書きかけ世界屈指の魔法士養成学校であるナイトレイブンカレッジには、その歴史ある石造の校舎のどこかに「気まぐれな部屋」と呼ばれる空間が存在しているとの噂がある。その部屋は甚大な魔力を持っており、大変危険だとして学園側は生徒達に見つからないように細心の注意を払っているのだが、恐れ知らずの十代の若者達にとってはそれが逆に興味をそそるらしい。ナイトレイブンカレッジ生なら誰しもその流説について一度は耳にしたことがある、というのが現状だ。学園長の素顔を見たら死ぬ説、中庭の井戸底なし説と並んで、摩訶不思議の一つとして語り継がれている。
噂によれば、気まぐれな部屋はその中の様子が入る度に変化するからそう呼ぶのだと言う。果てしない広さだったり身動きさえ取れないほどの狭さだったり、気温は極寒から酷暑まで、ジャングルのように草木が生い茂っている場合もあれば、一流ホテルのスイートルームと見紛うような室礼の時もあり、パターンは様々。
それだけならば面白い魔法だと片付けられてしまうところだが、この部屋の仕掛けはもう一つある。
一度その中に入ってしまうと、ある条件をクリアしないと出られない仕様になっているのだ。その条件もまた気まぐれに都度変わるものであり、中に入った者は課された何かしらを成し遂げることでしか脱出できない。代々の生徒達が伝え聞くところによると、その脱出条件には目隠しをして魔法薬を飲めといった度胸試しのようなものから歌を歌えといった単純なものまであるらしく、難易度もランダム。数分で出られることもあるが、何時間も閉じ込められてしまうことにもなり得るのだそうだ。
入学直後上級生から仕込まれるNRCあるあるの定番として有名なその隠し部屋は、毎年何人かの新入生が好奇心に駆られて真偽を確かめようと校舎内を嗅ぎ回る。この凹んだ部分が怪しいんじゃないか、などと壁の石ブロックを叩いている一年生の姿は秋の風物詩だ。しかし教師陣が余程巧妙に封印しているのか、近年辿り着いた者は一人もおらず実在するのかは不明のままである。
少なくとも、この学園に入学して三年目になるトレイ・クローバーにとっては「気まぐれな部屋」なんてものは信憑性の低い与太話でしかなかった。
ハーツラビュルの副寮長であるトレイはこの学園においては殊更珍しい穏健派だ。荒事を好まず、毎日平和に生きたいと心から願っている。しかし、自己主張でギラギラに武装したトラブルメーカーだらけのナイトレイブンカレッジでは問題の渦中に身を置かないという選択は難しい。つまり、厄介から完全に距離を置くのではなく適度に先回りして被害を最小限に減らす、という処世術が有効である。
特に二年生になって副寮長という立場を任されてからは、不穏な空気を察するとつい先回りしてあれこれと世話を焼いてしまう癖が身に着いた。揉め事の解消や悩み相談、法律破りをそれとなく注意したり落第間際の後輩に勉強を教えたり、誰かの失敗をカバーしたりと、その暗躍は枚挙にいとまがない。寮にまつわる厳格な精神や規律を重んずる長が怒り狂うのも、そして寮内の士気が下がるのも避けたいがため、身を挺して働かざるを得ない。家では三兄弟の長男なので歳下の面倒を見慣れていることもあるだろう。のんびり穏やかに過ごしたいという本人の意思とは裏腹に、トレイの学園生活はそこそこに騒々しくかなり波瀾万丈であった。
そんなトレイが周囲を気にせずに好きなことに没頭出来るのは、寮のキッチンでケーキを作っている時か、放課後の部活動に勤しんでいる時か、だ。特にサイエンス部は「何でも部」と呼ばれるほどに活動が幅広く、自由にやらせてもらっている。料理と化学は相性がいい。ケーキ作りに使う果物の栽培は目下の楽しみで、出来た苺をタルトにすれば寮長の機嫌も取れて一石二鳥というわけだ。
今日は液体肥料の調合をしようと、授業を終えたトレイは実験室に向かっていた。この時間なら恐らくそこに「彼」がいるはずだ。トレイは脳裏に白黒の影を思い描きつつ実験室の扉を開ける。他の部員がいなければ二人きりだろうな、と心のどこかで思ってもいた。だが果たして、そこには予想通り彼の姿がありはしたが、よく見るとトレイの思惑とは違う光景が広がっていたのだ。
「あーーっ!またやり直しかよ!」
室内に足を踏み入れたトレイの耳に入ったのは、よく知る後輩の声だ。大抵この時間の実験室にはその日の授業の後片付けをしている彼しかいないのだが、今日は様子が違っていた。同じ寮の後輩である一年生二人、そしてオンボロ寮の監督生とその親分が一つの作業台の周りに集まっている。実験着姿の三人と一匹は渋い顔で机上の実験器具を見つめていて、どうやら最後の授業の実験が終わらず居残りをさせられているらしい。
「クローバー、いつものか?」
いち早くトレイの気配に気付いたのは彼だった。居残り組を見張っていた彼は振り向き、微かに表情を和らげる。トレイの姿を目にしただけで何をしに来たのかを察したようだ。
いつもの、で通じてしまう会話に微かなくすぐったさを感じながら、はい、とトレイは苦笑した。
「悪いが、今はこのバッドボーイどもの課題を終わらせるのが先だ」
「はは、うちの一年坊がすみません……。俺は一人でも大丈夫ですよ。自分で出来ますから」
基本的に実験器具の使用は理系科目の担当教師でありサイエンス部の活動も監督している彼の管理下でのみ許される。常は薬を調合するトレイの手捌きを見ながらああだこうだとアドバイスをくれるのだが、今日は一年生の問題児達から目を離せないようだ。既に三年生ともなるトレイが遠慮するのは当然だった。
後輩達が作業している台から少し離れた場所でトレイは一人で準備を始める。慣れた手つきで必要な物を並べつつ、彼と後輩達の様子を横目で眺めた。
教鞭であれこれと指示しながら噛み砕くように魔法薬について説明する彼の横顔はとても真剣だ。その派手な容姿からすると意外だが、彼は教育熱心で生徒思いなのである。きっと今日もあの四人がきちんと内容を理解し実験を成功させるまで帰しはしないだろう。
トレイは彼のそんなところを素直に尊敬していた。だからこそ、少し残念にも感じてしまうのかもしれない。一年生達にかかりきりになっている彼を見ると、幼少の頃弟妹が生まれて両親を独り占め出来なくなった時の気持ちを思い出した。無論今では兄として弟妹を可愛がっているが、甘えたい欲求が自分にもあったなとトレイは一人笑う。