など元からなかった。パンドラなんて組織にくれてやってもよかった。
己の戦いは意味もなく始まり、無為に終わった。結局、そういうことだ。
「で? 浮かねぇ顔してんじゃねーか」
名探偵の言葉に、黒羽は言葉もなく黙りこんだ。
一定間隔で植えられた銀杏がうつくしい黄金色に映える河川敷の道すがら、なにげないフリで会いに行った黒羽だったが───案の定、工藤は誤魔化されてはくれなかった。
「……」
まぁな、ぐらいの適当な相槌は打てると、あの瞬間まで思っていた。己の心があまりにもやさぐれていることに、あの瞬間まで気づけなかったのだ。
言葉は喉で痞(つか)え、ポーカーフェイスが保てない。こんなことじゃ駄目だろう、と己を叱咤しかけて気づく。
(別にいいじゃねぇか。もう怪盗もやんねぇし、マジックだって───)
あんなに好きだったマジックも、小道具に触れなくなって1か月経った。どんな顔をしてマジックをすればいいかも、もうわからない。
何が楽しくて、生きていたんだっけ、俺。
結局長い沈黙が二人の間に降りた。黙って河川敷を眺めつつ、しばらく名探偵と共に歩きながらようやく絞り出した言葉は、本当に情けないが、取り繕えないままの自分そのものだった。
「いろいろあってさ。なーんか、空っぽでさぁ」
「……」
ちらりと工藤がこちらを見やる。元来この男はきっと話し好きだろうに、今は黙って、黒羽の横顔に静かな視線を注いでいる。
(んな眼で見つめたところで何も出てきやしねーぞ)
黒羽は背を丸め、静かに息をついた。もう生きる意味すらも、己の中には残っていない気がしたのだ。その時は。
「マジックも、もう、出来ねぇかもしんないな」
「怪我、ではなさそうか」
黒羽の手へ視線を注ぎ、工藤が呟く。おう、と頷き、黒羽は綺麗に己の手を工藤の前で動かしてみせ、白いパーカーのポケットに両手を突っ込んだ。
「そういうんじゃねーよ」
「気持ちの問題か?」
「完全に俺の気持ちの問題」
そうか、と工藤は言った。うん、と黒羽は頷いた。
「嫌いに、なったのか。マジック」
問われて、どうだかなと小さく首を傾げる。誰に何を問われても、ここ最近は苛立つばかりだったのに、不思議と工藤の言葉は心のささくれを逆撫でしない。
雨雲の上空にある青空のようにどこまでも澄んだ、静かな蒼瞳がこちらを見ていた。
「……わかんね」
「そうか。じゃぁ」
立ち止まって、工藤が微笑んだ。
「東都大に来いよ。黒羽快斗」
「───」
フルネームで唐突に本名を呼ばれた瞬間、思わず苦笑が漏れた。まだ本名を教えてもいないのにこれだ。こういう奴だった、工藤新一という探偵は。
「空っぽなら尚更、来いよ。積極的に拒む理由がないのなら、行けるもんは行っとけばいいし、得られるものは得ておけばいい」
「……」
不思議だった。工藤が言うことはある種の正論だ。自分に何もない人間ほど大学には行っておけ───それは確かにその通りで、そんな正論こそ今の自分には一番響かないもののはずだったのに。
工藤の言葉は、なぜか、乾いた心に沁みた。
疲れた心が、自然とその声に耳を傾けてしまうような響きがあった。
こんな風に穏やかに、現場以外の場所でぽつりぽつりと語り合うなんて考えてみれば初めてのことで、まだまだこの男のことを知らなかったんだなぁ、などとしみじみ思った。
「空っぽの俺とつるんでも、大して面白くねーかもしんないぜ」
「ははっ。神秘のヴェールを脱げば誰だってそんなもんだろ。お前が白いあの衣装を脱いだように、俺ももう、奇跡の頭脳をもった小学生探偵なんかじゃない」
「名探偵は、どんな格好だろうとお前はお前だろ」
「じゃぁ黒羽、オメーもそうだな」
ああ言えばこう言う。
「何? 熱烈に誘ってくれるじゃん。日本警察の救世主サマが俺なんかとキャンパスライフ楽しんじゃっていーのかよ?」
ちょっとからかい気味に笑ってやると、
「何だ? オレの目の前で犯罪でも起こすか? だったら遠慮無く地獄の果てまで追い掛けるが」
顎を上げ、不敵に目を細めた新一から返されてちょっと冷や汗をかいた。
「うわ、怖ぇ……」
「でも、こうして歩いてるお前は『黒羽快斗』だろ。オレが『工藤新一』なのと同じだ」
「───」
「現場でオメーを取っ捕まえることが出来なかったんだ。一般人やってるオメーを追い回す気は俺にはねぇよ。俺は警察じゃない」
探偵だからな。
そう言って工藤が小さく微笑むと、整った美貌にちょっとだけ小さな名探偵だった頃のいたずらな愛嬌が滲んで、横顔が柔らかくなる。
やれやれ、と黒羽は内心、そっと溜息をついた。
自覚はないのだろうが、やはりこの男、相当な人タラシだな、と思う。バチバチにシューズから火花を散らし怪盗キッドと対峙するときの、小さいながらも猛獣めいた彼の気迫を自分は知っている。だがこうして日常で触れあう相手に、不意打ちでみせる優しさのギャップは、性別関係なく人を魅了してゆくのだろう。
この男に来いよと誘われて、絆されぬ奴などいるのだろうか。
「オメーとなら、東都大も捨てたもんじゃねぇなと思ってるぜ?」
「……っ」
その言葉が決定打になった。凍り付いていた心臓に、とくん、とあたたかな血が初めて通った気がした。
*
なんとなく工藤の言葉に絆されて東都大学に入学し、いざ蓋をあけてみればそこは探偵たちの巣窟だった。
西の探偵・服部平次と、ロンドン帰りの探偵・白馬探までもが東都大に集結していたのである。
正直うんざりした。特に白馬とは高校のみならず大学までも腐れ縁だ。また毎日のようにキャンパスでもキッド呼ばわりされたら、たまったもんじゃねぇなと思ったものだ。
とはいえ───少なくとも入学式以降、白馬が黒羽の正体についての話題を、人目がある場所でふっかけてくることはなくなった。
それは、工藤も同じだ。たまにお互いにしか分からない言い回しでからかうことはあっても、怪盗だのキッドだのといった単語は決して、人前では出さない。
工藤が江戸川コナンであった事実を、黒羽が他人に対して黙っているように、工藤としても怪盗業から足を洗った男の日常を脅かすつもりはないようだった。
そして、一度プライベート込みで親しくなってしまえば、絆が深まってゆくのは自然すぎるほど自然なことだった。
こんなにも一緒にいて心躍る相手などそうはいないのだ。打てば響くように言葉が返ってくる。会話の深度がそもそも他と違うのだった。最初からお互いしかわかり合えない世界があり、互いの秘密を知っているこの関係は、そもそもが特別で、唯一無二のものだった。
それでも───あの河川敷で空っぽだと吐いた黒羽のことを慮ってか、工藤は入学後、一度もマジックのことを口に出さなかった。
転機が訪れたのは、入学してひと月がまたたく間に過ぎ、5月のGWを経て、いよいよ初夏の陽射しが織りなすコントラストが眩しくなりつつあった頃だった。
「おーい工藤。まだかかりそう?」
事件現場───黄色い立ち入り禁止テープの張られた外側から呼びかけた黒羽が見たのは、泣きじゃくる女の子に手を焼いている捜査一課と工藤たちだった。
工藤が昼過ぎから呼ばれていた現場は、ちょうど新作フラペチーノが今日から販売開始されるコーヒーショップの近くだったよなぁ、と思いだしてフラリと立ち寄ってみたのだが。
「よぅ黒羽」
ちょっと困り顔の工藤が黒羽の声に顔を上げ、テープの近くまで歩み寄ってくる。
ちらりと少女に視線を流し、黒羽は声を潜めた。
「なぁどうしたんだよ、あの子。ギャン泣きじゃん」
「ここで殺された被害者の姪っ子。もう親が来るまでどうしようもないかもな」
工藤は溜息まじりに答えた。
少女は、被害者とこの付近で待ち合わせしていたらしい。ところが被害者とは会えないわ、現場は既に規制線張られてて待ち合わせ場所にも近づけないわで、あの少女はずっと現場付近をうろちょろしていたのだった。
警備に立っていた警察官たちは危ないから帰りなさいというばかりで、数時間の間、少女は放置され続けていたのだが、ようやく工藤が少女に気付いて事情を尋ねたら、被害者の姪だと分かった。
「殺人がこの現場で起きてたことは、彼女も既に知っていたからさ。もう手がつけられないぐらい泣いちゃって……。せめてパトカーの中にいれて休ませてやりたいんだが、本人もショッキングな現場を見てパニックになってて。無理やり抱きかかえてパトカー入れるしかねぇかも」
とはいえ、佐藤刑事が女の子の身体に手をかけ、少し強引に動かそうとしても、引きつけを起こしそうな勢いで泣きじゃくってはその手を振り払っている。
現場が一次停止するほどの音量で、彼女は号泣していた。
その気になれば強引に担ぎ上げていけるのだろうが、体格としては小3ぐらいか。あまりに暴れられては落としてしまう危険もあって、周囲の警官も躊躇しているようだ。
「───なぁ、黒羽。オメーならどうにかできるんじゃないか」
スーツのポケットに手を突っ込んで立ち尽くしていた工藤が、ぽつりと言う。
「こういうの、十八番だろ。マジシャンの。新作フラペ、後で奢る」
「───」
眼が、合った。
数秒の後、黒羽ははぁぁぁぁぁと深く溜息を吐き出し───がり、と頭を搔いた。
「つってもね。俺はしがない一般人なもので? このテープの内側に入れませんが~?」
「すみません。彼は通して頂けませんか。少し、協力してもらいたいので」
すかさず、工藤が規制線を見張っていた警察官に声をかける。日本警察の救世主は、難なく一般人・黒羽快斗を規制線の内側に招き入れた。
相変わらずだが顔パスが過ぎる男だ。
(って言ってもな。タネなんかロクにねーんだけど)
それでもこの基本のマジックだけは、いつだってタネを隠し持っている。もう、披露することもないかもしれないとさえ思っていたが。
ゆっくりと、黒羽は幼女の前に進み出た。周囲の刑事や警官が一歩下がる。
空いたスペースに、黒羽はひょいと跪いた。
「Please look at me, sweetie.」
通る声で、呼びかける。
一瞬、少女はぴくりと肩を震わせ、黒羽を見た。泣き濡れた瞳は紅く腫れて痛々しい。
だが英語の意味など解らずとも、突然異国の言葉で呼びかけられたことでまんまと黒羽の方へ意識を向けた少女へ、黒羽は、にこりと微笑む。
「3、2、1」
右手を少女の前に掲げ、黒羽はゆっくりとカウントし───
「0!」
ぱちん! と指を鳴らした瞬間、黒羽の手には赤い造花のバラが咲いた。
「……!」
少女が濡れた瞳を丸く見開く。
時が止まったかのように、号泣がその瞬間、ふっつりと途切れた。
「どうかあまり泣かないで、お嬢さん。可愛い眼が溶けてしまいます。……これは差し上げます。どうぞ」
涙で濡れた少女の手に、そっと包み込むようにしてバラを持たせる。すん、と鼻を鳴らしながらも、少女はそっとバラを縋るように握りしめた。
「……あり、がと……」
少女が呟く。赤く充血した瞳が、それでも少しだけ、落ち着きを取り戻したようにみえた。
(よし、と)
相手が子供であれば尚更、その心を掴めるかどうかは真剣勝負だ。ひとまずパニックから立ち直った少女の様子に、黒羽は安堵した。
悲しみを癒すことは到底できなくとも、その涙が一瞬でも止まったのなら御の字か。
少女はなんとか人の言葉を聞き入れるだけの余裕を取り戻し、その後、佐藤刑事に連れられてパトカーの中に入っていった。多分いまから事情を聞くのだろう。
「……さすがだな」
横に再び立った工藤が、ふふ、と笑う。
「ったく。人使い荒すぎだっつの」
「わりぃわりぃ。でも、やっぱ仕込みは持ち歩いてんじゃねーか、オメー」
工藤がふと、悪戯っぽい瞳で黒羽を覗き込んだ。
「なぁ、黒羽。俺にもなんか見せてくれよ」
「んぁ? なんかって、簡単に言いやがって。マジックにはタネが必要だっつってんだろ? 何もねぇとこからは生み出せねえんだぞ?」
「分かってるよ。そして何もねぇはずも無いだろ、オメーなら」
おらとっとと出せ、とカツアゲのようなことを言うわりには、工藤の瞳にはどこか優しい色があった。久々に黒羽のマジックを目の当たりにし、その蒼瞳が懐かしさに和んでいる。そんな工藤を前に、渋々といった表情を取り繕うのはなかなかに苦労した。
工藤の前で己のマジックを披露するときは、それがありふれたネタであってもやはり、ちょっと緊張する。
けれどこの背筋がすっと伸びるような感覚は───決して、嫌いじゃない。
ましてや『お前なら魅せられるだろう?』と期待を込めた眼差しを久しぶりに浴びてしまうと、もう駄目だった。
(嗚呼……くそ。まーじでタネはもうねぇっつーのに)
心臓が、先刻の幼女相手よりもさらに早いリズムで踊りだす。簡単な初歩のマジックだというのに、全身が軽く粟立った。
思い出す───犯行日の夜はいつだって怪盗キッドの思考を深く読み、ハンググライダーの中継地点を割り出しては待ち構えていたこの男に、鮮やかなマジックを披露してはビックジュエルをその手に載せてきたことを。
父の生存を知ってから今の今まで、どんな顔をして、どんな気持ちでマジックをやればいいか、完全に見失っていたはずだったのに。
名探偵の言葉一つで、己の中の『マジシャン』が覚醒めたことを知った。
しゃぁねぇな、と呟き、黒羽はひらりと工藤の眼前で片手を翻した。瞬間、黒羽の掌に、ポケットティッシュが1枚、どこからともなく現れる。
黒羽はそれを、何度か利き手の掌を翻しつつ、片手一本で綺麗に折り紙の要領で織り込んでゆく。柔らかいティッシュ、しかも空中でこれをやるのは骨が折れる。普段は利き手ではない方の左手を鍛えるために、左手一本で折り紙を作ることがあるのだが、今回はさすがに利き手を使わざるをえなかった。
「うぉ……」
工藤が眼を丸くする。
やがてティッシュで折った、小さな白い薔薇が出来上がった。
ずっとこの作業の間、名探偵の眼前につきだしていた右手を翻し、パチン! と指を鳴らすと、黒羽は再び工藤の眼前で、掌を開いた。
そこには、あったはずの白い薔薇が無い。綺麗さっぱり消え失せた。
「手を出して、名探偵」
「……」
期待を滲ませた眼差しで、静かに工藤が両手を差し出す。
黒羽は、そんな工藤の掌へと、今度は己の左手を差し出した。掌を工藤へ見せる。当然だがそこには何も無い。
だがゆっくり左手を降ろし───
くるり、掌を翻した瞬間、工藤の掌へ白い薔薇がふわりと落ちた。
「おお……!」
その瞬間、意外にも工藤が蒼瞳を零れ落ちそうなほど見開き驚いてくれたことを、黒羽は今も忘れられない。
ティッシュで作った即席の花は、夕刻の風にふわふわと飛んでいってしまいそうに儚い。白い薔薇のようにも、はたまた芍薬のようにも見えるそれは、緋色の夕陽になかなか美しく映えた。
工藤はそれを風に飛ばされぬようやさしく掴み、そして、
「……ふはっ」
瞬間、弾けるように笑みを零したのだった。
「理屈ではこう来るってわかってても、やっぱりすげぇな、オメーのマジックは」
「……」
苦り切った顔でそっぽを向いたが、高揚感が腹の底から湧き上がる感覚がどうにも誤魔化しきれそうにない。
ティッシュの花を手にした瞬間の工藤が、ぱっと綺麗な瞳を見開いた、あの時。
この殺伐とした殺人現場に、突然、花が咲いたかと思った。
(嗚呼……マジック、やっぱ楽しいな)
もっと言うなら、この男を楽しませることが何より楽しいのだと、気付かされてしまった。
「推理も大詰めだ。しばらく待ってろ。約束通りフラペ奢るぜ」
「おっけー。ついでに晩飯も食いにいかね?」
「いいけど飯代は自分で出せよ」
「わーってらぁ」
小さく笑って背を向けた工藤が、しかし二、三歩歩いてから不意に振り返った。
あまりにも澄んだ瞳が、まっすぐにこちらを見やる。
「なぁ黒羽」
涼やかな声が、自分を呼ぶ。
誰の心の中へも清冽な光を投げかけ、秘められた真実に触れずにはおれないその眼差しが、黒羽を捉える。いまはただ静かに、その凪いだ瞳はやさしかった。
「オメーは、やっぱりマジシャンだよ。骨の髄まで、な」
「───っ」
視線を絡めたほんの一秒に、紅い夕空を駆ける風が吹いて、互いの髪を軽やかに乱す。
退屈な日常が、突然、彩度も高く煌めきはじめた瞬間だった。