コイヌとオトコとあくまのはなしコイヌとオトコとあくまのはなし
カラン、コロン。
古い時計台の鐘の音が鳴り響く、この国一番の大きな街。石畳みが続く裏通りにそのケーキ屋さんはあります。三つ葉マークの看板がかわいい小さなお店は、昔から街で人気のケーキ屋さんの息子が立ち上げた二号店。素朴で優しい味の焼き菓子や色とりどりの豪華なケーキは一口食べれば幸せになれると、噂を聞きつけたお菓子好きの人たちが毎日訪れます。
お店ができたばかりの頃ほとんど来なかったお客さんは日に日に増え、たった一人でお店を切り盛りしている青年は最近なんだか大忙し。朝早くから夜遅くまで働く青年を陰ながら見守っているのが、ぬいぐるみのデイヴィスでした。
まだ朝も暗いうち、ジリリと鳴る目覚まし時計を止めてデイヴィスはベッドに眠る青年を起こします。青年の住処はお店の二階部分でした。
「ぬいぬ、ぬぬ」
コイヌ、起きろ、とデイヴィスは青年の緑色の髪を引っ張りました。デイヴィスは青年のことをコイヌと呼んでいるのです。立派にケーキ屋さんをやっている青年も、ぬいぐるみとして長年苦楽を味わってきたオトナのデイヴィスの前ではまだまだ若いもの。
「うーん……あと、すこし……」
むずがってくるんと丸くなるコイヌの様子に、デイヴィスはふぅと溜め息を吐きます。
「ぬいぬ、ぬーぬ」
今日は二十人前のバースデーケーキの予約があるだろう、とデイヴィスが耳元で囁くと、やっとコイヌの目が覚めました。
「そうだった!」
飛び起きたコイヌがばたばたと身支度を整える間、デイヴィスはキッチンボードのポップアップトースターにホワイトブレッドをセット。ぽんっ、とこんがり焼けたトーストには四角く切ったバターをトッピング。マグカップにはティーバッグを入れて、お湯が沸くのを待つのです。
本来ならばこの国の紳士としては、もっと優雅な朝ごはんととびきりのモーニングティーを愛する人に用意してやりたいところ。しかしコイヌはとっても忙しい上にデイヴィスはぬいぐるみなので、なかなかそうはいきません。バタートーストと薄い紅茶をお腹に流し込んだコイヌは、ケーキをたくさん焼くために慌てて一階に降りていきました。
デイヴィスのお仕事もまだまだこれから。お店のキッチンの真ん中にある作業台の上へ、引き出しの取っ手をはしご代わりに登ったら、コイヌが縫ってくれたエプロンと手袋を着けます。イチゴのへたを取ったり、ビスケットを袋詰めしたり、ラムレーズンの味見をしたり。一日じゅう働くコイヌを手伝ってせっせと動き回るのがデイヴィスの日常。
それでもちっとも大変だとは思いません。デイヴィスは今のこの生活をとても気に入っているのです。ケーキ屋さんのコイヌとの暮らしは、ぬいぐるみとして長く生きてきたデイヴィスが初めて手にした幸せでした。
デイヴィスは今の形に生まれ変わる前、デビルと呼ばれていました。もじゃもじゃの髪、ぎらりとあやしく光る両目、するどい牙にとがった角やしっぽ。恐ろしくて卑しいヴィランのぬいぐるみだったのです。
デビルはみんなの嫌われもの。何かと悪さをしてはヒーローにこてんぱんにやられるのがお仕事。誰かの手で作られた後やんちゃな男の子に贈られたデビルは、毎日毎日男の子に叩かれ、ぶん投げられ、踏みつけられ、剣で刺される役ばかりしていました。ぬいぐるみだから痛いことはありません。人間の子どもに遊んでもらうのがおもちゃの使命。どんなに酷く扱われようとデビルはじっと耐えていました。
周りの他のおもちゃたちはいつも楽しそう。カウボーイ人形はみんなの中心で、どんな時も正義の味方。宇宙飛行士のロボは子供たちの憧れですから、宝物として大事にされています。お気に入りのおもちゃたちはお出かけにも連れて行ってもらって、男の子のお友だちと一緒にお茶会ごっこをしているみたい。けれどもデビルは見向きもされず、遊ぶ時以外は真っ暗なクローゼットの中にあるガラクタ箱に押し込められる日々。とても孤独でしたが、これがヴィランのぬいぐるみとして作られた運命なのだとデビルはちゃんと分かっていました。
そして持ち主の男の子が少し成長した頃、デビルのやっつけられ役のお仕事は一つ目の終わりを迎えました。男の子は新しいテレビゲームに夢中になり、ぬいぐるみ遊びには目もくれなくなったのです。デビルはクローゼットの奥に仕舞われたまま、男の子からもおうちの人たちからも忘れ去られました。
その次にデビルが明るい場所へ出たのは、十年以上が経ったある日のこと。デビルの持ち主だった男の子はいつの間にか大人になり、結婚して赤ちゃんが生まれたようです。クローゼットから引っ張り出された埃まみれのデビルに待っていたのは、その赤ちゃんにもてあそばれる第二の使命でした。
赤ちゃんは最初の持ち主だった男の子の幼い頃にそっくり。デビルの足やしっぽを掴んでぶんぶんと振り回します。時に噛まれたりもしました。元々古傷があちこちにあったデビルの体はだんだん壊れ始めました。自慢のグラスアイやモヘアの髪はちぎれてなくなって、頭と体をつなぐ縫い目まで裂けてきてもうぼろぼろ。
そんなかわいそうなデビルを見て赤ちゃんのママが言ったのです。新しいのを買ってあげるからもう捨てちゃっていいわね、と。そしてその日の夜にデビルはおうちの前の道路にゴミとして出されてしまいました。
これが自分の最期なのだろうかと、デビルはゴミに埋もれながら考えました。ここで待っていればゴミを集める車がやって来て、地獄みたいなところに連れて行かれて燃やされてしまうのだと、近所の物知りネコから聞いた覚えがあります。それはおもちゃにとって死ぬということ。
ヴィランのぬいぐるみとしての役目は十分果たしたのかもしれません。デビルをやっつけてはヒーロー気取りをしていた男の子の顔を思い出します。あの時たしかに男の子はデビルとのごっこ遊びに夢中になっていました。
喜ばせてあげられたからそれでいい、このまま燃やされてしまうのが自分に与えられた未来。そう分かってはいても、デビルの心のどこかがずきずき痛みます。
オレも、一度くらい抱きしめてもらいたかったな。
お茶会に呼ばれてみたかったな。
もう両眼がないので涙は出ません。けれどもデビルの胸の中は涙の海のようでした。さびしさに溺れてしまいそうになって、諦めきれなくて、デビルはぼろぼろの体に残った力を振り絞り立ち上がったのです。
「ぬぅ……!」
ふらふらの足をどうにか動かしてデビルはゴミの山を離れました。前は見えないけれど、どこにも行くあてはないけれど、自分の足で進むというもう一つの道を選んだのです。
それからしばらく、デビルはホームレスぬいとして生活していました。道を歩いていると人間に見つかりそうになったり車にひかれそうになったりするので、なるべく自然の多い公園でかくれんぼ。鳥や虫たちがもうすぐ雨が降るよと教えてくれたら、屋根のあるあたたかい場所でこっそりと眠っていました。
コイヌに拾われたのはそんな暮らしに慣れてきた時のことです。それが街のどの辺りだったかは今となっては分かりません。何せデビルには目がなかったのですから。その頃のデビルは物音や匂いだけを頼りに動いていました。落ちていた枝をステッキ代わりに、よたよた、よろよろ。
その日は朝から虫たちが大雨が降ると言って、忙しなく隠れ場所を探していました。デビルもどこかで雨宿りをしようとしたのですが、安全なところを見つけるよりも早くどしゃ降りになって体が濡れてしまいました。ぬいぐるみは綿でできていますから、水を吸うと重くなって思うように動けなくなります。ざあざあと降る雨の中をデビルは足を引きずりながら進みました。しかし目が見えないデビルにとって大雨の音と匂いは大敵。どっちへ進んでいいか分からなくなり、足が前に出なくなった瞬間、デビルは水たまりの中に倒れたのです。雨が止んで体が乾くまではこのままでしょう。どうかその間、人間に見つかってまたゴミ箱に入れられませんように。
そこへ、ぱしゃ、ぱしゃ、と水を踏む音が近付いてきました。人の気配だと感じましたが、もうデビルの体は動きません。
「……落とし物か?いやそれにしては……」
人間がデビルを見て言ったようです。遠のく意識の中、デビルがデビルとして聞いた最後の言葉になりました。
(続く)