いけず(紡紅) 不思議と目覚ましよりも先に起きたから、シャワーを浴びた。濡れた身体を洗い立てのタオルで拭いて白いシャツを羽織ると、柔軟剤の柔らかい香りが鼻を掠める。この家に自分以外の誰かが住んでいる、という痕跡の数々は未だに慣れない。
洗面台の鏡に映る自分は、自然と上がってしまう口角を必死に下ろそうとしていて、ひどい有様だった。これで名俳優とは。看板に傷をつけぬよう、気をつけないと。
それもこれも全部紡くんのせいだ。俺がこんな腑抜けになってしまったのは。それに、彼と過ごす時間増えるほど不安になる。
この幸せはまやかしで、俺はいつも夢を見ているんじゃないかって。
「だから跡、つけて欲しいのに」
傷一つない自分の鎖骨を指でなぞる。昨夜彼の唇や指先が撫で、吸い付き、愛されていた感覚を思い出すように。
「万が一のことがあったらどうすんだよ」
本当は俺の全部を君のものにしたいくせに。俺がいくら強請ったって君は俺に情事の証どころか傷の一つすら付けてはくれない。
壊れ物に触るみたいに繊細に、おっかなびっくり俺に触れる。くすぐったくていっそ一思いに抱いてくれとさえ、思う。けれど、己の欲望と俺自身を天秤にかけ、それでも俺を優先させる君の辛そうな表情が俺は好きだった。
あまりの強情ぶりに腹が立って仕返しにと、寝ている彼の身体の至る所にキスマークを付けたこともあった。着る服がないだの、場所を考えろだの、文句は言うくせに。やめろとは言わない。
なんだ。結局紡くんだって俺とおんなじで淫らな行為の痕跡を欲しがってるんじゃないか。
思わず詰った俺の言葉に、流石の紡くんも腹を立てた。しばらくは寝室が別になったのも今では笑い話。……俺の中ではね。
「今日は随分お寝坊さんだね」
ぐーすかと大口を開けて息をしている頬をつっつく。小さくうめいた彼は身体を小さく丸めた。まだ寝ていたいらしい。
「それじゃあ、俺。今日はもう出るね」
無防備なうなじに口付けを一つ、二つ……。彼が根を上げるまで何回も。
「……っ! な、にしてん、だよ」
「寝たふりなんて酷いじゃないか」
丸まっていた足が、だんだんと猫のようにぴんと伸びる。そのコミカルな動きに思わずくすりと笑みがこぼれた。
「だって昨日、夜遅かったし」
「もう一回っていってやめなかったの誰だっけ」
ベッドの上から起き出してきた彼は、胡座のまま頬をかいた。罰が悪そうにしている。全面的に俺が悪いのに、君はちっとも怒らない。その態度はさ、悪戯してくれと言っているようなものだと思わない?
「今日は首の空いた服着ない方がいいと思うよ」
俺はにっこりと笑って立ち上がると、手のひらをひらひらと振った。流石にもう出ないと。
「ばっ、か! 紅陽、お前また……!」
焦った紡くんが俺の横を通り過ぎて洗面所に駆けていく。ぶつくさ文句を言いながら俺が付けた場所がどこか確認しているに違いない。彼は首が隠れる服をあまり持っていないから、今日の外出はきっと延期になると思う。
そうやって貴重な休みの日を俺のことで頭をいっぱいにしながら過ごせばいい。俺も君の怒った顔と困った顔を交互に思い出して笑うから。
ねえ、紡くん。ほんとはね跡なんてひとつも付いてないっていったら、どうする?