最悪執念とは凄まじいものだ。頸を落とされ体だけになった鬼が、隊士目掛けて飛び掛かる。宇髄は自身の周りにうろつく数体の鬼の頸を斬り落としてから、そこへ急いだ。混乱に陥った隊士はわめき声を上げて、無茶苦茶に刀を振り回す。
「バカがっ‼」
宇髄が日輪刀を一振りすれば、あんな鬼など直ぐに斬れる。しかしなりふり構わず攻撃を出す、隊士の次手が読めない。無鉄砲な攻撃は恐ろしい。更に予測不可能な立ち回りも加わると、尚更だ。どう動くべきか。宇髄は一旦、二人から離れた。未だ余力のある鬼はクネクネと体を歪めて攻撃を避けながら、鋭い爪を掲げる。
「テメェの相手はこっちだっ!」
宇髄は鬼の背後に廻り込んだ。理性的判断を失った隊士は尚、乱雑に刀を振る。自身にも向く刀を避けていたら、思うように動けない。クソっ。舌を打つ一瞬の間を突かれ、鬼の爪は宇髄の右腕を掠った。
「攻撃はいいから、逃げろっつってんだ!」
宇髄の怒声にやっと状況を掴めた隊士は、転がりながら横に逃げる。遮る物がなくなった宇髄は、日輪刀を隆椎目掛けて振り下ろした。
「えらく時間が掛かったが、コレで終わりだ!」
そのまま一気に下方まで降ろし、胴体を真っ二つに切り裂く。地面に落ちていた鬼の顔が苦痛に歪み、崩れていく。鬼の体も塵となって宙に舞い、消え散った。
「宇髄さん、す、すみません…」
我に返った隊士は宇髄の腕を見て、声を震わせ土下座をした。鬼の攻撃を受けたそこに、薄っすらと血が滲む。幾ら仲間を庇ったとはいえ雑魚鬼相手に怪我を負うとは、情けない。柱までの道は遠い。ハアッと溜息を吐けば、目の前の隊士がビクリと肩を上げた。
「あぁ?テメェにじゃねえから、気にすんな。それより行くぞ。テメェもあちこち傷だらけだろうから、胡蝶に苦い薬でも処方してもらうんだな。まぁ、二、三日寝てりゃ、そんな傷直ぐに治るだろう」
「は、はい…」
叱責を受けるだろうと思っていた隊士は、安堵のあまり正座のまま腰を抜かしていた。世話が焼けるぜ。今度こそ隊士に嘆息を浴びせ、宇髄は彼を抱えて山を降りた。
任務で負傷した者が訪れる診療所の一つは、一隊士である胡蝶カナエが請け負っていた。その理由の一つは、胡蝶が医療の知識に長けている事。もう一つは、負傷する隊士が増え、診療所の数が足りない事だった。ここを訪れ、傷付いた隊士を見る度に宇髄は、鬼の並外れた力と隊士たちの力不足を痛感していた。
「宇髄さん。右腕はどうされました?」
背負っていた隊士をボンッとベッド投げれば「痛っ!」と悲鳴が上がる。悪ぃ、と軽く謝ってから、胡蝶が指さす自身の右腕を軽く叩いた。
「ちょっと鬼の爪が当たったけだ」
普段から負傷の少ない宇髄の傷に、胡蝶は一瞬だけ眉を顰めた。しかし何も問わない。大方、予想が付いているのだろう。余計な事は言わない胡蝶とのやり取りは楽だった。
「軽い傷でも油断は禁物です。化膿しないように、洗ってからこちらをつけてくださいね」
はいどーぞ、と渡された小さなブリキの丸い缶を宇髄はまじまじと見つめた。
「どうされました?毒なんて入っていませんよ」
柔和な声と笑みは隊士の間では、天女と称される。この笑顔に騙されぬよう、宇髄は「遠慮する」と、美丈夫の笑顔を返す。
「良~く効く……、薬ですよ」
「妙な間は何だよ」
「お気になさらずに」
「お前、そう言って、前回も俺で試しただろう?」
「お気付きでしたか?でも、宇髄さんのお陰で効果がある事が分かりました。なので今回も、ご協力お願いします。仲間の為に」
ほら、と蓋を開けたアルミ製の缶の中には、真緑色の軟膏が入っていた。開けた瞬間、宇髄の鼻の奥に刺すような痛みが走る。
「いってぇ!胡蝶!今度は何を使った!」
「ドクダミです。傷に効果があるんですよ」
「んな事、知ってるわ!何でドクダミが、こんな魚の腐ったような臭いがするんだよ!」
「さすが宇髄さん、ご存知でしたか。通常は乾燥したものを使いますが、生の葉の効果を知りたくて、試しに作ってみたんです。もしかしたらそちらの方が、効き目があるかもしれないでしょう?塗ったら、臭いの消える時間を計っておいてくださいね。その臭いで、任務に支障が出てはいけませんから。直ぐに消えるものでしたら、処方箋として作りたいと思います。負傷した仲間たちの傷が、一日でも早く治れば、任務に出る者も増えます。その為の研究の一環を宇髄さんに協力して頂けるなんて、本当にありがたい事です」
「俺は今まで、一度も同意した事はねえよ」
「でも、断らないでしょう?ありがとうございます」
笑みを崩さぬまま一方的に会話を締めた胡蝶は、ベッドに横たわる隊士の診察を始めた。前言撤回。楽なんかじゃない。やはり胡蝶は苦手だ。
絶えぬ笑顔は、穏やかさから来るものでは無い。心の奥底に押し込んだ影を隠すものだと思う。それを知りたいとも思わないが、時に本人はそれを武器として使っている気がして、いけ好かない。顔を合わせる合う度、押し付けられる無理難題を断れない自分も大概だが。
「胡蝶、失礼する」
宇髄が軟膏の入った缶を隊服のポケットにしまうのと同時に、一人の男が入室した。
「煉獄さん、こんにちは。怪我人ですね。あちらのベッドが空いていますよ」
胡蝶は宇髄の時と同じように、笑顔で迎え入れる。男は小脇に抱えた一人の隊士を、窓際のベッドに横たえた。男の名は煉獄槇寿郎。鬼殺隊最強と言われる柱の一人の炎柱で、最古参でもある。柱として一目を置かれる一方で、余り良くない話も聞く。宇髄はこの男に会うのは今日が初めてだった。
「両足首骨折と、右足の靭帯損傷。一時しのぎの固定をしただけだ。後は任せる」
「分かりました。こちらの方の診察が終わりましたら、診ますね」
必要最低限だけを伝え、煉獄は負傷した隊士に背を向けた。隊士は慌てて上半身を起こすが、足首に走った激痛に顔を歪める。
「炎柱っ!助けて頂き、有難うございます。で、でも鬼の頸すら斬れず、足手纏いばかりで、申し訳ありません。俺、一日でも早く治して、稽古を付けて、これからは一体でも多く鬼の頸を斬ります!」
見た所十代半ばの少年は、無言の背中に早口で思いの丈をぶつける。少年が抱えるのは、自身の不甲斐なさへの失望。誰もが通る道だ。宇髄はそれを静かに見ていた。
「それが何だ」
自身の未熟さに打ちひしがれている少年に、掛けられた言葉はそれだけだった。部屋を出て行く煉獄を見送る隊士の顔が、みるみる青褪める。堪える涙が決壊を破り、頬を濡らす。優しい言葉など期待していなかっただろう。激昂されるのも覚悟の上で伝えたかったのは、命を救ってくれた事への感謝。そして己の弱さを乗り越えようとする、隊士としての決意。しかし煉獄は、そのどれにも向き合わなかった。
「す、すみません……」
嗚咽すら漏らせぬ隊士は、汚れた隊服のズボンを握り締める。その爪先は痛い程、白くなった。この少年に慰めの言葉が必要だとは思わない。同情もしない。命を懸けた戦いに出る者には、時に非情で冷徹でなくてはならない。しかし宇髄はどうしても解せなかった。ここに入ってから、炎柱が左手に握っていた物が。
「煉獄さん、ちょっといいか?」
宇髄の声で、廊下の先を歩いていた足が止まる。ゆらりと振り向いた煉獄は、忌々しそうな渋顔を作った。そんな事は気にせず、宇髄は普段通りの口調で歩み寄る。
「任務に酒を持ち込む柱って噂は、本当だったんだな」
煉獄の目は鋭い。しかし宇髄の言葉で、動じる様子は微塵も感じられない。
「任務中に飲酒なんて、自制出来ないのもどうかと思うけど?」
煉獄は黙ったままだった。どうやら会話をする気もないらしい。しかし宇髄は言葉を続けた。
「酒を飲んで、真面に任務を熟せるとは思えねぇ。今はいいとしても、その内酒にやられて体が着いていかなくなる。足手纏いの酔っぱらいの柱なんて、笑い話にもなんねぇな」
自身より上背のある宇髄に見降ろされても、煉獄は一向に口を開かない。隊士と相和する事のない、炎柱だと聞いている。別にここで議論を果たせるとも思っていなかった。はい、そうですか、と素直に耳を傾ける人間だとも思っていない。自分の事など相手にならないのだろう。
「言いたい事はそれだけだ」
据えた目で宇髄を見ていた煉獄は、その顔に冷笑を浮かべた。
「ここ最近出没するのは殺傷能力の低い鬼ばかりの筈だが、随分と手古摺ったんだな」
煉獄の目線が、宇髄の右腕に突き刺さる。初歩的な失態なのは、百も承知だ。嫌味には嫌味で返すとは、なかなかの性格をしている。無視を決め込むかと思った炎柱がそう来るなら、もう少し言わせてもらおうと宇髄は応戦する。
「確かに、俺にはアンタ程の力はない。まだまだ、任務に行って傷を負う事もある。雑魚鬼相手に、命を落とし兼ねない事もある。でも俺は己の命を自分で護りながら、命を懸けて必死で戦っている。アンタみたいに中途半端な状態で、戦ってねぇ。己の命を軽んじる奴など、俺は柱とは認めない。例え弱くても、足手纏いになってもひたむきに戦う、さっきの隊士たちの方が鬼殺隊として誇らしいぜ」
宇髄の思いに煉獄はヒック、としゃっくり一つで答える。内心で沸く苛立ちを、宇髄は懸命に抑えた。煉獄は右手に持った瓶に口を付け、ぐびぐびと喉を鳴らして酒を流し込む。馬鹿にされているのか、甘く見られているのか。そのどちらでもあるだろう。
「誇りがなんだ。そんな大層な物を持って、何が出来る。鬼を狩れるのか?無惨の頸を斬れるのか?理想を抱くのは勝手だが、俺には関係ない。興味もない。そんな夢物語など、ガキ同士でのんびり話し合えばいい」
「あぁ、アンタに何と言われようと、俺は鬼殺隊としての誇りを大切にする。それを持って戦いに臨む。誇りすらどっかにやっちまったアンタとは違う。酒臭い柱なんて不快極まりないから、もし今後アンタと任務が一緒になった時には、鬼よりも先にその酒瓶を切らせてもらうぜ」
「つまらん……」
煉獄は忌々しそうに、濁った低い声を吐き出した。
「弱い犬ほど、吠えるとは言い得て妙だな。無傷で鬼も倒せぬヤツが、上官相手に上手い嫌味でも言ったつもりか?それで満足したのか?そんなくだらない愉悦に浸るよりも、稽古の一つでも熟そうと思わないのか?ああ、そうか。傷を負っていては無理だったな。今日は布団に包まって、治したらどうだ?」
「はああぁっ!」
遂に宇髄は声を上げた。煉獄は眉間に深い皺が刻み、右手で片方の耳を塞ぐ。
「ここは入院している患者もいる。周囲への配慮が出来ぬとは、ガキ以下だな」
グイッと酒を煽り、煉獄はこれ見よがしに大きな呼気を吐き出した。手にしていた酒瓶からは、申し訳程度の水音しかしない。
「空か…」
チッと舌を鳴らし、煉獄は背を向けて玄関に向かった。炎柱の関心はもう、無くなった酒にしかない。宇髄がどんなに叫ぼうが、嫌味を言おうが、振り向く事はないだろう。
「クソ酔っ払いが…!」
宇髄は小さく、悪態をついた。
何なんだ、アイツは!生きて来た中で最も最悪な人間だ。怒鳴りたい衝動は、先程の煉獄の言葉で抑え込まれる。静かに扉を開け、宇髄は診察室に戻った。
「あら宇髄さん、もしかしてもう、軟膏を試してくれたんですか?」
「それは帰ってからだ。それより、別の薬を出してくれ」
「他にどこか痛みますか?」
煉獄に連れて来られた隊士の足は福木で固定され、真っ白な包帯が巻かれていた。数分前の出来事を引き摺る少年は、窓の外を見ながらむせび泣く。それを見た宇髄の苛立は、更に募った。
「あの酔っぱらい柱のせいで、人生最大の胸糞の悪さを味わってんだ。何かこう、胃のムカつきが落ち着くモンねえ?」
「酔っ払い柱…?あぁ、煉獄さんですか。あの方と一対一でお話されるなんて、宇髄さんも怖い物知らずですね。相手にされなかっただけでなく、癇に障る事を言われたのでしょうか」
見てもないのに良く分かるな、と宇髄は感心する。「大変でしたね」と言いながら、胡蝶は急須に茶葉と湯を入れていた。
「周囲が何を言っても、煉獄さんが変わる事はないのでしょうね…」
茶を蒸す間、胡蝶はポツリと呟いた。煉獄が酒を持ち込む理由は誰も知らない。憶測だけが回っている。しかしどんな理由があるにせよ、酩酊状態で臨む任務は危険だ。命を守る男の、命を粗末にする行動が宇髄は許せなかった。
酒に逃げた柱に言い放たれた言葉が、グルグルと頭を駆け巡る。宇髄は足で床を踏み鳴らして、茶が出て来るのを待った。
「宇髄さん、お待たせしました。味わわずに、一気に飲み干してくださいね」
胡蝶が差し出した湯呑の中には、一見してほうじ茶に見える茶色の液体が入っていた。礼を述べ、宇髄は無臭のそれを一気に飲み干す。
「……っ!」
「宇髄さん、吐き出さないでくださいね。それはセンブリ茶ですよ。以前、飲まれた時に、二度と飲まないと仰っていたのに、今回もあっさり飲まれましたね。苛立ちは禁物ですよ。こうやって苦手な物を出されても、判断が鈍ってうっかり飲んでしまいますから」
嘔吐禁止を言い渡された宇髄は、素直に苦い茶を胃に落とした。しかし喉に張り付いた苦みは消えない。
ニコニコと穏やかな笑みの胡蝶とこの苦みで、数ヶ月前の忌々しい記憶が蘇る。どのお茶が好みですかと、出された数個の湯呑。中を見れは同じ茶色でも、茶葉の量の違いで濃さがまちまちだった。あの時、何故茶の名前を聞かなかったのか。そして何故一番濃い物を選んでしまったのか。宇髄の悪運の強さに喜んでいたのは、満面の笑みを浮かべた胡蝶だった。煉獄のお陰で、酷い経験をすっかり忘れていた己を殴りたい。
「冷や水なら有りますけど、お口直しに飲まれます?」
「飲む!」
普段甘いものを好まない宇髄だが、背に腹は代えられない。一気に飲み干す様子を、楽しそうに見る胡蝶の顔など気にしていられない。苦みを流す甘味に、こんなに感謝した事は無い。
炎柱が酒を煽る一方で、自分は甘い砂糖水を飲み干す。
「クソッ!」
どこまでもガキな自分に、宇髄は今日一番の舌打ちをした。