瑞雪舞う、初恋「痛え……」
頭の中に、脈を打つような痛みが走る。腰付障子を透過する朝の優しい光が、やけに眩しく感じる。形容し難い初めての疼痛と不快感で、今は布団に体を沈めるしか出来ない。
「宇髄君、今、白湯を持ってくる。無理をしないで、横になっていなさい」
気遣う声は優しい。だからこそ、こんな姿は見せたくない。
「こ、んなん…、だ、い、丈夫だ…」
敷布団に掌を着き、片膝を立ててから一気に立ち上がる。瞬間、ガツンッと側頭部に突き刺すような痛みが走り、宇髄は呻き声を上げて布団に倒れ込んだ。
「今は、安静にするのが一番だ」
ほんの一瞬、声の主の手が背中を擦る。
「止めなかった私にも責任はある」
自責の念に駆られる言葉を否定したい。しかし足音は遠のき、その人が部屋を出て行くのが分かった。追い駆けたいのに、手すら伸ばせない。胃の中がうねり、吐き気が込み上げて来る。
(くっ、そ…。まさか酒にやられるなんて…。情けねえ…)
呼吸でどうする事も出来ず、宇髄は目を瞑ってこの痛みに耐えた。苦痛の中、あの人が撫でてくれた、背中に残る熱に縋りながら。
◇◇◇
「天元様、おかえりなさい。外はかなり冷えたでしょう?」
「心配しましたよ。御体は大丈夫ですか?」
黄昏れの空の元、屋敷に戻った宇随をいつものように三人の妻たちが出迎える。体調に変わりが無いか、頭のてっぺんから爪先まで、隈なく全身を見られるのも、日常の事。しかし雛鶴とまきをの気遣いの後に続く須磨の言葉に、宇髄はをバツの悪さ感じた。
「まさか天元様が二日酔いで倒れるなんて、思いもしませんでしたよ!あんなにお酒に強かったのに!一体全体、どうしちゃったんですか?」
「‥‥どうもしねえよ」
それ以上は聞くな。内心を背中で示すが、無邪気な須磨は「いっぱい飲んじゃったんですか?」と質問を止めない。宇髄の意を察知したまきをの「黙りな!」と同時に、須磨の「いたあいっ!」という叫びが、後方から聞こえた。まきをが須磨の頭を叩いた事が、容易に想像出来る。これも日常の光景。宇髄は大きく溜息を吐きながら玄関に入り、肩から滑り落ちる羽織りを雛鶴に渡した。
「虹丸が教えてくれたんです。天元様がそれはもう、楽しそうに飲んでお話をされていたと」
「‥‥」
「あの方と初めてご一緒されたお酒は、美味しかったですか?」
赤い紅が引かれた厚い唇が、クスリと艶のある笑いを零す。
「まあ、な」
「あああっ、やっぱり!天元様のはしゃぐ姿、見たかったです!」
「俺は、はしゃいでねえよ!」
「そうですか?だってお顔に、楽しかったって書いてありますよ!」
いつの間にか腰に抱き付いていた須磨の言葉で、思わず顔を擦る。隣に立ったまきをと目が合い、慌てて手を下ろすが何となくバツが悪い。ニコリと笑みを浮かべたまきをは、興味深げに宇髄の顔を覗き込んだ。
「三人で話していたんですよ。上機嫌でお酒を召し上がる天元様を、見たかったて」
「別に、俺はいつも機嫌良く飲んでいるだろう」
「ええ。でも、昨夜は更に、でしょう?」
まきをがそう言った後、三人は顔を合わせて笑みを作る。こうなったらもう、何も言えない。隠し事も出来ない。所謂、女の勘というものには、元忍びで元柱の手腕を持っても敵わない。
「ああ、楽しかったよ。ただ、今は一人にしてくれ」
「勿論です!」
フンッと鼻息を荒くする須磨の横で、雛鶴が白い紙を差し出した。
「私達充てに、今朝、あの方の鎹鴉が届けてくれました」
「お前達に?」
驚いて目を丸くする宇髄を見て、妻たちの目はキラキラと輝く。
「ええ。文面からも、誠実な人柄が伝わってきます。天元様、読まれますか?」
「…読む」
「どうぞ」
逸る気持ちを抑え、敢えて緩やかにそれを受け取る。今直ぐに見たい衝動も抑えて懐に仕舞い、平常心を装って廊下に出た。
「楽しかったて、言っていましたね!」
「あの天元様が深酒なんて、どれだけ盛り上がったのか…。ああ、気になる!」
「今は昨夜の思い出にゆっくり浸りたいでしょうから、お一人にしてあげましょう。話を聞くのはその後ですよ」
廊下からは、桃色に染まった三人の蜜語が聞こえる。自室に一人になった宇髄は盛大な溜息を吐いた。
「何でアイツ等に…」
ボスンッと派手な音を立て、宇髄は座布団に腰を据えた。懐から出した手紙に皺をつけぬよう、慎重に開く。和紙に並ぶ、整った美しい文字に溜息が出る。香を焚いた訳でもないのに、柔らかな匂いすら感じる。頭語から結語まで、一文字も逃さないように凝視してから再度文頭に戻り、何度も何度も文字を追って、目に焼き付けた。書かれた文字を指でなぞり、皮膚に感触を記憶させた。
昨夜、飲み過ぎによる二日酔いで、苦しむ自分を介抱してくれた人。この手紙を書いた、煉獄槇寿郎の顔を思い出しながら。
『初めてお便り差し上げますこと、はなはだ失礼とは存じますが…』
丁寧な書き出しから始まった手紙に書かれていたのは、二人で飲む機会を設けてくれた妻たちへの感謝と、それが槇寿郎にとって心が躍るように楽しく、宇髄に必要以上に酒を勧めた為、宿酔いで苦しませた事を詫びる内容がしたためられていた。
全ては自分のせいだとういう、槇寿郎の責任感の強さと生真面目さ。しかし実際は違う。それは、この手紙を読んだ妻たちも分かっている。だからこそ先程、楽しそうに笑みに花を咲かせていたのだ。
飲み過ぎたのは、宇髄自身のせい。楽し過ぎたのは宇髄の方。それでも、自分との酒の席を『心が躍るように楽しく』などと書かれたら、こちらの胸が跳ね上がるのも仕方がない。
槇寿郎の屋敷で行われた、二人だけの小さな宴。誘ったのは宇髄。場所を提案したのは槇寿郎。
「久し振りの酒に潰れて、君に迷惑をかけては申し訳ない」
理由は至極真っ当だ。己の体の心配と、同席する宇髄への気遣い。しかしたまたまとは言え、息子たちが不在の槇寿郎の家に誘われたその事実に、宇髄は心の中で拳を掲げた。
宇髄が持参した酒と肴。槇寿郎が用意した物と合わせ、大量の食事が座卓に並ぶ。
任務に酒瓶を持ち込んでいた時は、ものの数十分で空にしていたという噂があった槇寿郎だが、今、目の前で飲む姿にその粗暴さは見られない。口に含んだ酒の味と匂いを感じてから、飲み込む。きっと本来はこうやって、静かに飲んでいるのだろう。美しい箸の持ち方。猪口に付ける唇の形の良さ。上下する喉仏の優雅な動き。笑うとなだらかに下がる眉尻の曲線。低く深みのある声。
その全てを自分だけが見ている。自分だけに見せてくれている。
そう思うだけで、体中の血の巡りが早くなる。鼓動が大きく鳴り響く。嬉しい。こんな昂揚感は知らない。しかし妻たちは知っていた。
(天元様、それは『恋』って言うんですよ)
日頃、槇寿郎の事を話す時の自分は、妻たちには子どものように無邪気に見えるらしい。
酒に溺れた己の弱さ向き合える素直さ。そこから這い上がる心の強さ。柱まで上り詰めても独善的にならず、後輩である竈門に己の非を詫びる謙虚さ。生真面目で、照れ性な彼は、話をしてみると意外にコロコロと表情が変わって、面白い。とりとめのない会話をしても飽きない。波長が合うだけ。ただ、それだけだ。
それを恋なんて、何を馬鹿な事を。あの時は、そう鼻で笑った。しかし今なら認められる。ずっと見ていたい。話をしたい。声を聞きたい。感情が槇寿郎に囚われている。これはそう、恋なのだ。好きだ。目の前で笑う、この人が好きなのだ。
「こんなに楽しい酒は、久し振りだ。きっと、君と飲んでいるからだろう」
「俺も、旦那と飲めて楽しいよ」
煽る酒の、どれが辛くて、どれが甘いなんて、もう違いが分からない。分からないが、どれも旨い。舌では無く感情で堪能する酒は、今まで味わった事のない最高の美酒だ。
「早過ぎないか?」
少し砕けた言葉。屈託のない笑顔。猪口を空ける頻度が早くなった槇寿郎の姿に、心を許してくれたと勝手に解釈し、徳利を持ち上げる。
「だって嬉しいんだよ、旦那とこんなにじっくり話が出来て。だから今夜はここにある酒を二人で全部飲んで、語り合おうぜ」
「君のように酒に強くないから、相手が務まるかどうか…」
眉間に寄せる、少し困った表情。自分がそうさせた。初めて見た戸惑いの顔に見惚れながら、槇寿郎が差し出した猪口に酒を注ぐ。目の前に来た指は長く、節が目立つ。無骨なそれに自分の指先が触れただけで、熱を持つ。少しの触れ合いですら嬉しい。その初心さに、我ながら驚く。まさか自分が、こんな地味な恋の仕方をするとは。しかしそれもまた、心地良い。
槇寿郎が注ぐだけでは追い付かず、宇髄は手酌で美酒を注ぎ、間断なく体内に収めていく。「大丈夫か?」そう気遣う槇寿郎の声も心も顔も、全て自分にだけ向けられている。
「酒は旨いし、好いた相手と一晩中飲めるなんて、派手に幸せじゃねえか…」
それが心の声なのか、口から発せられたものなのか分からない。ふらつく頭が思考を鈍らせる。体から力が抜けていく。ふわふわとした浮遊感が気持ち良い。
「俺さあ、恋してんだぜ。旦那に…」
机に顔を預け、閉じていく宇髄の瞳が捉えたのは、口も目も大きく開き、顔を真っ赤に染める槇寿郎だった。それは自分と同じように、恋をする顔。そう都合の良い解釈に酔いながら、宇髄は夢の中へと落ちていった。
そうして迎えた朝。宇髄は布団の中で、人生で初めての二日酔いに苦しんで目を覚ました。この大きな体を布団まで運び、片付けの全てをした槇寿郎に謝罪を述べれば、彼も又、自身が宇髄を止めなかった事を詫びた。
(俺が勝手に飲んだだけだから、アンタは悪くない)
そう言いたいのに、顔を上げただけで激痛が頭に響く。
燦燦と輝く太陽が西の山に傾いた頃、ようやく宇髄は悪酔いから醒め、槇寿郎の屋敷を後にした。背中に掛かる声を聞き返す事もなく、足を進める。朔風を受けた羽織が、激しくはためいていた。
槇寿郎からの手紙を丁寧に折り畳みながら、宇髄は己の醜態を思い出す。制御出来ない昂揚感に任せて大量の酒を浴び、酔い潰れ、介抱された。あまつさえ、心の声を漏らした。聞かれた。良い大人が子どものようにはしゃいで、酩酊状態で思いを告げた。
「地味に格好悪ぃ…」
情けない自分に、気持ちは日没のように沈んでいく。しかしこの気持ちは捨てられない。くすぶる思いの行方に憂慮し、顔を上げれば、外縁に煉獄家の鎹鴉である要が鎮座していた。その後ろに見える庭には、いつの間にか白い雪が薄っすらと積もる。
「おまっ、いつの間に…」
主に似て礼儀正しい要は一礼をしてから、嘴に挟んでいた手紙を宇髄に差し出した。
「旦那から…?」
羽根に載った雪を宇髄の手で払われた要は、丸い頭を下げて問いに答えた。静かに羽根を広げ、闇夜に消える要を見送ってから、宇髄は手の中に収めていた紙を開いた。妻たちに送られた手紙同様、そこには流麗な文字が並ぶ。宇髄の体調を気遣い、飲ませ過ぎた事への詫び、酒席を設けてくれた事への礼。自分の醜態に触れないのは、槇寿郎の気遣いだろう。少しの気まずさで苦笑いをした宇髄は、結びの挨拶に目を止めた。
『今夜は雪が降りそうです。温かくしてお過ごしください。』
ありふれた締めの文。手紙はそこで終わっているのに、左手の中にはまだ、畳まれた紙が握られている。そこをゆっくり広げていくが、続くのは空白。違和感を覚えた宇髄は、残りの紙を一気に広げた。そこに書かれていたのは、一首の歌。
我が背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しからまし
愛しき人と雪を見て、共に喜びたい。
そんな思いが込められた歌を贈る槇寿郎の意図を探り、宇髄は舞い散る夜雪を見つめた。槇寿郎は今、誰とこれを見ているのだろう?誰と見たかったのだろう?
肌を刺す、凍てつく風が宇髄の頬を撫でた。
「地味で、格好悪い恋の始まりも悪くないもんだな」
緩んでいく頬を見られれば、きっと妻たちは笑みを浮かべるだろう。それもまた良いもかもしれない。
心の芯に火が灯る。派手さのない静かな灯は、思いの外、宇随の恋心を心地良く温めてくれた。