「桶の準備ができたよ、阿絮!」
「まて、老温。俺をどこに連れていくつもりだ」
「私の部屋だよ」
「今日は外じゃないのか」
「外は暑いから」
「今までずっと外だったじゃないか。日陰の風は心地よいとか言って」
「でも阿絮は暑いって文句を言ってただろ」
「俺がいくら言っても聞かなかったくせに」
「まだ時期じゃなかったからね」
「…なんだと?」
「何でもないよ?ほら、行こうよ阿絮」
「お前の部屋にか」
「うん」
「床が濡れるぞ」
「大丈夫、色々と準備したから!阿絮に寛いでもらおうと思って香も焚いたんだ」
「随分と凝ってるな」
「あと今日は足の按摩もやってあげるね」
「按摩?」
「水桶で涼をとりながら片足ずつやってもいいし、ある程度涼んでから寝転がってでもいいし。そうだな…寝転がったほうが阿絮は楽かな?」
「…いや、それはいい」
「えっ…なんで!?」
「必要ないからだ」
「あ、もしかして私の腕を疑ってるの?言ってなかったかもしれないけど按摩は得意なんだよ。上手いって褒められたんだから」
「そうじゃない、俺は涼めればそれだけで…」
「阿絮は自覚がないだけで結構色んな所が凝ってると思うんだよね」
「老温」
「足だけじゃなく身体全体のほうがいいかな」
「…老温」
「でも安心して、痛くはしないから」
「………」
「絶対に気持ちよくしてあげる」
「………」
「阿絮は、私のことが信じられない…?」
「…やめろ」
「うん?」
「お前、俺がその上目遣いに弱いのを知っててやってるだろ…」
「なに?なんて言ったの、阿絮」
「…ひとつ聞きたい」
「いいよ、なんでも聞いて」
「誰に言われたんだ」
「ん?なんの話?」
「上手いって、誰に褒められた」
「え?あっ…あー……」
「言えないような相手か?」
「そんなことはないけど…ふふっ」
「なにをニヤニヤしてる」
「嬉しいなぁって」
「俺を揶揄ってるのか、老温」
「違うよ。ただ、私の勘は正解だったと確信してちょっと浮かれてる」
「…誤魔化すつもりなら今日はいい。俺は戻るぞ」
「成嶺だよ」
「…なに?」
「技術としては大昔に覚えたものだけどね。褒められたのは最近、成嶺にだ」
「成嶺に…」
「阿絮にしごかれてへばっていたから少し按摩をしてやったら、目をきらきらさせて褒められたぞ」
「なるほど…最近、成嶺がやけに元気だったのはお前のおかげか」
「体力がついてきたこともあるだろうがな」
「しごきがいがあるな」
「あー…程々にしてやれよ?阿絮」
「へばったらお前がまた助けてやればいい」
「…逆効果だったか?」
「なんだ、老温」
「いや、なんでも…で、阿絮。これで納得したな?」
「まぁ…そうだな」
「じゃあ入ってくれ」
「…随分と甘い匂いだな。何の香だ?」
「なんて花だったかな?安眠効果のある…うーん、忘れてしまった」
「そうか…」
「阿絮が苦手なら香は捨てるが、どうする?」
「………」
「私はどちらでもいいぞ」
「…いや、大丈夫だ。少し甘ったるすぎるとは思ったが…たまにはいいだろう」
「そっか。じゃあ問題ないね!部屋の中に入って、阿絮」
にこりと笑いながら温客行が促すように周子舒の背中を押す。そうして周子舒が部屋の中に置かれた水桶へ向かったのを確認すると、くるり振り返って。僅かに口角を上げた温客行は扉に手をかけ、ぴしゃりと隙間なく閉めたのだった。
町へ使いに出た張成嶺が山荘へ戻るまで、その扉が開かれることはなかったらしい。