遠回り二〇一九 寒露
「傑ぅ、ただいま。ただいま! 帰ってきたよー」
賑やかしい挨拶と共に、勢いよく扉が開かれた。築年数も相当の木造物件だ。その勢いの良さにそのうち扉が外れるか、壊れたりするかもしれない。部屋主である夏油傑の、目下のところの悩みとも言えない些細な心配事の一つでもある。
「おかえり、悟」
十年前でなくても常ならば、こんな振る舞いには小言の一つ二つも溢すところだ。けれど傑はにこやかに、勢いよく扉を開けた男を迎い入れた。注意のタイミングは今ではなく、後の然るべきときでいい。話がわからない男ではない。
「ただいまっ。一週間ぶりだね。どう? 傑は元気にしてた? 体調変わりない?」
安定期前の妊婦である新妻を労わるかのような言葉の羅列と共に、腕の中にそっと囲い込まれる。もちろん傑は妊婦でもなければ、男の新妻でもない。それでも男の気遣いと、何よりも彼がこうして自分の許に帰ってきてくれた。それが何よりもありがたく嬉しいから、なすがままに身を任せていた。
二人の身長差は約十センチ。肩に頬を埋めるのにちょうどいい高さでもある。広い背中に腕を回して、傑は久しぶりの触れ合いに委ねるように、全身から力を抜いた。
男の、自身と世界を薄皮一枚で隔てる術式は、傑には発動されない。この地上に存在するありとあらゆるものの中で傑にだけ、孤立している世界は開かれる。
そんな優越を存分に感じようと、傑がさらにすり寄った男を、
五条悟という。
傑の高専生時代、唯一の同性の同期であり、自他ともに認める最強の親友同士だ。そして二人が呪術師として所属する呪術界の由緒正しい御三家が一つ、五条家の当主であり、若き術師の育成と任務の斡旋、サポートを掲げる教育機関、呪術高等専門学校の同僚の教師でもある。さらには三月(みつき)ほど前から傑と交際を始めた恋人というのが、悟の最も新しい肩書だ。
「大丈夫、何も変わりないよ。生徒たちも皆元気だしね。悟も無事で何よりだ」
「もっちろん! 最強の片割れだからね!」
高らかな宣言は学生時代から変わらない。悟と傑。二人の特級を指す称号だ。そんな悟だから傑とて、本気で悟の身に何かあると案じているわけではない。ただ悟の腕の中にいられる、自らの腕で抱きしめられる、この現実が何より幸せだと噛みしめているだけだ。
逢わず、言葉も交わさず、ただその気配を遠くに感じるに留まる時を、長く過ごしてきたせいでもある。
首筋に鼻先を擦りつけると、悟がうふぅと満足そうな吐息を漏らした。いとおしさが溢れ出して、もっと触れたくなった。やわらかな白銀の髪に指を通そうとした。悟は引き剝がすかのように、掴んだ肩をつよく押してきた。え? 傑の思考が止まった一瞬に、悟は戦闘服でもあるお仕着せの教師服の袖を捲り上げていた。
「傑、もうご飯食べた? まだなら僕、作るし」
些か粗野な振舞いとは裏腹に、悟はにこやかな笑みを浮かべている。傑は数度の瞬きを繰り返して、思い至った。夜の八時は術師にとって決して遅い時間ではない。でも悟は、一週間の長きに渡る出張を終えて帰ってきたところだ。
「悟、そんなにお腹空いてたんだね。君が帰ってくるの、待ってたんだよ。食事ならすぐに食べられる」
「ホント? めちゃくちゃ嬉しい。すぐ着替えてくるから待ってて」
言い放ち、悟は先ほど壊れんばかりの勢いで開けた扉から、また風のように出て行った。何とも忙しないことだ。
学校から帰ってきたばかりの幼い子供のようで、思わず口許が緩んだ。だけどすぐ、何とも言えない感情の浮き上がりに逆方向へと歪んだ。
悟が飛び込んできて、また出て言った部屋。まごうことなき、傑の私室だ。
勤務先である呪術高専教員寮の一室で、悟とは学生時代にそうであったように、隣り合った部屋で暮らしている。その状況は懐かしくもあり、もどかしくもあった。
高専に入学した十五の時から四年間。
悟とは、互いに割り振られた任務に赴く以外、朝から晩まで、離れることがほとんどなかった。朝起きれば、食堂で摂る朝食。向かう教室に在籍する生徒は三人で、学年が上がったところでクラス替えもない。任務は別でも、帰ってくるのは隣り合った寮室。時間が合えば夕食も共に食べ、風呂に入り、眠たくなるまでどちらかの部屋に入り浸たる。そのまま寝落ちてしまうこともしばしばだった。狭いベッドの上で布団を取り合ったり、互いを蹴落としたりと、何度繰り返したことか。
卒業して、九年の時を経た今年の春から、二人は久しぶりに隣同士の部屋で暮らすこととなった。傑が臨時教師として採用されたからだ。
嘗ての勝手知ったる仲のおかげで、悟は二つの扉を行き来するのに、なんら疑問を感じていない様子だ。おかげで晴れて恋人同士になったというのに、居を一つにする発想はなさそうだ。
ただいま。何の躊躇もなく傑の部屋に飛び込んでくるくせに。いや、躊躇なく飛び込んでこれるから。悟には、自室も傑の部屋も、主の違うものだという認識がないのかもしれない。
傑は、そうではなかった。
自室はあくまでも自室であり、悟のための独立した居室は隣にある。だから互いのキッチンもベッドルームだって、別々だ。
確かに、五秒も掛からず行き来できるものだから、不自由さはない。
それでも胸に去来する歯痒さを取り除くことができないでいる。それというのも学生時代と決定的に違う点が二つある。
寮室が狭かったせいか、あの頃は今よりもずっと境界線が曖昧だった。傑の部屋のそこかしこに悟の私物があった。
傑は何も、在りし日の二人のものが混在していた雑多加減を良しとしてるわけではない。
ただ悟と出会ってから、人生の半分も時が過ぎようとしている。そのほとんどの時間を、傑は悟に片恋したまま無為に過ごしてきた。
十五年も前の春。入学したばかりの呪術高専の教室には、三つしか机が並んでおらず、二人の同期の内、同性は悟ひとりだった。
鮮烈で突風のような少年。
初めて彼を目の当たりにした時のことを、傑は一生忘れないだろう。
月光を塗(まぶ)したような白銀の髪。見通せない漆黒のグラスでその奥を隠している。それでも通った鼻立ち。艶やかな唇。薔薇色の頬に白皙の肌。手足は長く、小さな頭の乗る等身は、九か十か。最強を名乗る呪術界の申し子は、傑のこれまでの人生では凡そ目にしたことのない圧倒的な美しさで造形されていた。
その上、世間を知らずとも意のままに暮らしていける生粋の箱入りだった。類を見ないほどの不躾さは、生まれ落ちた時から周囲に蔓延るすべてのものに傅かれて育ってきた証でもある。付き合いが深まるにつれ耳にする話は、寓話さえも足元に及ばない、想像を絶するものばかりだった。
その何もかもを知る由のない初対面で、前髪と揶揄られた。傑は悟の襟首を掴むと、その身を窓の外にぶん投げた。
悟からすれば、まさに青天の霹靂ともいえる狼藉だったに違いない。
飛ばされたサングラスの下から現れたのは、晴れ渡る青空を嵌め込んだような見事な蒼眸だった。それをきょとんと瞠らせて、青空をバックに落ちていく。その姿を追いかけて、傑も窓から外へと飛び出していた。
落ちきる直前を捉えて、思い切り背負いで地面に叩きつけた。受け身を取った身体は、砂埃を舞わせてすぐさま反撃してきた。真っ向からの体当たり。往なして、足を払う。躱したところを、反対の足で蹴り上げる。鳩尾へ入れたはずの渾身の一撃は、視えざるものに阻まれた。これだ。その感触が何かはわからなくても、傑は思った。
間合いを取り、改めて、悟を見た。これ以上の攻撃は効かない。力を使いこなすのに、自らの役者不足は明らかだった。
入学前に、スカウトに来た窓から自らの術式については聞いていた。ただ初めて聞くことばかりだから、感覚として、なんとなくも理解できていなかった。
そうして、初めて目の当たりにした他人の呪術。力のある人間が、本当に傑以外にもいた。目の前の少年は、まさに生き物としての同類だった。
傑はその力について学ぶために、呪術高専にやってきたのだ。
生まれも育ちも、あまりにもかけ離れた凹凸を持つ身と。嘆くわけではなく、唯一の同性の同期と理解りあえない残念さが最初にはあった。
如何な傍若無人なクソガキでも、孤高は確かな手本であり、一日でも早くその存在に追いつこうとする励みでもあった。そうして近く座してみれば、曇りなき善性に成り立つ悟の素直さは目を見張るものがあった。
気が付けば、まるで孵りたての雛の如く、悟も傑を手本にして、ぎゅんぎゅんと吸い上げるように、これまでに識る必要のなかった部分を構築していった。
そうなれば二人のちぐはぐさは、隣り合ったパズルのピースのようにピタリと嵌った。
結果。
傑と悟は互いに持ちうる限りを与え合い、補い合える存在になった。一つが嵌れば次々と答えが見つかる謎解きのように、互いを理解するのに、大した時間は要さなかった。
水を得た魚のように、今までに知るところのなかった自由自在さを得た。まるで白と黒の陰陽紋のように、二人で一つの欠けることのない美しい表しにでもなったかのような感覚を、傑に与えた。
それこそが、悟との果てのない友誼の始まりだった。。
それだけで、よかったのに。
傑は悟に恋をした。
傑が持つマイノリティな性志向のせいだけではなかった。喩えそうでなくても、悟に惹かれずにはいられなかった。稀有で聡明で佳麗で。非の打ち所がないではなく、内包した歪さこそ傑が磨き上げるものとさえ思い込めた。
友情と板挟みになりすぎて、苦しいばかりの恋だった。
それがこの夏の終わり、十五年越しに成就した。
恋情をひた隠しにしていた少年期。出奔したまま会えなかった九年。比べれば、現状の何もかもが贅沢に違いない。
成就した恋心と引き換えにしたような、ひとつの悟の私物のない部屋を嘆こうとも。
そして、もう一点は……。
傑はキッチンで味噌汁と野菜炒めに最後の火を通す。学生の頃から大して料理の腕も上げていない。これからはもう少し手の込んだものも作ってみたい。何でも器用にこなす悟のようにはできなくても。
「傑、着替えてきたよ! ちゃんと手も洗ってきたから。何か手伝うことある?」
悟はまたしても、勢いよく扉を開けて戻ってきた。
「ああ。もう皿を運ぶから、悟は何飲む? 私はビールでいいから、好きなの冷蔵庫から出しといて」
「オッケー」
軽快な返事を寄こして、悟は傑の背後をすり抜けた。下戸で甘味好きの悟のために、ジュースもお茶も幾種類も取り揃えてある。
「どれにしようかなー」
浮き立つ顔で、悟は冷蔵庫を覗き込んでいる。そんな姿がどれほど無邪気さを醸し出していたとしても、次の大雪で三十を数えるのが現実だ。
晴れて恋人になったというのに、悟とはキスもいまだ交わせず、ハグよりは親密な抱擁程度の接触しかない。付き合い始めてもうすぐ三月になろうというのに。
「もう薹(とう)がたつほどの大人だよ、私たち」
傑の小さな呟きは、悟の耳には届いていないようだった。
清明
「大丈夫。悟はタイプじゃないから」
それだけを口にして、傑は踵を返してしまう。待って。呼び止めたいのに、声は出なかった。咄嗟に伸ばした手も届かない。追いかけようと踏み出した足の動きは鈍く、あ、と思う間もなく縺れていた。
先の見えない浮遊感に、悟はハッと目を覚ました。
見上げた先には、いつもの見慣れた木目の天井。板目の飴色が築年数の古さを醸し出している。
ここは、悟の職場である呪術高専職員寮の一室だ。新卒で教師になって以来、九年間、悟はこの部屋を生活の基盤にしている。
一間に簡易キッチンが付いただけで、風呂もトイレ共同だった学生寮とは違い、キッチン、バス、トイレのすべてが独立型で、二間ある部屋はどちらも十分に広い。
寝室にしている奥の部屋で、悟は掛布団と共に、床に大の字で転がっていた。それでも睡眠中もオートで張っている無下限のおかげで、頭も背中も痛めることはない。床との間の数ミリ。絶対不可侵の距離だ。一方では、いっそ全身を打ち付けた痛みにあれは夢なんだと叫びたい気持ちもあった。
それなのに痛い。堪らなく。疼くような痛みは、外部から齎されるものではなかった。
肚奥の、どこともしれないような場所。そうした場所が、もしかしたら心というのかもしれない。鋭く針で突かれたような、それでいて、いつぶつけたのかもわからないような青痣になった鈍痛のような、どちらとも言い難い痛みがある。
自身の持つ反転術式でも治せない。一生、誰にも治すことができない痛みが、悟の裡にある。
「久しぶりに見たわ」
悟は天井を見上げたまま、ぼそりと呟いた。
レム睡眠中に見ていた夢は、目を覚ました瞬間霧散することもなく、はっきりと脳裏に残っていた。それもそのはず。遡ること九年以来、何度同じ夢を見たか覚えていない。
さすがに最近では見る頻度も減ってきて、前がいつだったか、朧気になるくらいに期間が空いてた。できればもう、このまま身体の奥深くに沈み込み、忘れたままでいられたらよかった。
どうやら、まだ解放される時ではないらしい。
仕方ない。抱える感情は一ミリだって減らしていない。
夢となり、何度となく脳内に反芻される記憶は、五条悟、一生に一度、世紀の失恋の瞬間だ。
高専卒業間近。梅の花が綻びはじめた二月にしては暖かで、澄み切った青空の広がる一日のことだった。
大丈夫。悟はタイプじゃないから。
穏やかで、やさしい声がそう告げた。
高すぎず、低すぎず。吐息に乗せるような独特の響きのある嫋やかな声は、諭すように、導くように、常に傍らにあり、悟のいっとう好きなものの一つだった。もちろん他にも好きなところがあった。挙げろと言われれば、思いつくままにいくらでも好ましいところを告げられる。ただ、数えだしたらキリがない。
それくらいに、好きだった。
今でも。
その気持ちに寸分変わりはない。
だから当時はまったく大丈夫ではなかった。
タイプじゃない。それがどういうことなのか。その瞬間には、失恋したのだと気づけなかった。結論を導き出すに至るまで、随分と時間を要した。それ程までに酷い衝撃で、忘我の境地に至っていたのだ。
まさに心の逃避行だ。
日常生活に支障はなかった。
高専五年生、最後の一年はモラトリアム期間だ。云っても悟の進路は術師であり、五条家の当主と決まり切っていた。世界の均衡を変えた最強として生まれてきた自分の、背負った命運を投げ出そうと思ったことは一度もない。高専に入学するよりも幼い頃から当たり前のように行っていた祓徐に赴く毎日を送っていた。
傍から見ても、おかしさなど微塵もなかったはずだ。
当時は近くに親しく過ごす存在がいなかったせいかもしれない。同期の一人は医師免許獲得のために外部の大学に進学していたし、もう一人の同期、悟の親友にして最強の相棒は、卒業後、行方知れずだった。入学当初から遊んでやってた後輩二人も、悟と入れ違いのモラトリアム期で、見聞を広げるためと学生寮から去っていた。
桜が咲くと、悟は高専の新任教師としても働き出した。術師と当主、三足の草鞋は面倒なことばかりで、時間が幾らあっても足りない。それでも悟の並外れた能力からしたら、すべては些末事だ。捌く物事が多いだけで、何一つ難しいことはない。
そんな多忙さが却って良かったのかもしれない。
淡々と過ごしているように見える日常の中に、はっきりとした自我を取り戻したとき。悟は自らの最初で最後、一世一代の恋が砕け散ったと漸く認知した。池の菖蒲はとっくに枯れていた。雨の続く日々に、紫陽花も色味豊かな萼を散らしていた。差す日差しの苛烈さが日に日に気になりだした頃のことだった。
自らは対象ではないと一刀両断されたのだ。当然、告白はできなかった。
せめて、あのとき。生まれて初めて身に宿した、浮き立つように瑞々しい恋情を差し出すことができていたら。何かひとつでも違うことができていたら。少しは違った未来があっただろうか。この夢を見るたび、愚にもなく繰り返し考えてしまう。それは今日も変わりなかった。
「にしても、幸先悪いわ~」
悟は起き上がり、床の上で胡坐をかいた。
寝室の窓の向こうは、桜並木だ。薄紅色がちらほらと咲き始めている。都内とは信じられないほど山深い高専では、満開になるまでもう少しかかるだろう。
咲き始めの薄桃色に新しい季節の訪れを思う。
悟の仕事は相も変わらず、当主、術師、教師の三本立てで、まったく変わり映えするものではない。それでも今日から新年度だ。もっとも重要な職場のである呪術高専にも、新入生が入学してくる。そうして一人。新しい教師が来ることになっていた。新卒ではないその人は、今のところ臨時採用らしく、担任は持たない。
悟は最近、当主業にも重きを置いていて、しょっちゅう高専を空けてしまう。そんな時、去年は自習にしていた授業の教鞭を代わりに取り、任務の引率や体術の稽古までつけてくれるらしい。
新任教師の名前は、夏油傑。
類稀なる呪霊操術の使い手。嘗て呪術高専で、悟と同じ教室に机を並べていた同期にして、親友であり、最強の相棒だった男。
そうして、ベッドから転げ落ちた夢の元凶。
悟の最初で最後、一世一代の恋を砕け散らせた、初恋泥棒だ。
「あーあ」
低く呻り、悟は枕もとの時計を見た。二度寝ができるほどの時間はなかった。早めに職員室に向かえば、こなす仕事は幾らでもある。丁度、先月からの任務報告書を溜めているところだ。
新年度まで持ち越してしまっていた。これ以上放っておいては、補助監督に泣きを入れられるか、学長の夜蛾に拳骨を喰らう時期だ。悟にとってはどちらも大したダメージではないけれど。
「とりあえず起きるか」
一緒に落ちた上掛けをくしゃくしゃのまま、ベッドに放った。
◇
顔を洗い、テーブルには朝食用に買い込んだ甘いマフィンやケーキを並べる。インスタントの粉で淹れたコーヒーに、ぼちゃぼちゃと角砂糖を落としていく。スプーンでかき混ぜると、カップの下の方で溶け残りがざりざりしていた。それもあとで掬って舐めてしまうから問題ない。
一人でいる空間は、視界がうるさくないのがいい。
三十路もすぐそこだというのに、まだ年々と高まっていく能力と共に、六眼が拾う情報も過密になっていた。外では特別製の布で仕立てたアイマスクが必須だ。
窓を開けると、朝特有の冷たい空気が部屋の中を巡回していく。
遠くに懐かしい呪力を感じたような気がした。違う。気のせいなんかではない。まさに、感じている。そんなこと、誤魔化したところで意味がなかった。敷地内にある学び舎で過ごしたアオハルに、常に隣り合い、立ち並んだそのひとの、大いなる呪力だ。
「傑」
声と同じようにやさしく包み込むような呪力は強大だ。その中に、彼の取り込んだ数千の呪霊の呪力が揺蕩うように浮かんでいる。
懐かしさと、今朝見たばかりの苦い思い出がぶわりと膨らんで、悟をぐずぐずにした。夢と同様に、こんなにもダメージが与えられるなんて。これからの日々が少し思い遣られた。
「本当に帰ってきたんだな」
傑は運動場の辺りにいるようだった。
どんなに技術や能力が上がっても、鍛錬を怠らない彼のことだ。早朝からトレーニングでもしてるのかもしれない。朝は弱いくせに、開かない目を擦りながらも、学生時代にもよくしていた。たまにはりきって、後輩に稽古を付けたりもして。これからは、学生たちと取り組んだりするのだろうか。鍛錬に励みたい生徒は多く、喜ばれそうだ。
それにしても。
「おまえ、何で今さら帰ってくる気になったんだよ」
ぽつりと呟いた声は、当然届くはずがない。
悟は十年ぶりに感じる呪力を、どう往なせばいいのかわからなかった。
だけど、そこにいる。
きっと伸ばせば手の届く、そんな場所に。
何も考えられないままに、コーヒーを啜った。ざりざりと舌の上に乗る甘さも一緒に呑み込んだ。なのに苦みが落ちていく。
喉になのか、それとも胸になのか。
悟には判別できなかった。
◇
「おっはよーございまーす」
アイマスクに全身を覆うお仕着せの教師服。新しい学年が始まる新学期だって、年中変わることのないスタイルだ。悟の声高な挨拶に、後輩である同僚の灰原が、負けず劣らずの声量で、おはようございます! と返してくる。
その傍らに、いた。
目を向けなくても、職員室に入って来るまえから判っていた。
「悟、遅いぞ」
サングラスを掛けた元担任の学長、夜蛾の苦言はいつものことだ。
「でも遅刻じゃありませんよ」
今日の場合は庇っているギリギリだろうか。歯に衣着せぬ灰原の言動は、悪気がないところが玉に瑕だ。
「だよなー。まだ予鈴前ですぅ」
「遅刻でなければいいというものではないぞ、悟。新学期初日なんだ。連絡事項もそれなりにある。もう少し早く来れなかったのか」
「はぁい、すいませんでした~。で、今年も僕は一年の担任?」
「いいえ。今年は自分が一年生の担任を拝命しましたっ」
「そうなの?」
伺うように見遣ると、夜蛾は一つ頷いた。
「灰原にもそろそろ新入生を任せてもいいだろう。それに今年の新入生はスカウト組ばかりだ。そういうところも灰原に向いていると思ってな」
「確かにね。おまえも教師九年目、そこそこベテランなんだから。いいんじゃない、新入生のお世話係も」
「はいっ。今年は五人と新入生も多めですから、一生懸命担任を務めようと思います!」
「へぇ。今年五人なんだ。年々増えてる? って程でもないかもだけど。一人でも多く、強く聡い仲間になってほしいものだね」
「うむ。入学してくる人数もだが、この数年は皆無事に卒業している。二人には今年も引き続き、熱心な指導を期待しているぞ」
「へーいって、僕は何年生の受持ち?」
「悟は持ち上がりで二年生だ」
「そうなの?」
悟は今年で勤続十年目になるが、まだ一度も学年を持ちあがったことがなかった。生徒たちの術式や特性はさまざまで、なるべく多くの目が届いた方がいいからだ。
「悟は任務以外、雑務でも学校を空けることが多いからな。慣れた生徒がいいだろう。それと、おまえの補助要員として来てもらった」
夜蛾は、旧知であるのに会話に入ってくることもなく、脇に佇んでいた男を振り向いた。
「傑。悟は、まぁ相変わらずだ。その分を頼むぞ」
「うっわ、この教職十年目のグレートティーチャー捕まえて、相変わらずとか酷い」
「何だい、それ。悟は生徒にそう呼ばせているの?」
くすくすと笑う、穏やかな顔に視線が吸い込まれた。九年ぶりの再会だ。
「んなわけないでしょーが。誰も呼ばないし」
アイマスクのおかげで、気が付かれることもないだろう。悟はつい、と目を逸らした。
「私は教師としてはまったくの新人だからね。日々研鑽を怠らないつもりだ。悟、これから宜しくお願いするよ」
夢で聴いた声と、寸分変わらない。いや、ほんの少し低くなったかもしれない。だとしても、相も変わらず耳に心地の良い穏やかな響きをしている。物腰柔らかなところも変わっていない。たぶん、見目に反した短気で武闘派なところも、きっと。
「うん」
差し出された右手を、悟はおざなりに握り返した。そうでもしなければ、開けてはいけない箱の蓋、とでも云えばいいのだろうか。そうしたよくわからないものが撥ね上がり、それこそ口から自分の制御下に置けないような何かが吐き出されてしまいそうだった。再会したばかりの初日から、そんな醜態を晒したくない。
本来なら悟は、そんな人間ではない。
自らを律するどころか、周囲に惑わされることなど論外だ。どれほどの惨事が起ころうが沈着冷静でいられる自信がある。そういう育ちであり、生来の性質だ。
唯一の例外として、悟に諸々のイレギュラーを起こさせる存在、それが夏油傑。目のまえに立つ男だった。
出会った当初は、非術師家系のスカウト組なんて、それこそ視界にも入れる気もなかった。
どんな術式を以てスカウトされてきたのか知る由もない、何処の馬の骨ともつかない一般人が、平安の時代より連綿と続く呪術界に御三家ありと君臨し続けた上流も上流、五条家の跡取りであり、六眼と無下限呪術を併せ持つ五条悟と、同じ教室に在籍するのも烏滸がましいと思ったほどだ。
けれど夏油傑という男は、何一つ一筋縄ではいかなかった。
「よろしくね、五条くん」
十五年前の春に、傑は今と同じように右手を差し出してきた。
「何だぁ、変な前髪?」
きっちりと結い上げてる髪から、ひと房垂らしたそれの意味が分からなかった。一方では、教室に足を踏み入れたときからずっと気になっていた、彼の胎内に犇めく呪力を改めて目の当たりにした。
飼い馴らされた呪霊が数多に蠢いている。
呪霊操術。
家系による相伝ではなく、出現すること自体、稀有な術式だった。簡単に察知しただけでは、二級相当だけでも数えきれないほどを棲まわせていた。
傑は呪力も呪霊も知らない非術師家系だったから、入学当時は暫定四級からのスタートだ。それなのに、すでに与えられた等級よりも高くに振り分けられる呪霊を腹に治めている。悟が見たところ、呪力量の多さも大したものだった。
俄かに興味を抱いたものの、悟の意図しなかった軽口が傑の短い導火線を瞬時に焼き尽くしていた。
気が付けば、教室の窓から放り投げられていた。飛んで行ったサングラスに呆けていると、地面スレスレのところで掴まれ、また投げられる。受け身で往なし、反撃する。繰り出される拳や蹴りの一つ一つが思った以上に重たかった。
知識もないくせに、呪力は込められるらしい。楽しくなってやり合っていれば、鋭い一撃が腹に仕掛けられた。瞬時に無下限を張った。
傑はピタリと行動を止めた。不可解な未知なるものに触れたのは判ったようだった。
すっかり上気した顔は、興奮と好奇心を満面に浮かべている。悟を前にして、そんな貌を見せた者は、今まで何処にもいなかった。湧き上がる何かに、悟も身の内が脈打つのを感じていた。
何だ、これ。この世の誰も、何も、悟にそんな感情を与えたことがない。名も付けられない心持ちに、悟もすっかり興奮していた。
「おまえ、」
「夏油傑。名乗ったはずだよ、五条君」
「傑な。覚えた。にしてもおまえ、俺を知らないって恐れ入るぜ。俺は、悟」
「……悟」
ほんのわずかな躊躇の末、呼ばれた名前と再び差し出された右手。握ろうとした瞬間に、走ってきた夜蛾に二人ともが拳骨を喰らっていた。
そのまま職員室まで連行された。
二人とも反省しろと、廊下で正座をさせられる。
悟にとって何もかもが、目を剝くような初めての経験だった。
そんな初対面以来、悟は傑に一目置いていた。
生まれて初めて、対等なくらいの呪力を持ち、操ることができるようになるかもしれない存在。それ以上に、傑の悟を悟としてしか見ていないところ。それを身をもって実感するとき、おかしなくらいに感情が揺さぶられた。
それから毎日、並べた机で授業を受け、寮に戻れば隣り合った寮室で、朝から晩まで共に過ごした。
入学当初から単独任務が許されていた悟と違い、傑はまず呪力操作を基礎から学んでいた。夜蛾に与えられた呪骸に殴られることなく、呪力を一定に保つ練習。用意された映画やバラエティを見ながら行うそれを、悟は必ず傑の傍らで見ていた。実家で暮らしていた頃には、見たことのなかったテレビ番組や映画に興味もあった。しかし何より、思ったよりも感情起伏の激しい傑が、呪力を揺らすたびに呪骸に攻撃される。それを見るのがいちばん面白かった。
傑は攻撃を避けるのも巧くなったし、逆に攻撃し返して、呪骸をダメにしては落ち込んだ。抱腹絶倒するバラエティ番組を見ていても、手本のように呪力を寸分も揺らがせない悟に感心しきりだった。
そんな些細なことが単純に嬉しくて、悟は持ちうる限りの知識と経験を傑に教えた。
傑は非常に優秀な生徒だった。梅雨入りの頃には、悟と一緒に笑い転げていても、呪力の乱れはまったくなくなっていた。そうして瞬く間に、術師としての必要なスキルを身に着けていった。
一方で、傑は悟の触れてこなかった一般社会の常識や、年相応の娯楽、どこででも簡単に味わえるジャンクフードなど、ありとあらゆることを教えてくれた。
世界はこんなにも広かったのか。悟にとっても、驚愕と興奮の日々の始まりだった。
傑の等級が上がると、二人に任される任務が多くなった。
子どもの頃から淡々とこなしてきた任務と変わりがないのに、二人で掛れば、幼い頃に読み聞かせてもらった冒険譚の主人公にでもなったような気になった。覚えたての連携は、それこそゲーム感覚で愉しさばかりが爆上がりした。
任務が終われば、待ってましたとばかりの寄り道だ。あの頃の悟にとって、楽しくともやりなれた任務より、そちらの方がメインだったとも云える。
ラーメン屋、ファミレスはもちろん、女子ばかりが並んでるクレープ屋にも嬉々として傑を誘った。アーケード街のゲームセンターで日々更新させる記録。レンタルビデオ屋ではこっそりカーテンの向こうにも忍び込んだ。
終わりが来るなんて考えたこともない、まさに輝かんばかりのアオハルの日々を過ごしていた。
「悟、そろそろ」
「あ?」
掛けられた傑の声に、悟は我に返った。握りっぱなしだった右手を慌てて離す。
「予鈴が鳴ったよ。私達も教室に向かおう」
どれくらいぼんやりしていたのかと内心冷や汗ものだったが、大して時間は過ぎていなかった。灰原が教材を片手に職員室を出ていくところだった。
「あぁ」
歩き出した悟の後を、傑が付いてくる。
「悟、持ち物は? 何も持っていないけど」
「二年は勝手知ったるメンツだし、特に何もいらないよ」
「そう」
「ちょっと傑ちゃん。そろそろやめておいたら」
カウンターで杯を重ねていた傑の手元に、チェイサーのグラスが置かれた。
「そんな、言われるほど飲んでないよ」
口にしてみるが、傑は大人しく差し出されたチェイサーを含む。ただのミネラルウォーターなのに、五臓六腑に染み渡る気がした。
「ゔ~」
傑はグラスの中身を飲み干すと、カウンターの上に組んだ腕に突っ伏した。身も世もなくと云ったような呻きしか出てこない。付き合いの長い店主には、そんな姿が珍しいのだろう。
「あらぁ」
面白がるような声が降ってくる。小さな目玉でだけ見上げると、ふふ、と悪びれもなく笑われた。正直、醜態を晒している自覚もある。だけど、どうしようもできなかった。
「で、どうだったの? 待望の教員生活一日目は」
店主の重厚なバリトンボイスは定評があり、一定数どころか、この店に通う常連の大多数がその声の支持者でもある。どうして声だけ。店主の姿を知っていれば、訝しむ者はほとんどいない。
ハンサムショートと云っただろうか。切り揃えた金髪の髪をカチューシャで纏め上げた百八十を超す筋骨隆々の男は、上半身裸でハートのニプレスを常用している。
そんな異様な装いも、立地の地域柄問題にもならない。
場所は新宿二丁目。
十五年前。上京した傑が、高専よりも先に足を踏み入れた都会の繁華街だ。彼がここに店を構えてから、すでに五年以上になる。
傑が臥せっているカウンターに席は八つ。他に四人掛け、二人掛けのテーブルが二つずつ。街の奥まった路地で、それほど広くはないバーを経営しているラルゥはフリーの術師で、この街での古くからのなじみだった。
「そんなかわいい顔してないで、教えなさいよ」
かわいい顔って何だ。傑は回らない頭で考える。目端に映るラルゥは、綺麗に拭き上げたグラスを奥の棚に一つ一つ戻していた。
閉店時間まで、まだ少し時間がある。時間のわりに珍しく、客はすでに傑だけになっていた。週が明けたばかりの月曜日の夜。それも新年度が始まったばかり。時期的には桜が見頃を迎えているから、ビニールシートの上で缶ビールでも空けてる連中の方が多いのかもしれない。
「この時期は商売あがったりでいやになっちゃうわ」
どうやら同じことを考えていたようだった。バリトンボイスの嘆きは、粛々とした祈祷のようでもあり、傑は思わず頬を緩ませた。
「じゃあ、売り上げに貢献するから。同じのもう一杯」
「何言ってるの。どうせお客は見込めないわ。今夜は早仕舞いするから、傑ちゃんも帰る支度をするか、長居するつもりでいるならとっとと吐いちゃいなさいな」
ラルゥはどうにもそのことを訊きたくて堪らないらしい。口端をにこやかに吊り上げている中に、好奇心いっぱいの野次馬根性を隠してもいない。
それも仕方がないのか。高専に在籍していた頃には苦しい恋情を、高専を離れてからは聞こえてくる噂だけでも右往左往しては吐露する心情を、聞いてくれる相手は他にいなかった。
仕方ないわね。ラルゥは傑の好むウィスキーの水割りをチェイサーグラスの隣に置いてくれた。浮かぶまん丸に象られた氷の美しさにぼんやりと目を向ける。頬を潰した間抜け面が横伸びに映っていた。
氷塊は絞られたライトを受けて美しく輝いている。どうせなら童話に出てくる水晶のように、想い人でも映してくれればいいのに。馬鹿げた考えに鼻を鳴らして、傑はぐずぐずと身体を起こした。水割りを口にする。スモーキーな香りが鼻腔を抜けていった。
ラルゥは看板の電気を落として、クローズの札を掛けに行く。まだ最後の客が来るかもしれないのに。至る所に滲み出るやさしさに甘えてしまっている。駄目になっている自覚はあった。
施錠して、流していたBGMも落とされた。まったく静謐な空間に、ボトルから酒を注ぐ音だけがしていた。
「……生徒たちは、みんな素直そうだったよ。術師になる、いや、もうほとんどの子が一人前の術師として任務に就いている。なのに明るくて、屈託ない、年相応な子供で。なんて言うのかな。もしかしたら私達も、先生からしたらあんなふうだったのかな。もっとずっと一丁前の大人みたいな顔をしていたからね。なんだか不思議な感覚だったな」
古くからの術師家系、御三家の血筋の恵でさえ、達観してる部分はあれど、素直な心持ちに見えた。家の外で育ったせいだろうか。界隈育ちの歪みがほとんどない。悠仁や野薔薇とのやり取りを見ていたら、過去の三人きりの教室が無性に懐かしくなった。
「そんな戯言が訊きたいんじゃないのよ」
ラルゥは顔を顰めて、小さなテイスティンググラスに注いだ琥珀色を一息に喉へと流し込んだ。
「どうだったの、五条悟は? 十年ぶりに相(あい)見(まみ)えて」
もうすっかりワイドショーや週刊誌でも眺める顔だ。傑は深く眉間に皴を寄せた。
「そんな顔してもダメよ。どうせ話を聞いてほしくて来たんでしょ。云うとおり、そんなに吞んでもいないのに管巻いちゃって。本当、傑ちゃんはこんな可愛いところばかりなのに、どうしてその魅力が五条悟には伝わらないのかしらね~」
「うるさいよ」
傑はとうとう子供のように口を尖らせた。ラルゥ相手に、今さら取り繕ったところで仕方ない。
「変わんないよ、悟は。私の親友、唯一無二の。私とはどんなに相容れなくても、離れるまえに言ってくれた、その通りにね」
傑はいじいじとグラスを弄ぶ。そんな様子にラルゥは呆れたと云わんばかりだ。
「その話はもう聞き飽きたわ」
「だって、そうなんだよ。悟は……」
傑は口を噤むと、残っていた水割りを一息に飲み干した。冷たさとは裏腹に、肺の辺りをかっと灼く。吐き出す酒気に目が回りそうだ。酔ってはいない。ただ打ちひしがれてるだけだった。
ラルゥにはこれまで散々赤裸々に吐き出してきたのに、どうにも今夜はそんな気分にはなれない。
傑は尻ポケットから財布を取りだした。
「ごめん、長居して。お勘定頼むよ」
「はいはい」
差し出された伝票に、現金で支払う。ラルゥの店はクレジットもバーコード決済も受付けていない。そんな線引きも、心地のいい空間を作るのに一役買っているのかもしれない。
「ごちそうさま。また来るよ」
「いつでも大歓迎よ。おやすみなさい、傑ちゃん。帰り道、気を付けてね」
「ありがとう。おやすみ」
時計の針も頂点を回ろうというところだ。路地に面した店から出れば、四月になったばかりの夜はまだ肌寒かった。薄手のコートの前を掻き合わせる。月曜の夜でも場所柄のせいか、人がまだ行き交っていた。
都の外れである最寄りの駅まで、終電は既にない。さすがにここから呪霊に乗って帰るわけにもいかない。幸い、空車のタクシーがすぐに見つかった。手を上げて、開かれた扉の内に乗り込んだ。行き先を告げる。かしこまりました。応える運転手の声は、少し弾んでいたかもしれない。
流れていく車窓の景色が目まぐるしく感じた。閉じて、深く座席に身体を預ける。昼間に少しばかり、任務のない子供たちの相手をしたくらいだ。大した労働もしていないのに、疲労感だけが半端なかった。
莚山麓まで、かなり時間が掛かるだろう。しばらくラルゥの店から足が遠のくかもしれない。
都内とは信じがたい程の山深い奥地。その先の切り拓かれた広大な土地に呪術高専があり、今日から傑の棲み家である教職員寮も建っている。
使っている職員は多くなく、学生寮と同じで空き部屋も多い。なのに、部屋は悟の隣だ。
授業後職員室で、悟は顔を合わせなかった。任務も引率もない代わりに、外部へ呼び出されたのだとばかりに思っていた。
傑は部屋で、届いた荷物を片付けることにした。
「何か、手伝うことある?」
背後から掛けられた突然の声に、飛び上がりそうになるほど驚いた。振り向くと、教師服から着替えたラフな格好の悟が立っていた。
部屋の鍵は掛けていなかった。それでもプライベートエリアだ。声掛けもなく、入ってくるとは思ってもみなかった。
きっと悟は、学生の頃と変わらない距離感でいるのだろう。あの頃、互いの部屋の境界はあってないようなものだった。
ありがたい気持ちと、ありえない気持ちで傑の内はぐちゃぐちゃになっていた。
「大丈夫だよ。荷物はこれだけなんだ」
努めて平静に、傑は並んでいる三つの段ボールを指さした。
職員寮には、ある程度の生活必需品が整っていると、夜蛾から聞いていた。段ボールの中身は最低限の衣服に、必要不可欠な備品のみ。足らない電化製品などは、明日届く手筈になっている。
高専を飛び出してから九年、フリーの術師をしている間はしょっちゅう棲み家を変えていた。いつでも身軽でいられるように、荷物は多く持たなかった。まるで足取りを気取られたくない犯罪者にも似た後ろ暗さが常にあった。
「ふーん」
手伝うことはあるのかと訊いたくせに。悟は両手をポケットに突っこんだまま、傑と段ボールを見下ろしていた。傑にとっては見慣れないアイマスクをしたままだ。感情が読みにくく、視線の行方もわからない。
「晩飯、どうすんの?」
「今日は友達に誘われてるんだ。このあと外に出てくるよ」
もちろんそんな予定はない。だけど考えるよりも先に口から出ていた。わずかに悟の口許が歪んだ気がした。いや、たぶん気のせいだろう。
「あっ、そ」
悟は短く言い残し、傑の部屋から出ていった。
ぱたん。扉が閉まった途端、塀に飛び乗る猫の跳躍も斯くやというほどに跳び上がり、素早い動きで鍵を閉めた。心臓が壊れそうなくらい早鐘を打っていた。
旧式のドアノブを握りしめながら、爆発しそうな心臓を宥めるように服の上から一撫でする。ふぅふぅと吐く息も荒い。全身は炙られたように熱くなっていた。
やはりここに来たのは間違いだったかもしれない。
夜蛾からは、数年前より教師業への誘いを再三に受けていた。術師はいつだって不足しているし、教師との二足草鞋ともなればなおさらだ。理由はもちろんそれだけではない。学生の頃、傑は一貫して教師を志していたからだった。
卒業直前に進路変更した教え子のことを、夜蛾は常に気に掛けてくれていた。それでも傑は、なかなか踏ん切りがつかなかった。
悟と、近く顔を合わせたくなかった。理由はそれだけだ。
当時、悟は傑に追随するように、教師になると決めていた。
御三家の当主がとんでもない。実家からは反対の声も上がっただろう。けれど当主が絶対のワンマン主義が、すべての口を塞がせた。
そんな経緯もあって傑は、悟はそもそも教師にならないか、いずれ辞めると予想していた。そのとき改めて、高専に戻る心積もりでいた。
しかし九年経った今でも、悟は教師を続けている。聡く、強い仲間を作ろうと邁進しているのは、後輩で同僚の灰原からも度々聞いていた。
それほど熱心に取り組んでいるのなら、何も傑が水を差すこともない。傑には、傑のできることで術師のための貢献をする。志してはいたが、是が非でもと教職に就かなくてもよかった。
だけどこの春に、どうしても高専に戻るべき事情ができた。
情報を齎したのは紅一点の同期、医務室に勤める反転術式の使い手、家入硝子だった。
もともと悟は、術師に当主に教師と三足の草鞋で、時には授業も回せない程多忙だと聞いていた。この一、二年は当主業に身を入れているらしく、しょっちゅう実家へも足を運んでいて、そろそろ落ち着き時らしい。
潮時だ。
傑は思った。
学生時代から十五年も胸に秘めてきた悟への恋情は、一生捨てられない。それでいい。墓場まで共に連れていく覚悟はとおにできている。
そうして硝子の言うとおりならば、悟は教師として限界を迎えているのだろう。辞めれば、悟が高専に顔を出す機会など、ほとんどなくなるはずだ。
傑は階級こそ悟と同じ特級だが、スカウト組の非術師家系で地盤など何も持たない。それこそ有力な家系に婿入りでもしない限り、界隈の中枢には何ら関りを持つことがないだろう。
当主業に専念する悟との接点は、これまで以上になくなる。
もちろん悟には会いたくなかった。
だけど、この機会を逃せば、本当に疎遠になってしまう。もしかしたら、どちらかが命を落とすその日まで。そうなるまえに、一目なんて控えめさではなく、悟との新たな記憶がほしくなった。今でも、悟があのとき言ってくれたままなのか、確かめたくなってしまった。
斯くも、恋情とは身勝手であさましい。
自ら消息を絶ったくせに、そうであった絆を忘れることなく刻み付けておきたいだなんて。
「だって……」
悟と過ごした五年は、傑にとっての人生の宝物だ。
夕刻、不意に現れた悟を思うに、きっとあの頃のままでいてくれると信じたい。
隣り合った寮室で過ごしていた頃。任務に出ていなければ、授業後も一緒に過ごし、ゲームや映画鑑賞と夜更けまで過ごすこともしょっちゅうだった。
すぐ隣の部屋なのに、帰りもせず備え付けの狭いベッドで布団を取り合ったし、朝起きれば、どちらかが床に落ちていることにも、文句が出ない程に慣れていた。悟はとても寝相が良くて、傑が落ちないように大抵壁側を譲ってくれた。ささやかなやさしさにも、胸をときめかせていた。
術師は生半可な仕事ではない。
特級だからこそ、相対する呪霊の等級も高くなる。生まれながらの術師家系である悟には、どう足掻いても伝わらない葛藤がどうしてもあった。だから同じような立場の者たちに寄り添えるように、教師を目指した。悟が共に目指すと聞いたときには、心強くて、隠したままの恋情にほんのわずかな痛みを伴った。
それでも、向かい合わせに、背中合わせに、暖かな体温がそこに在る。そうした事象に救われた夜が何度もあった。もちろん、それ以上に苦しい夜だって。
高鳴る心臓を、熱く昂る身体を押し殺して。
悟の隣で笑っていたかった。
だから、悟にだけは知られたくなかった。
報われることのない、薄汚い恋情を持つ身を。
はぁ。重苦しい吐息にアルコール臭が鼻に衝く。
傑は何度でも思い出す悪夢を、一瞬たりとも忘れたことがない。脳裏には、いまだ鮮明に刻み込まれている。
九年前のあの日。
ひた隠しにしていた傑の性志向を知っていると、悟が告げてきた。
二〇〇九 雨水
悟に、恋をしていた。
同時に、二人の間には何物にも代え難い友誼があった。
そのおかげで傑は、いくら恋焦がれようとも、愛される夢は見なかった。
悟はいずれ御三家である五条家の当主になる男。いくら傑が悪戯に、知る必要のない広い世界を教えたとしても、根っからの呪術師だった。千年続いてきた血筋をこの先の千年にも残すための歯車としての生き方を、これ以上ない程に弁えていた。
そうした時代錯誤な風習は傑の理解の範疇を超えていたが、重ねてきた歴史の重みは、一朝一夕にどうにかなる問題でもない。
日々を過ごすうちに年相応の少年らしい面を多分に見せるようになった悟だったが、その線引きは確固たるものだった。
傑に入り込む隙間など何処にもない。
巻き込まれる血筋ではない自分の自由さが、ある意味拠り所だったかもしれない。
生活の基盤が山奥深くにあっても、一応は都内だ。千差万別の雑多さがある性志向のマイノリティなど、視えざるものを祓う身としては、一般的に確立された括りがあるだけ随分マシに思えた。
年々忙しくなっていく任務。バラバラに派遣される先。学年が上がれば、悟と生活がすれ違うことも珍しくなくなっていた。見つからない隙はそこかしこにあった。
生活圏ではない場所で、傑は青少年の持つ好奇心と性欲をそれなりに発散していた。
だからまったく油断していた。
悟が興味のない、あまりにも俗っぽいものを目にする機会などあるはずがない、と。
傑が使っていたのは課金制の会員サイトだった。それだけでも一定数は削られる。学生にあるまじき術師の給与は大変ありがたかった。
もちろん顔出しなんかしてなかった。そうしたサイトに登録するにあたって、よくある切り取り写真と簡単な嗜好のプロフィール。
ネットの海には似たような事象はそこかしこに転がっているのに。いったい、何を、どうしたら。悟がそこまで辿り着いてしまったのか。
理由は怖くて、聞けなかった。
いったい、いつから悟は、傑がそうと、疑っていたのだろう。
モラトリアム期間の五年生も終わりが近かった。任務は格段に少なく、外遊なども経験して、傑は実り深い一年を過ごした。
悟は先の二十歳の誕生日に、正式に五条家の当主となっていて、それに伴う雑務がひと段落したところだった。
卒業したら、ほとんど京都に詰めることになるのか。あまり会えなくなりそうだ。考えると、やはり淋しかった。
なのに、傑がなるのなら。そんな理由で、悟は教師になることに相乗りしてきた。考えもしなかった。悟と二人で母校の教師と術師の二足草鞋だなんて。
四月からまた忙しくなるな。二人で笑いあった。まだ少し残るモラトリアム期間を惜しむような、二月にしては穏やかな日和だった。
久しぶりに映画にでも行こうと、話していた矢先だった。
「これ、傑だろ」
何の前触れもなく目のまえに出されたのは、ガラケーの小さな画面に映し出されたプロフ写真。目にした途端、心臓が止まりそうな程の衝撃を受けた。いや、もしかしたら一瞬くらい止まっていたかもしれない。
吹っ飛びそうな意識をどうにかこうにか手繰り寄せて、メニューボタンに指を押し込んだ。そのまま悟が手にする二つ折りの携帯を、叩きつけるような勢いで畳んでやった。
「大丈夫。悟はタイプじゃないから」
考えるよりも先に、口から突いて出た。悟は真っ黒なサングラスの向こうで、びっくりしたように大きな蒼眸をぱちぱちと瞬かせた。
「……そうなんだ」
少しの時間を置いて、一言だけが零れてきた。
「そうだよ。だって、悟とは友達だろう」
勢いのままに言葉を重ねた。対して、あー、うん。返ってきたのは、聞いたことがないような平坦な声だった。どんな酷い喧嘩をしていたときでも、あんな声を聞いたことはなかった。きっと悟も驚愕のあまり、動揺していたに違いない。
だけど悟は、すぐにも平素を取り戻したようだった。
「そうだよな」
短い一言は似ているのに、さっきの平坦さとは比べようがない程、音に噛み締めるような丁寧さがあった。
「傑は俺の友達。たった一人の親友だもん」
親友。
それも、初めて聞いた言葉だった。
ふざけたように、自分たちこそが最強と口にすることは度々あった。二人で一つの括りであることは、どんな表現だって嬉しかった。
だけど、親友。
気恥ずかしくとも、互いに心の底では思っていたのだろうか。少なくとも、傑は思っていた。悟は恋しいひとではあるが、それよりも何よりも、大前提として、かけがえのない唯一の友達。後にも先にも、悟以上に信頼できる親密さで関係が築ける相手はいない。喩えこの先二人のあいだに、何某かが起こったとしても。
口にするには面映ゆくもある言葉。
それを、悟が口にしてくれた。出会って、ほぼ五年。朝な夕なに生活を共にしてきた月日の中で、初めてのことだった。
傑は心底安堵した。
きっとこの先も、何があろうとも悟とは友達でいられる。
いつか、悟がそう口にしたことを忘れてしまったとしても。今この瞬間に、二人は親友で、互いにかけがえのない存在に違いない。
「そうだよ。どんなに傍若無人で世間知らずなボンボンでも、悟以上の友達、私にはいないよ」
「それ褒めてねぇじゃん」
「だって全部本当だから。君以上に大切なひと……親友だからね、そんなのどこにもいない」
傑は、一言一言を噛み締めるようにして伝えた。手のひらに爪が食い込むほど、固く拳を握りしめていた。そうでもしないと、決壊してしまいそうだった。ずっと。ずっとずっと胸奥に秘めて潜ませていた何もかもが。
悟が笑う。太陽みたいに眩しく、月のように美しく、星のように煌めいた笑顔だった。
向けられたその表情を抱きしめていたら、この先にどんな困難が待ち受けようとも、何処までも歩いていけると思った。
独り、でも。
そのまま予定通り、二人で映画を観に行った。電飾の落ちた暗がりの中で、スクリーンから洩れる光に映る悟の横顔だけを見ていた。
もっといい物を食べに行けばよかったのに。映画館を出てすぐ目に付いたファーストフード店に、吸い込まれるように入った。久しぶりに安上がりなハンバーガーを大口開けて頬張った。指先を油まみれにして、LLサイズのポテトを食べた。最後の方はしなびていたが、全部食べ切った。悟は甘ったるいピンク色のシェイクを飲んでいた。チョコパイにソフトクリームまで食べていて、相変わらずだねぇと揶揄ってやった。始終ご機嫌そうに見えた。
当然のように二人で帰寮した。
おやすみ。言い合って、互いの部屋に入っていった。
傑はそのまま突進した窓から呪霊に乗って飛び出した。職員室の明かりは点いていて、幸いにも夜蛾はまだ在席だった。
「先生。私、教師になるの、辞めます」
学長となっていた元担任教師は、何を云われているのかわからないと、呆然としていた。だけどすぐ、気を取り直したようだった。術師の臨機応変とは、こういう時のためにあるのかもしれない。
「それで、傑はどうするつもりだ?」
「フリーの術師になって……遠方からバックアップとかしたい、です。生徒の実習とかも、無理のない範囲でできるように」
「そうか。それなら傑の等級に見合う任務の他に、俺の裁量でそういったことにも派遣するようにしよう」
「ありがとうございます」
頭を下げて、背を向けようとした。
「傑。悟には、」
「何も言わずに行くつもりでいます」
夜蛾は仕方ないと云うように、吐息した。
「新年度の割り振りを全部最初からやり直しか」
「すいません」
もう一度深々と頭を下げる。二人入る予定だった新卒教師が一度にいなくなるのだ。埋められるはずだった穴を残すどころか、この上ない迷惑を掛けていくことになる。最悪だ。けれど、どうしようもできない。
「傑」
もう一度、呼び留められる。夜蛾は掛けていたサングラスを外して、傑を見ていた。
「思い詰めることは何もない。バックアップの申し出だけでも充分だ。それにフリーの術師は学生以上にこき使われる。心配するな」
あまりにも不穏当な物言いなのに、あれ以上に心温まる言葉もなかった。夜蛾は淋しそうに目を細めた。
「いつか、気が変わったときには戻ってきてくれ」
「……はい」
いつか。
いつか悟が、総監部や上層部といった役目を担うようになれば、教師も辞めるし、高専に出入りすることもなくなるかもしれない。そんな日が来たならば。
一筋に描いていたはずの未来を、急ハンドルを切るように方向転換した。
卒業式まで何食わぬ顔で過ごして、傑は一切の痕跡を残さずに呪術高専から姿を消した。
他の誰に知られたとしても、悟にだけは知られたくなかった。
狭い歪な世界の頂点に立つ悟には、只でさえ十代にそぐわない課せられた忌み事があるというのに。そこに親友面した同級生が、孕みもしないくせに下心だけは持つかもしれない存在だったなんて、思われたくない。
だって傑は本当に、はしたないばかりの劣情を悟に向けていた。
もうこれ以上、汚い己の何一つも知ってほしくなかった。
二〇一九 穀雨
傑が副担任になったからと言って、毎日顔を合わせるわけではなかった。というよりも初日の顔合わせ以来、高専内で傑の姿をとんと見かけない。
傑はあくまで、悟が任務や総監部からの呼び出しで不在時のピンチヒッターだ。悟が高専にいれば、必然と傑の出番はない。それでも高専の教職員だ。普段は何をしているのか。夜蛾に訊くと、興味深い呪霊の捕獲に行き、他学年の生徒を引率して、さらに空き時間は若い術師達のバックアップだという。
悟は大いに憮然とした。
それだったら、傑が高専に来るまでとまったく何も変わらなかった。
◇
九年前、卒業式直後に傑が行方を晦ませて以来、実質のところ特級術師は悟一人になった。
当然緊急性が高く、高度な任務は悟に集中する。仕方がない。呪霊の等級を見極めた上で、対処できる術師が他にいないのだから。
それがある時期を境に格段に変わった。
アサインされていたはずの任務が日程などの調整中、不意になくなる。それも特級にこそ指定されてなくても一級超と、明らかに高度な呪霊ばかりだ。そんな強大な呪いが自然消滅するわけがない。
同じようなことが何度も続けば、さすがに不可解にも程がある。補助監督を詰問してみた。万が一、総監部の嫌がらせによる放置や、更なる呪霊の強大化を狙っているならとんでもないことだ。
しかし返ってきた答えに拍子抜けした。調査ミスによる等級違いだったという。本当に調査ミスだったなら、それでいい。調査ミスなら等級を甘く見積もる逆のパターンの方が圧倒的に多いが、逆がないわけではない。ただ立て続けに起こったものだから、首を傾げるばかりだった。
何件かを訝しみ、それらの場所を注視していた。あたりまえのように、更なる被害は聞こえてこなかった。
やがて悟は、そのからくりに気がついた。
とある校外任務を引率したときのことだ。
生徒たちが帳から出てくると、微かな残穢が付着していた。入念に拭ったつもりだろうけど、六眼は誤魔化せない。そうでなくても、悟がその持ち主を間違えるわけがない。
残穢は明らかに傑のものだった。
本人が現れたにしては微量すぎる。万が一傑が現れたなら、喩え帳の中でも悟に察知できないはずがない。それはなかった。
だとしたら、帳の中に現れたのは十中八九、傑の手持ちの呪霊だ。本人がどこから操作しているのかまでは追えなかったが、間違いない。遠隔で、生徒たちの祓除をバックアップしていたのだろう。
そもそも呪霊操術とは、そうした術式だ。式神とは比べ物にならない手数の多さ。使い捨てのものから、現場に適合した呪霊まで。それらを自在に出し入れして戦う。それだけなら、本人が現場にいる必要はない。どれほど遠くまで飛ばせるのか聞いたことはなかったが、傑の呪力なら関東一円くらいは十分にカバーできるだろう。
それが、調伏して飲み込むというなら、また話は変わってくる。
悟はハッとしたように、手のひらを拳で打った。
いとも簡単に騙されたものだ。
度重なる高度な任務の変更は、やはり呪霊の自然消滅や等級の見誤りではなかった。単純に、悟以外の術師が派遣されていただけだ。
傑しかいない。傑が呪霊を取り込むために、行ったのだ。
まさに目から鱗だった。
切望していた教師にもならず、傑は高専から出奔した。そんな彼が任務を負うという発想が、悟にはなかった。だけど、そうではないらしい。傑は確かに高専からの任務を受けている。
一級超の大物を自らに取り込むことも、慎ましやかなサポートまでも。
それは在りし日に、傑がなりたいと描いていた教師像の一つでもあった。
傑は高専時代、早い時期から教職を目指していて、夜蛾に相談もしていた。悟がなろうとおもったこともない教師になったのも、傑が目指していたからだ。
悟は生徒たちと高専に戻った。報告書の提出を言い渡すと、業務を切り上げて、教員寮に戻った。
どうして今更。悟は仰向けに転がったベッドの上で、ただ悪戯に木目の天井を見上げていた。
傑がはっきりと進路を決めるきっかけとなった祓除事故があった。高専三年時、後輩たちが向かった任務でのことだった。
夏場が忙しいのは常だが、あの夏は例年と比べ物にならない程、忙しかった。蛆のように呪霊が湧いた。
悟も傑も一旦任務に出掛けると、場所を転々としながら、少なくとも十日は高専に帰れなかった。戻ったところで、またすぐ次の任務を言い渡される。もしくは帰れないまま、出先で新たな任務を負う。学生にあるまじきスケジュールをこなしていた。
そんな折、まさに等級の調査間違いで、灰原が生死を彷徨う大怪我を負った。連絡を受けた悟が駆けつけて、祓除は滞りなく行われた。産土神信仰の土地神の慣れ果て。一級超案件で、当時の七海と灰原では、二人掛かりでも太刀打ちできない呪霊だった。
一命を取り留めたのが、何よりも救いだった。
あれを機に、傑は体術オバケのステゴロに加えて、呪霊の遠隔操作にも一層力を入れるようになった。
等級違いが一番重大なミスだったのはもちろん、悟にも傑にも肩代わりしてやれない程振り分けられた任務があった。単純に能力のある術師が足りていない証左だ。
予めサポートに傑の呪霊を付けていたら、灰原も重傷を負うまえに逃げられたかもしれない。傑はひどく後悔をしていた。まったく傑に責任はないのに。
術師全体の底上げは、長年に渡り目を逸らせない課題でもあった。例えば傑の呪霊をサポートに付けたとしても、階級の低い術師がバックアップばかりを当てにして、成長しないのも困る。それなら、戦い方の見本と共に経験を積む。傑の呪霊の同行は有意義とも云えた。万が一、今回のようなミスマッチがあれば、逃げる盾として使うのもいい。
若い術師は使い捨てにしていい駒ではない。
高専に入学したばかりの頃の悟なら、役に立たない正論の綺麗ごとなんて、と見向きもしなかっただろう。
実力のない術師は死んでいく。
悟が育ってきた呪術界とは、そうした場所だった。力こそがすべてで、弱いものは淘汰されていく。五条の屋敷にも穀潰しとしか思えない輩は掃いて捨てるほどいた。だから悟のように力あるものは重宝される。それゆえに意のままの振る舞いは、誰にも咎められない暗黙の了解があった。
世間の理など、悟が知る由もなかった原因でもある。
傑の考え方は悟にとって時に開眼を促し、時に夢物語のように実現不可能な綺麗ごとでしかなかった。
それが一緒に過ごす時間を重ねるにつけ、前者の重みが勝ってきた。
そうした世界もいいかもしれない。
産声を上げた時から最強と傅かれてきた悟が、初めて思った。
千年と連綿と続く澱み濁った世界を、傑と二人なら変えられる。地道にコツコツだなんて、それこそ力のない輩の妄言に過ぎない。だけど二人でなら、そんな莫迦げた道のりも楽しいかもしれない。
傑に高専の教師になるつもりだと告げられた時、間髪入れずに俺も! と手を挙げた。
そんな悟に切れ長の眸をこれでもかというほど見開いた傑は、直後、目尻をやわらかく撓ませた。
「悟も一緒になってくれるの。心強いね」
何を、どうしたら。
教師としてのビジョンなど、悟の中に一つもなかった。それでも傑の隣にいたならば、これまで何度も塗り替えられてきた世界が、さらにまた変わっていくのを目の当たりにするだろう。
そう考えるだけで、胸が高鳴った。
傑と進む道ならば、どんな方向に延びていたってオールオッケーだ。
それなのに悟に残されたのは、ひとり行く望みもしなかった未知の道筋だった。
なろうと思ったこともない、自分にはこの上なく似合わない後進を育てるという役割。傑が導く方向を一緒に見て、二人で知恵を出し合う予定だったはずなのに。新しく巡ってきた春、傑の姿はそこになかった。
なのに、傑は呪霊を取り込むための任務も行い、嘗て語っていた通りに生徒たちのバックアップもしている。
いつから? そしてどこから。
夜蛾は確実に知っている。傑は非術師家系だ。任務依頼のルートは高専しかない。
それならこんな回りくどいことをしなくても、傑が望んだとおり高専の教師になればよかったのだ。
高度な任務は悟と分け合って、生徒への指導も直接やれば、体術など悟より余程良い手本になるだろう。
わざわざ行方を晦ませて、だけど悟の知らないところで高専とは繋がったまま。その意図するところが何なのか。夜蛾を問い質したところで、絶対に口を割ることはないだろう。脳筋だなんて傑は揶揄っていたが、生徒思いで篤実なことは誰もが知っている。夜蛾にとっては、悟も傑も平等にかわいい生徒たちの一人だ。
だとしたら、どうして。
『悟はタイプじゃないから』
ふと、脳裏に鮮明な傑の声が再生された。
あの日に聞いた、そのままだ。
愕然として、勢いのままに飛び起きた。
どうして傑がいなくなったのか。あれこれ理由を考えては、決定打に至らないをずっと繰り返してきた。が、これで原因がはっきりした。
悟のせいだ。
傑が悟と共にあることを望んでいない。はっきりと伝わった。
何も知らせず忽然といなくなるほどの不愉快さを与えていたのか。
「マジか……」
悟が傑への恋を自覚したのは、高専卒業間近のことだった。
学年が上がるにつれ、別々に赴く任務が多くなっていた。それでも週に一度くらいは顔を合わせたし、食堂で共に食事をする機会だってあった。
傑に会える時間は少なくても、あの頃の悟は術式の精度を上げたり、新たな使い方を模索したり、生まれてこの方傍らにあった呪術にいつになくのめり込んでいた。手数が増えて、できることがより洗練されていく。そうなると単純に、任務先で高度な呪霊とやり合うのが楽しかった。
傑も近接では高度な呪霊を取り込み、遠隔でサポート作業をこなす精度を上げていた。顔を合わせた折には、互いの術式を絡ませて、効果を見せ合った。
最終学年の五年生になると、生活は一変した。
最終的に術師として働きだす前のモラトリアム期。傑は術式の研鑽と新たな手駒を探すために、海外へと旅立っていった。
一方悟は、モラトリアム期など知ったことではない。呪術界の名門、御三家が一つ、五条家の次期当主として呪術師になる以外の選択肢など、生まれてこの方考えたこともなかった。これまでと変わらず任務に赴く日々だった。
成人を迎えるこの年には当主継承の儀も控えていて、空き時間には度々実家を訪れていた。
最初の違和感を感じたのは、いつ頃だっただろう。
研ぎ澄まされた術式を、より洗練された形でぶっ放しても、語ろうにも理解してくれる相手がいない。自慢話がしたいわけではないから、悟と不均衡な後輩たちでは話にならなかった。
退屈だ。久しぶりに、思った。
傑と出会うまえの世界に逆戻りしたみたいだった。世界はこんなにも退屈な空虚で埋め尽くされていただろうか。
たったの四年。されど四年。傑の存在を知らなかった頃には到底戻れそうになかった。
傑はどこへ旅立ったのか。電話もメールも、繋がるときがほとんどなかった。
帰ると約束した日までを指折り数える日々に、春からの新しい生活に思いを馳せた。同じ職場で日々顔を合わせたり、合わせなかったり。だけど住まいはまた隣同士の教職員寮だ。何も変わらない。いや、果たしてそうだろうか。
当主となれば、悟はこれまで以上に次の世代を期待されるだろう。十五で実家を出るまで、用意された女どもには見向きもしなかったし、そうした話題は常に悟を辟易とさせていた。
だから考えてことがなかった。
これまでに傑から、そうした浮いた話を聞いたことがなかった。十分な稼ぎがあるとはいえ、まだ学生だ。悪びれずルールから逸脱するような遊び心も持つ傑だが、根は真面目な優等生だ。卒業したらと考えているかもしれない。そうなれば悟よりも、いずれ見つかる伴侶の方が優先される日が来る。
悟は如何なる時も、傑よりほかに優先すべき存在などいないのに。いない。いるわけがなかった。傑は悟の世界の中心だ。
「あ」
まさに、それが答えだった。
生涯を共にする相手。考えてみれば、傑以外にいない。
だけど、傑はどうだろうか。悟を伴侶として選ぶに、異存があるのは困る。こういうとき、非術師家系とのすり合わせが難しい。
どうしたものかと考えた末に、悟が辿り着いたのが一つのサイトだった。
「傑?」
首元から切り取られた上半身の裸体。一目見ただけで、傑とわかった。僥倖だ。悟でいいのだ。それでも確証を得ようと、傑に見せた。
それが悪夢の始まりだった。
タイプじゃない。
一刀両断だった。
そうして、現実が繋がった。
対象ではない相手からの恋情など、異性であれ同性であれ、不要でしかない。
あの日、想いを告げるには至らなかった。それでも察しの良い傑のことだ。悟が口にしなくても、感じ取っていたのだろう。傑とは親友だった。あの日まで、はっきりと口にしたことはなかったが、生涯において他に得ることができない、唯一無二の。
そうした相手から、性的に見られていた。
ありえないことだ。それこそそんな不快さを、悟は誰よりも理解できる。
下劣さを帯びた執念が、有象無象に渦巻く呪術界だ。精通するよりも幼い頃から、悟を手懐けようとすり寄ってくる輩は、掃いて捨てるほどにいた。
悟の子種を胎に宿し、次代当主を血統から排出したい、歪み切った欲望から来る分家筋の権力闘争。他家を出し抜きたい二流術師しか排出しない家門の、御三家の均衡をこれ以上崩したくない二家からの、牽制と謀略。
年の程近い幼女から、悟を産んだ女よりもずっと年嵩の年増まで。熱を帯びた秋波を送られることも、舐るように下卑たいやらしい目付きで見られることも、悟には茶飯事すぎて、とっくに慣れてしまっていた。
悟から、そんな気配が駄々洩れだったのかもしれない。
悟は熱を帯びた顔を両手で覆った。その場にめり込んで、抜け出してこれないくらいの羞恥を感じていた。
「サイッテーだ」
あの瞬間、傑にとっての悟は、蔑む価値もないような輩どもとほぼ同等だったのか。
だとしたら、この先一生、傑とは顔を合わせられない。どうしたって傑への恋心を捨てられないからだ。
絶望の淵で、それでも悟は自らの恋情を呪いには変えられないでいた。
立夏
傑は一級超任務や遠隔からのバックアップを、今まで通りこなしている。
多忙な悟の代行教員というが、去年までは窓や補助監督で間に合っていた。確かに祓除実習の引率や体術の稽古は、現場にいなくては務まらないし、傑なら適任だ。しかしそれだって今更すぎないか。
当然悟と顔を合わせることはなくて、高専に戻った理由は、依然としてわからない。
結局傑が戻ってきても、悟の生活は一変もしなかった。隣同士に住んでいても、生活は見事なまでにすれ違っている。考えていたすべてが杞憂だった。それはそれで釈然としなかった。
その日も遠方の任務に出掛けたのだろうか。傑の姿は職員室にも教員寮にもなかった。
珍しく定時に上がった悟は、夕食のために麓の定食屋へ向かった。
最寄り駅にある定食屋は元窓が経営していて、高専関係者御用達でもある。不穏な会話も咎められず、気が楽だ。学生の頃からの行きつけで、最近は肉よりも魚メインの定食を選ぶことが多かった。
カウンターで食べていると、ガラリと背後の扉が開いた。
「あ、五条さんっ」
振り向きもせず魚をほぐしていると、跳ね上がるような元気のいい声で呼ばれた。
「灰原、」
「こんばんはっ。お隣失礼します。さ、夏油さん」
灰原は当然のように悟から一つ空けた席に座ると、傑に悟の隣へと促した。一瞬気まずそうに顔が歪む。傑が高専に復帰してから日も経たないが、灰原とは何度か共に来ているのだろう。
学生の頃にも度々あった。俺も一緒に連れてけよっ。任務でいなかったり、喧嘩の最中だったり。行けない理由は様々だったが、悟はいつでも訴えた。はいはい。右から左へ聞き流されても、次の機会に傑は必ず誘ってくれた。
傑は、覚えているだろうか。
「悟、今日は早かったんだね」
おしぼりで手を拭く傑は、悟を見ようともしない。悟も箸先にあるほぐし身に集中しようとした。傑は生姜焼き定食の大盛りを、灰原はかつ丼におにぎりを注文した。
「今日、午後の引率だけだったし」
「大きな任務がない日はありがたいですよね。夏油さんに一年生の体術を見てもらえたんです。また時間あるときにはお願いします!」
「そうだね。今度は二年生と合同でもいいし」
「僕がいない日に?」
「悟が学校にいる日は、私はお払い箱だからね」
「べつに任務とか入ってないなら、一緒に指導してくれたらいいじゃん」
へい、お待ち。大皿にたっぷりのキャベツと飴色の照りが食欲をそそらせる肉が乗っている。丼飯と味噌汁が揃ったところで、いただきますと両手を合わせてる。久しぶりに見た白米の量に、二度見しそうになった。そうする前に一瞬目が合って、すぐに逸らした。何だかバカみたいだ。悟は茶碗の残りの白米を丁寧に寄せた。
「そのときには三年生も一緒にできるかな。二年生は元気がいいから、演習を組ませてみたいね。一度、特級の子も見てみたいんだよ」
「乙骨くん、凄いですよ。体術だけなら自分も負けられないですけど、さすがに特級ですからねぇ。りかちゃんは交流戦では顕現禁止になってるんですよ」
「それはますます見てみたいねぇ」
「いいじゃん、次やれば。日下部さんにも言っとくし」
「本当かい」
「あ、次といえば。五条さん、二十一日に飲み会決定です」
「え~、僕空いてんの?」
云われても悟にスケジュールはわからない。管理はすべて伊地知に任せている。急な予定が入るのもしばしばで、覚えるのは無駄に近い。
「大丈夫です! 五条さんのリスケ確定がさっき出たところって連絡来たばかりです」
「そうなの?」
「そうなんです。伊地知と確認しました。家入さんと七海にも連絡済みです。夏油さんの歓迎会ですよ」
「聞いてない」
明らかに拗ねた声が出た。灰原は気にもしていない。
「五条さんにも伊地知から連絡入ってると思いますよ」
言われて、端末を見た。確かに、その日の全員のスケジュールを抑えたから、夏油を迎えた飲み会開催の知らせが入っていた。幹事は灰原だ。
「家入さんの希望で店は押さえました」
「いくら呑んでくれても構わないけどさ。僕、食べれるもんあるの?」
「大丈夫です。最近は夜カフェも流行りですからね。甘いものも豊富だそうです」
「灰原は、そういうところ抜かりないね」
「もちろんですっ」
満面の笑みを浮かべる灰原は、ぶんぶんと尻尾を振っている柴犬のようだ。学生の頃から三人の距離感が何も変わっていない。二人の間の何もかもだって、変わっていなければよかったのに。
「お先に」
お茶まで飲み干して、悟が立ち上がろうとする。
「え、五条さん。お二人とも帰るの教員寮ですよね」
灰原と家入は、駅の近隣に部屋を借りている。悟にもそうした部屋がないわけではないが、ほとんど寝に帰るだけなのだ。高専内の寮がいちばん動きやすい。
「駅のタクシー、台数ないですよ」
都内とはいえ、辺境だ。いつもいるとは限らない。とはいうものの、いざとなれば悟は飛べるし、傑も手持ちの呪霊がある。タクシーがなくても、帰る手段には困らない。もう学生ではないのだ。筵山を抜けるくらいなら、見つかっても夜蛾に叱られることはないだろう。いや、どうだろうか。変わらず拳骨を喰らう羽目になるかもしれない。
学生の頃は深夜に腹が減ったとラーメンを食べに行ったり、急にアイスが食べたくなってはコンビニに行ったり、理由は様々だけど、深夜に術式を使って寮を抜け出すのは二人だけの特権だった。どうしてだか見つかって、夜蛾に叱られるまでがワンセットだった。
傑は柳眉をハの字にして、中腰のままでいる悟を見上げた。先に帰れと云うのだろう。せっかく灰原と食事に来ているのだ。授業中には話せなかった積もる話もあるかもしれない。行こう。再度立ち上がりかけた悟を、傑が引き留めた。
「悟。急いで食べるから、待っててくれるとありがたいな」
「あ、自分もそうしますっ」
二人が大口を開けて、とんかつや生姜焼きにかぶりつく。
「そんな急くなよ。ゆっくり食べればいいじゃん。どうせこの後、用事もないし。ちゃんと待ってるよ」
ガタンと音を立てて、悟は椅子に座りなおした。
「ありがとう」
「あざまっす」
唱和と共に、悟のまえに新しい湯呑みが置かれた。
「ありがとう」
即座に返すと、傑の箸が止まった。撓む眸のやわらかさは、昔と寸分変わっていない。声はなく褒められた。幼児でもあるまいし、こんな些細なことだ。それなのに、喩えようもないほど胸奥が熱くなる。
悟はむにむにと蠢く唇を、一心に引き結んだ。緩みそうな頬を隠したくて、頬杖をついた。どんなに大きな掌で包んでいても、複雑な感情が入り乱れる顔は、きっと傑に看破されるだろう。
そんな流れなら全部、変わらない気がした。
何もかもを分け合って、じゃれ合い日々を過ごしていた頃と。
そう見えただけだとしても、構わない。
何を思っていたにしても、せめて傑には、何もなかった頃のそのままでいてほしかった。
小満
「ちょ、おまえらこんななるまで呑むなよ~」
硝子の一押しの店だ。余程酒の種類が豊富だったのだろう。気づけば酒豪組が悉く潰れていた。
硝子も七海も、口にも態度にも出していなかったが、傑が高専に復帰したのが余程嬉しかったのか。学生時代の寮内での飲み会よりも酷い状態になるとは、思ってもみなかった。
「タクシー呼ぶから。灰原は七海、伊地知は硝子、責任持って送って行けよ」
はーい。灰原の元気が良すぎる返事も若干怪しいが、途中まで悟と甘味バトルを展開させていたし、伊地知は一番年下のせいか、このメンバーの飲み会で深酒はしない。
「ほら、傑。立って」
一台ずつタクシーを見送った。最後に悟は傑の腕を肩に回して、担ぐように立ち上がる。みっちりと筋肉に覆われた頑健な身体が、さらに脱力して圧し掛かっている。呪力で強化してなかったら、到底この重さでは運べそうにない。タクシーを降りたら寮までは、それこそ飛んだほうがよさそうだ。
傑は完全に寝落ちていて、悟の肩を枕にしていた。
片方の意識がないとはいえ、一緒に帰寮するのは先日鉢合わせた定食屋以来だ。あのときは帰りのタクシーでも生徒たちの指導について話していたが、何といっても数が少ない。ぽつりぽつりと交わしていた言葉は、高専に着く頃には尽きていて、鳥居をくぐる頃には、既に無言だった。
嘗ては寝る間を惜しむほど話したいことだらけで、会話が尽きることなどなかったのに。離れていた時間のせいではない。タイプではないと振られたせいで、親友としての距離感を失ってしまっていた。
悟は肩に凭れている傑の顔をまじまじと覗き込んだ。どちらかといえば年上に見られた顔立ちに、漸く年齢が追いついた感じか。下ろすようになった髪型も、よく似合っている。
目に見えて変わったところはわかりやすい。だけど変わらないところもあるはずだ。なのに悟には、まだ何の実感も湧かない。とにかく一緒にいる時間が少なすぎた。
率直に淋しい。
でもそれを口にするのは憚れる。傑の意向が何もわからないせいだ。
「おまえ、ホント何で帰ってきたの?」
訊いても、答えるのは静かな寝息ばかりだ。溜息ともつかない深い息を吐き、悟は窓の外へと目を向けた。
手を掛けた隣室のドアノブは回らなかった。鍵が掛かっている。当然か。でも学生の頃にはありえなかった。寝落ちしようものなら、適当に自分のベッドに転がしていた。けれど今はそういうわけにいかない。
「傑。傑。鍵は? 部屋の鍵、鞄の中? ポケット?」
どっちも漁るわけにはいかないから、起きてもらうしかない。
「えぇ、かぎぃ?」
一先ず床に降ろして、身体を揺する。覚醒とは程遠くても、意識は浮上したようだった。
「かぎ、かばん」
傑はファスナーを開けることもなく、悟に押し付けてくる。
「いいの? 開けるよ」
「んー」
すぐにキーケースが見つかる。開くと掛かっている鍵は三つ。寮室と、職員室の机とロッカー。悟が持っているものと全部同じだ。他に吊るしていないということは、これまでに住んでいた場所は処分してきたのだろうか。
急な行き場はなさそうだ。知ると、気色悪いほどに嬉しくなってしまった。どうしようもなく、変われない。
すぐに鍵を開けて、部屋に押し込んでしまえばいいのに。悟は肌寒い廊下にしゃがんだまま、まだ動きたくなかった。
「さとるぅ、どうしたの?」
傑は壁に凭れて、くてんと手足を伸ばしている。酔いが醒めていないからだろうか。再会してからは見たことのない、やわらかな顔をしている。いつも隣にいた頃のように。悟を甘やかしてくれていた頃のように。
ぎゅうと胸の裡が痛くなる。
悟の不用意さが、傑から歩むべき未来を奪ったのかもしれない。たぶん、そうだ。今更のように押し寄せてきた感情。これが後悔というものだろうか。そんなものとはとんと縁のない人生なのに。
傑ひとりいるだけで、悟の何もかもがとっ散らかってしまう。
「さとるぅ、こっち、座りなよ」
自分の部屋と勘違いしているのだろうか。傑は固い床をとんとんと叩いた。
早く部屋で寝かせてやらないと、風邪を引くかもしれない。いや、傑は丈夫だからこれくらいは平気だろうか。
「さとる」
逡巡を打破するように、語尾を延ばすことなくはっきりと呼ばれる。抗えず、悟は腰を下ろした。傑のジャケットの端を摘まんで、無下限の内に入れる。
「むずかしいかおをしてるね。どうしたの?」
気の抜けた声で訊かれると、余計に身体が沸騰しそうになった。お前のせいだ。叫んでやりたい。だけどそれも八つ当たりに過ぎない。それくらいは判るようになった。
学生の頃、硝子が傑のことを、情緒教育係とよく揶揄っていた。うるせー。その度に舌を出したものだが、本当のところ、まったく間違いではない。傑は、それまでに必要としなかった感情の多くを悟に抱かせた。釈然としないムカつきだって、少なくなかった。でもそのどれも、心の底から嫌だったことなどない。噛み砕くように反芻して、結局はそのほとんどを受け入れていた。
「さとる?」
一言も返さないせいだろうか。傑は額を寄せるようにして覗き込んできた。近くて、でも離れがたい。そうして、こういう距離感だったと思い出す。
0距離。歌姫にはギャースカと喚かれて、七海は思い切り顰めた顔を逸らした。硝子は慣れたか、諦めたのか。はたまた、日常茶飯事すぎて、表情筋を動かすことすら面倒だったのかもしれない。
できることなら、戻りたい。親友なのだ。失くせなくても、隠し覆すことはできる。独りになってから、すっかり腹芸を身に着けた。
「傑さぁ」
「なに?」
「傑は何で戻ってきたの?」
一瞬瞠った白目の中で、小さな金茶の眸が泳いだ。いつかのように、眉もハの字に下がり切る。うーん。もごもごと歯切れが悪く、意味のなさない唸りを溢す。そうしてこてんと首を傾けて、曖昧な笑みを零した。酔っていても、口を割ることがないのか。
傑の酒の失敗の覚えはない。硝子ほどのワクではなくても、十分にザルだった。
「言いたくない?」
金茶の眸から逸らさないまま、訊いた。どんなときも誠実でいたい。これ以上、離れないために。
傑はふふ、と笑った。仕方がないなぁと、諦めてくれる貌をしていた。
「さとるとは、もうすぐ会えなくなるだろう。だからその前に、」
言い澱んだ傑に、肚底が沸き上がる。
「ま、」
慌てて口を手のひらで覆った。心臓が痛いくらいにポンプしていた。目の前が真っ赤だか、真っ暗だか、一人帳の中に取り残されたように、不鮮明だ。
悟は立ち上がり、傑の部屋の鍵を開けた。
「廊下、寒いから入って。すぐ寝ろよ。おやすみ」
返事を聞くよりも早く扉を閉めた。すぐさま、隣の自室に飛び込む。
「あっぶね~」
靴も脱がずに、頭を抱えて蹲った。
また置いていくつもりなのか。
激高の果てに詰るところだった。悟は詰めていた息を、大きく吐きだした。そんなことをしても意味はない。それよりも、傑の真意を聞き出せた成果を役立てるべきだ。
もうすぐ会えなくなる。傑は言ったけど、これまでだって顔を合わせる機会などなかった。それでも気配は感じていた。行かなかった任務に。帳から出てきた生徒たちに。無事に帰ってきた若手の術師に。
少しずつだが、年々増えていく生徒の数にも。
会えなくなるというからには、そうした活動もやめるのだろうか。
傑は、海外に出たっきりほとんど帰らないもう一人の特級術師、九十九に感銘を受けていたところもある。五年生の頃には長期で外遊にも出ていた。また海外に行くのだろうか。それならば、確かに会えない。海を越えては、さすがに呪霊の遠隔もできないだろう。
だから、そうなる前に来てくれたのか。もしかしたら、悟との蟠りを解いておきたかったのかもしれない。
都合の良すぎる解釈だけど、いなくなるというのなら悟も遠慮していられない。今生の別れになんかしたくない。傑を送り出すにしても、またここに帰ってこようと思わせなくてはならなかった。
「タイプじゃなくたって、親友だろ」
視線を向けた壁の向こう。きちんとベッドで寝ているだろうか。次があったら、押し込んで毛布まで掛ける。在りし日のように。さすがに隣で雑魚寝はできなくても。